10月 11日「ルカによる福音書23:44〜49」 | ||||
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。 (ルカによる福音書23章46節) |
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ルカ福音書は、イエス様が息を引き取る前に神殿の垂れ幕が真ん中から裂けたことを報告します。聖所と至聖所を分ける垂れ幕が裂けたことは、すべての人が救いへと導かれることを示しています。 | ||||
聖所や至聖所という名前がつく場所がある教会も多くあります。しかしその名前のゆえに、「ここから先、未信徒は入ってはダメ」とか、「ここから上は奉仕者だけ」といった縛りを設けることは、イエス様の死の際に起こった出来事と相反するのかもしれません。 | ||||
イエス様はここで、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という十字架上の七聖語の一つを叫びます。その生涯も、そして肉体が滅んだ後も、イエス様はすべてを神さまに委ねられるのです。 | ||||
10月 12日「ルカによる福音書23:50〜56a」 | ||||
さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。 (ルカによる福音書23章50〜51節) |
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アリマタヤのヨセフは、マタイ・マルコ福音書にも登場します。ルカ福音書は彼を議員と紹介し、同僚の決議や行動には同意しなかった人として描きます。イエス様を逮捕し十字架につけることに、最後まで反対したのでしょう。 | ||||
教会を含めいろいろな団体から、声明文が出されることがあります。その文章が「わたしたちは」で始まるとき、わたしは違和感を覚えることがあります。「果たして全員がそう思っているのか」、そう考えてしまうからです。 | ||||
アリマタヤのヨセフは、議員の中でただ一人行動を起こしました。それは、彼が神の国を待ち望んでいたからです。イエス様の復活のためには、彼の行動が必要でした。彼もまた、神さまに促されてこれらのことをおこなったのでしょう。 | ||||
10月 13日「ルカによる福音書23:56b〜24:12」 | ||||
あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 (ルカによる福音書24章6節) |
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聖書はイエス様の復活を、「あの方は、ここにはおられない」という書き方で伝えます。婦人たちは、イエス様の姿が見えないから復活したのだと簡単に納得したのでしょうか。彼女たちが信じたのは「見た」からではなく、二人の人の言葉を「聞いた」からでした。 | ||||
輝く衣を着た二人の人は、神さまからのメッセンジャーなのでしょう。羊飼いたちに幼子イエスの誕生を知らせたときのように、今回も神さまからの使いが喜びの知らせを伝えるのです。 | ||||
しかし使徒たちは、彼女たちの言葉を信じることができませんでした。彼女たちの言葉が、「たわ言」のように聞こえたからです。イエス様の復活という出来事は、イエス様とずっと一緒にいた使徒たちでさえ、簡単に理解できることではなかったのです。 | ||||
10月 14日「ルカによる福音書24:13〜35」 | ||||
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 (ルカによる福音書24章32節) |
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「エマオへの道」という絵画があります。イエス様と二人の弟子たちが一緒にエマオに向かって歩いていく、そのような場面です。とても美しい絵なのですが、聖書を読む限り弟子たちの心は不安の中にあり、決して晴れやかではなかったようです。 | ||||
それは、彼らの目が遮られていたからです。「イエス様が復活した」という婦人たちの言葉を信じることができず、これからは自分たちだけで歩いて行かないといけないと悲しんでいました。しかし実は、彼らにはイエス様という「同伴者」がいたのです。 | ||||
それに気づかされたのは、イエス様がパンを裂いた時、つまり主の食卓においてです。わたしたちも礼拝の中で、主の食卓に招かれています。わたしたちの目を開かれたとき、わたしたちのそばにいてくださる方に気づかされるのです。 | ||||
10月 15日「ルカによる福音書24:36〜49」 | ||||
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 (ルカによる福音書24章36節) |
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ルカ福音書には、弟子たちの真ん中に立たれる復活のイエス様が描かれています。そこでイエス様は、「あなたがたに平和」と告げられます。原文には願望の言葉は書かれていません。ですからこのイエス様の言葉は、「平和がある」という宣言と捉えることもできます。 | ||||
聖書に書かれる平和とは、戦争がない状態のことではありません。神さまとわたしたちとの関係が、正常な状態に戻ることを言います。神さまとの間にあった深い溝は、イエス様の十字架によって埋められました。そしてそこには、「主の平和」が訪れるのです。 | ||||
