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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2022年11月1日〜10日

11月 1「ヨハネによる福音書53147
 わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。
(ヨハネによる福音書5章32節)
わたしたちは何によって、イエス様を信じるのでしょうか。キリスト教の書店に行くと、様々な聖書の解説本が並びます。中には「3日でわかる聖書」のような本も出版されています。
ヨハネ福音書のイエス様の言葉は、正直とても難しいです。この言葉が理解できないと滅ぼされるのであれば、多くの人がつまずくことでしょう。しかし神さまは、ご自分の愛を伝えるためにイエス様を十字架につけるという選択をされました。
わたしたちはたとえ神さまのことを頭で理解できなかったとしても、神さまから与えられるみ言葉を心に留め、神さまの愛を感じていけばよいのです。イエス様の十字架と復活をいつも思い起こすこと、これがイエス様を受け入れることにつながるのです。
11月 2「ヨハネによる福音書6115
 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
(ヨハネによる福音書6章9節)
聖書の四つの福音書にはすべて、「5000人の供食」と呼ばれる物語が載せられています。しかしこのヨハネ福音書には、他の福音書に見られない大きな特徴があります。それは一人の少年の存在です。
聖書では少年となっていますが、おそらく奴隷だっただろうと思われます。彼が手にしていたのは大麦パンと魚でした。大麦パンはとても堅いため、家畜のエサとして使われていました。また奴隷の食料でもありました。
少年はその大切な「大麦パン」をイエス様に差し出しました。周りの人はその質と量に、眉をひそめたでしょう。しかしイエス様は、その「貧しい献げ物」を喜ばれ、大きく用いてくださったのです。イエス様の前に、「つまらない物ですが」という謙遜はいらないのです。
11月 3「ヨハネによる福音書61621
 そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。
(ヨハネによる福音書6章17節)
湖の上を歩くイエス様の話は、マタイおよびマルコ福音書にもあります。しかしそれらの福音書には、強いて弟子たちを舟に乗せるイエス様の姿が描かれていますが、ヨハネにはありません。「イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった」とだけ書かれます。
まるで弟子たちは、イエス様の存在を忘れたまま舟を出してしまったかのようです。でもその姿は、イエス様のことを忘れ、自分のことだけを考えながら歩んでしまうわたしたちの姿と重なるようにも思えます。
しかしイエス様は、必ず来てくださいます。わたしたちがたとえイエス様から離れて勝手な行動を取ったとしても、荒れた湖の上に静かに歩いて来てくださいます。そしてわたしたちの舟に乗りこまれ、目的の場所まで導いてくださるのです。
11月 4「ヨハネによる福音書62240
 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
(ヨハネによる福音書6章35節)
「御利益宗教」という言葉があります。その宗教を信じることで、自分に利益が与えられるという意味ですが、わたしたちの信仰は神さまに対して、ご利益だけを求めてはいないでしょうか。
5000人の供食を目にした人々は、イエス様を捜します。彼らはイエス様を、自分たちの王にしようとしました。ユダヤ人という枠組みに入った人だけを、救いに導いてくれる救い主になって欲しかったのです。
しかしイエス様は、目に見えるパンで自分の周りの人だけを救う方ではありませんでした。命のパンとなってすべての人を救うことが、神さまのみ心であり、イエス様の歩む道だったのです。すべての人とは、すべての場所や時代に生きる人々のことです。
11月 5「ヨハネによる福音書64159
 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
(ヨハネによる福音書6章56節)
キリスト教がまだ公認されていなかった頃、その礼拝の様子を伝え聞いた人たちは、恐怖を覚えたそうです。「彼らは人の肉を食べ、人の血を飲んでいる。とても恐ろしい儀式をしているようだ」と。
わたしたちも聖餐式の中で、「あなたのために与えられた主イエス・キリストの体」という言葉とともにパンを受け取り、「あなたのために流された主イエス・キリストの血」という言葉とともに杯を手にします。
この「肉」と「血」の解釈はカトリックやプロテスタントで違いがあるものの、「わたしたちを生かす」ために与えられたものであることは確かです。そしてそれは、魔術でも怪しい儀式でもなく、神さまからのお恵みなのです。
