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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2022年10月21日〜31日

10月 21「ヨハネによる福音書14351
 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」
(ヨハネによる福音書1章50節)
ヨハネ福音書はアンデレとペトロの召命物語の次に、フィリポとナタナエルの物語を描きます。フィリポは他の福音書の12弟子リストにも登場しますが、ナタナエルはヨハネ福音書にしか登場しません。
バルトロマイがナタナエルと同一人物だという説もありますが、イスラエル12部族の数を想起させる「12弟子」にするため、便宜的にリストを作成したのでしょう。イエス様の弟子の中には女性もいたというのも、最近では定説になっています。
アンデレ同様、フィリポも伝道者とされました。イエス様に従ったフィリポは、すぐにイエス様のことをナタナエルに伝えます。ヨハネ福音書は、伝道する弟子の姿をわたしたちに示しているのです。※このフィリポは使徒言行録8章に出てくる福音宣教者フィリポとは別人です。
10月 22「ヨハネによる福音書2112
 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
(ヨハネによる福音書2章6節)
ガリラヤのカナでの婚礼で、イエス様は水をぶどう酒に変えるという「最初のしるし」をおこなわれました。ただこの出来事だけを見ると、お酒がなくて困った新郎を助けてあげたという、ほとんどの人には関係ない話のようにも思えます。
しかしここで、イエス様が用いた「水がめ」について、説明したいと思います。ユダヤ人は食事の前に水がめの水を使って、手や体を清めていました。水がめは「清め」の象徴であり、水がめの水によって汚れた人々は、食事の交わりから排除されていました。
その水がぶどう酒に変わったということは、それまで排除されていた人が喜びの祝宴に招かれるということです。どんな人でも共に食卓を囲むことができるように、「清めの水」は廃棄されたのです。これこそが、イエス様のおこなったしるしなのです。
10月 23「ヨハネによる福音書21325
 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
(ヨハネによる福音書2章19節)
イエス様がエルサレム神殿で商人を追い出した記事は、他の福音書にも書かれています。しかしそれらの福音書が伝える時期(イエス様の十字架の直前)とは異なり、ヨハネでは「最初のしるし」の直後の出来事として描かれます。
イエス様が見たのは、犠牲の動物の販売や両替と称して弱い者から搾取する商売人の姿でした。神さまと人とが交わる場所であるはずの神殿はお金によって支配され、腐敗したものとなっていました。
そこで神さまがなされた決断は、「今ある神殿を壊し、新しく建て直す」ということでした。建物ではなくイエス様を通して築かれる新しい神さまとの関係に、人々を導くことでした。そのために、十字架と復活が必要なのです。
10月 24「ヨハネによる福音書3121
 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
(ヨハネによる福音書3章16節)
イエス様の元にやって来たニコデモは、ファリサイ派の一人でありユダヤ人たちの指導者でした。彼は夜、イエス様を訪ねます。仲間たちに見られたくなかったというのもあるでしょう。またこの世界が闇に包まれていることを暗示しているのかもしれません。
イエス様とニコデモとの会話は、すれ違っているようにもみえます。ニコデモはイエス様のことを、頭で理解しようとしているのかもしれません。しかしそのニコデモに対し、イエス様は「小聖書」(聖書全体を要約した一文)と言われる3章16節の言葉を伝えます。
神さまはこの世を愛されている。だからその独り子をこの世にお遣わしになられたのだ。そう聞いても、ニコデモは理解できなかったかもしれません。しかしイエス様の十字架を通して、ニコデモは神さまの愛に気づくことになるのです。
10月 25「ヨハネによる福音書32230
 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。
(ヨハネによる福音書3章29節)
イエス様は人々に洗礼を授けておられました。この記事はヨハネ福音書にしか書かれていないので、意外に思う方も多いかもしれません。洗礼者ヨハネの弟子たちは、人々がイエス様の方に行っていると、洗礼者ヨハネに訴えます。
洗礼者ヨハネの弟子たちは自分たちの先生よりも、イエス様の人気が高くなっていることに対して、不安を覚えていました。しかし当のヨハネは、自分は道備えに過ぎないことを自覚していました。
「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」という洗礼者ヨハネの言葉は、イエス様にのみ光を与えるものです。日本聖公会初代主教C.M.ウィリアムズを称する「道を伝えて己を伝えず」という言葉が思い起こされます。
10月 26「ヨハネによる福音書33136
 神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。
(ヨハネによる福音書3章34節)
この31〜36節は、誰の言葉なのでしょうか。30節から続いていると考えると、洗礼者ヨハネの言葉のようにも思えます。しかし内容をみると、そうでもないようです。福音書の記者であるヨハネが属していた共同体の信仰告白なのかもしれません。