11月 6「ヨハネによる福音書66071
 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
(ヨハネによる福音書6章66節)
今日の場面の最初に、弟子たちのこのような言葉があります。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」。これを言ったのは「弟子たちの多くの者」と書かれていますが、「こんな話」とは何のことでしょうか。
聖書には、多くの「つまずきの石」が散らばっています。嵐を静めた話、わずかな食べ物で多くの人を満腹させた話、悪霊を追い出した話、病人がいやされた話、死者がよみがえった話。そして何よりもイエス様の降誕と復活は、多くの人にとって「つまずきの石」となるのです。
神さまはあえて、わたしたちの前に「つまずきの石」を置かれます。そしてわたしたちがイエス様に対し、「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と告白するのを待っておられるのです。
11月 7「ヨハネによる福音書719
 公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。
(ヨハネによる福音書7章4節)
ヨハネ福音書の舞台は、ガリラヤからエルサレムへと移っていきます。そこにはイエス様の兄弟たちもいました。彼らはイエス様に対し、「人々の前で自分を世に現したらどうだ」と言います。
ガリラヤでのイエス様の言動を目の当たりにしてきた彼らは、エルサレムというユダヤの中心地で不思議な業をおこなった方が、何かをおこなうのに手っ取り早いのではないかと進言したのでしょうか。しかしそもそも彼らは、イエス様を信じてはいませんでした。
兄弟たちはイエス様のそばにいつもいたので、イエス様のことを何でも知っていると思っていたのでしょう。しかし一番肝心なところの理解が、できていなかったのです。「世間が認めれば、認めてやってもいい」という思いもあったのかもしれません。
11月 8「ヨハネによる福音書71024
 うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。
(ヨハネによる福音書7章24節)
イエス様は兄弟たちに「わたしはこの祭りには上っていかない」と言われていましたが、ひそかにエルサレムに上って行かれました。そして祭りの中盤になると、神殿の境内で教え始められました。
イエス様に対して否定的な考えを持っている人たちは、イエス様を様々な理由で裁こうとします。しかしイエス様はその行為を、「うわべ」の行為だと批判し、正しい裁きをするようにと命じます。
本質を見ずに、うわべだけで人を批判すること。わたしたちもそのようなことをしてしまうことはないでしょうか。規則や原則、建前だけを大事にして、本当に大切なことから目をそむけてしまう。そうならないように、気をつけましょう。
11月 9「ヨハネによる福音書72531
 人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。
(ヨハネによる福音書7章30節)
ガリラヤからイエス様を見て来た人たちは、彼の出身地がナザレという小さな村であり、彼の父親は大工であったことを知っていました。メシアはどこから来るのか分からないと信じられていたので、イエス様はメシアではないと人々は考えたようです。
しかしイエス様は、自分は神さまの元からやって来たと語ります。そして自分は神さまを知っているとも言います。このことを多くのユダヤ人は、神さまに対する冒涜だと考えました。
しかし群衆の中には、イエス様を信じる人も大勢出てきます。イエス様の言動によって、分裂が起こっていくのです。わたしたちにとってもイエス様を信じ従うことは、様々な軋轢や対立を伴うことなのかもしれません。
11月 10「ヨハネによる福音書73239
 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。
(ヨハネによる福音書7章38節)
イエス様は「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」という言葉を、祭りが最も盛大に祝われる終わりの日(新しい翻訳では「祭りの終わりの大事な日」)に大声で言われます。この言葉は4章のサマリアの女性との会話を思い起こさせます。
38節には「聖書に書いてあるとおり」とありますが、イザヤ書58章11節には「主は常にあなたを導き 焼けつく地であなたの渇きをいやし 骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる」とあります。
またエゼキエル書47章には命の水が神殿の聖所からあふれ出てくるという幻が描かれます。イエス様はその栄光(十字架)によって、わたしたちが渇くことのないように、命の水である霊(聖霊)を与えて下さるのです。

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