上から来られる方というのは、イエス様のことでしょう。しかし人々は、その方の証しを受け入れることができませんでした。その方には神の霊が与えられ、神の言葉を語っているにもかかわらずです。
わたしたち人間はずっと神さまに背いて来ました。神さまがその独り子であるイエス様を遣わされても、その愛に気づくことができませんでした。しかし神さまは、それでもなおわたしたちを愛してくださいます。イエス様の十字架は、その愛のしるしです。
10月 27「ヨハネによる福音書4126
 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
(ヨハネによる福音書4章15節)
イエス様は正午ごろ、サマリアの女性に「水を飲ませてください」と言われます。当時、ユダヤ人はサマリア人を蔑み、関りを持ちませんでした。また公の場で男性が女性に声を掛けること、特に教師がそのようなことをすることはタブーとされていました。
彼女はイエス様の声に驚きます。タブーを破ったこともそうですが、人に声を掛けられたくないと彼女は思っていたからです。ユダヤでは水汲みは涼しい時間におこなうのが普通でした。しかし彼女は、誰からも声を掛けられない時間を選んでいたのです。
彼女は人々から、「淫らな女性」と思われていたのかもしれません。しかし彼女は不幸な結婚生活の被害者だと言えます。彼女の心はいつも渇き、命の水を求めていました。その水を、「水を飲ませてください」と言ったイエス様が持っておられることに気づいたのです。
10月 28「ヨハネによる福音書42742
 さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。
(ヨハネによる福音書4章29節)
周りの人の目を恐れ、一番暑い正午ごろに水を汲んでいた女性は、イエス様との出会いによって変えられました。彼女は水がめをその場に置いて、すぐに町に向かいました。そして人々に、イエス様のことを証言していくのです。
「伝道」とは、自分が得た知識を他の人に伝えることでしょうか。このサマリアの女性のようにイエス様によって変えられ、その喜びを全身で表現し、人々に伝えて行く。それが大事なのではないでしょうか。
町の人たちは、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない」と言います。彼女は言葉だけで人々を導いたのではありません。人々に、「自分たちもイエス様に出会いたい」という気持ちを持たせたのです。これが道を伝えるということなのです。
10月 29「ヨハネによる福音書44354
 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。
(ヨハネによる福音書4章50節)
昨日の箇所の中で、サマリアの人たちは「わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」と言いました。彼らは「聞いて」信じます。つまり耳で聞く信仰です。
それに対し、イエス様の故郷であるガリラヤの人たちは、これまでのイエス様の行動やエルサレムでなさったことを「見て」いました。「見て」からでないと信じられない信仰は、本当の信仰とは言えないのかもしれません。
息子を癒やして欲しいと願う役人は、イエス様の「帰りなさい。あなたの息子は生きる」という言葉だけを信じて帰りました。「聞く信仰」、わたしたちにとっても、とても大切なことだと思います。
10月 30「ヨハネによる福音書5118
 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」
(ヨハネによる福音書5章10節)
ベトザタとは恵みの家という意味ですが、そこには病気で苦しんでいる人たちが大勢いました。そこに一人の人が横たわっており、イエス様はその人に話しかけました。「良くなりたいか?」。
普通であれば、「はい、良くなりたいです」と答える場面です。しかし彼は、自分が置かれた現状や、やるせなさをイエス様に告げます。愚痴のようにも聞こえます。彼はこれまでも何度も失望し、悲しい目にあったのでしょう。
イエス様は彼に、「起きろ」「床を担げ」「歩け」という三つの命令を与えます。その一つ一つは、今の苦しみからの脱却です。「起きる」という単語は、「復活」も意味します。彼は新しい生を、歩み出すのです。ところがそこに、異論を唱える人たちが登場してきます。
10月 31「ヨハネによる福音書51930
 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。
(ヨハネによる福音書5章20節)
昨日の箇所に、ユダヤ人たちがイエス様を迫害し始めたという記事が載せられていました。理由はイエス様が安息日を破ったこと、そしてイエス様が神さまをご自分の父と言い、自分を神さまと等しい者とされたことでした。
しかしイエス様は、さらに言葉を続けていきます。父である神さまと、子であるご自分との関係について語っていくのです。そしてユダヤ人にとって、これらのイエス様の言葉は神さまを冒涜しているものとなります。
ヨハネ福音書には、イエス様の言葉や説教が多く載せられています。その言葉によってユダヤ人の怒りは増大し、イエス様の十字架へとつながっていくのです。イエス様=神の独り子という図式がなければ、これらのイエス様の言葉は受け入れがたいものなのです。

バナースペース

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