イエス様はそのあと、弟子たちが差し出した焼き魚をむしゃむしゃ食べられます。不思議な光景です。お腹が空いたのでしょうか。それともご自分は、幻や夢などではないということを弟子たちに示そうとされたのでしょうか。 | ||||
10月 16日「ルカによる福音書24:50〜53」 | ||||
そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 (ルカによる福音書24章51節) |
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ルカ福音書の最後に描かれているのは、イエス様の昇天の場面です。エルサレムの近くにあるベタニアでイエス様は天に上げられ、その後弟子たちはエルサレムに戻りました。復活のイエス様によってガリラヤに導かれたマタイ福音書とは対照的です。 | ||||
ルカ福音書は神殿でのザカリアに対する洗礼者ヨハネの誕生予告で始まり、神殿の境内で神さまをほめたたえる弟子たちの姿で終わります。エルサレム神殿がとても大事な意味を持っているのです。 | ||||
イエス様の十字架と復活によって、新しいエルサレムが世界に向かって広がっていく。ルカは続編の使徒言行録の中で、その驚くべき神さまのみ業を伝えていきます。そしてその神さまの計画は、わたしたち一人ひとりをも巻き込んでいくのです。 | ||||
10月 17日「ヨハネによる福音書1:1〜18」 | ||||
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 (ヨハネによる福音書1章1節) |
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今日からいよいよヨハネ福音書に入っていきます。しかし今日の箇所を読んで、難しさを感じたのはわたしだけではないと思います。毎年降誕節に読まれるこの箇所は、「ロゴス賛歌」と呼ばれます。 | ||||
ロゴスは、日本語で「言」と訳されます。「言」一文字で、「ことば」と読みます。わたしたちが日常使っている「言葉」とは異なります。なぜそのようにしたのかというと、「言葉」だけではあらわせない深い意味がそこにはあるからです。 | ||||
ある方はこの「ロゴス」を、「神さまの思い」と訳しました。神さまの思いが初めからあって、その思いが肉となり、わたしたちの間に宿ったというのです。そしてその神さまの思いこそが、イエス様を通してわたしたちに示された救いなのです。 | ||||
10月 18日「ヨハネによる福音書1:19〜28」 | ||||
彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。 (ヨハネによる福音書1章21節) |
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ヨハネ福音書に描かれる洗礼者ヨハネの姿は、他の福音書とは少し違うように思えます。エリヤの再来やイエス様の先駆者、道備えとしての役割は薄れ、証言者としての側面が強調されているように思います。 | ||||
洗礼者ヨハネは「クムラン教団」に属していたとも、「エッセネ派」に属していたとも言われています。聖書が書かれた時代に、これらのグループは人々に強い影響を与えていました。そこで洗礼者ヨハネを、イエス様よりもあえて下に書いたのかもしれません。 | ||||
ヨハネによる福音書は第1章で、洗礼者ヨハネについて詳しく語ります。その姿は、らくだの毛衣を着、いなごと野密を食べていたものとは異なります。しかしそのプロローグの中で、後から来られるイエスという方がどういう方なのかを、力強く証ししていくのです。 | ||||
10月 19日「ヨハネによる福音書1:29〜34」 | ||||
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」 (ヨハネによる福音書1章29節) |
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奈良基督教会の洗礼盤の側面には、十字架の旗を背負った小羊の姿が彫られています。洗礼のシンボルというと「鳩」を思い浮かべるかもしれませんが、「神の小羊」であるイエス様の姿も忘れずにいたいと思います。 | ||||
洗礼者ヨハネは、イエス様のことを知りませんでした。今日の箇所にも二度、「わたしはこの方を知らなかった」と書かれています。しかし「わたし(洗礼者ヨハネ)をお遣わしになった方」が言われた通り、霊がイエス様の上にとどまり、ヨハネはすべてを知ったのです。 | ||||
彼は「この方こそ神の子である」と証しします。この「証し」こそが、信仰の出発点です。わたしたちも、イエス様と出会い、イエス様を「この方こそ神の子である」と証しする者となりましょう。 | ||||
10月 20日「ヨハネによる福音書1:35〜42」 | ||||
彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。 (ヨハネによる福音書1章41節) |
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聖書に書かれている「召命物語」をよく覚えている人は、今日の箇所を読んで「おやっ?」と思ったかもしれません。というのも共観福音書には、シモン・ペトロとアンデレは漁師であり、漁をしているときにイエス様に声を掛けられたのだと書いてあるからです。 | ||||
聖書は様々な伝承が集められて書かれたので、どちらが正しくどちらが間違いということが重要なのではありません。この出来事を通して、聖書が何を伝えようとしているのかが大切なのです。 | ||||
今日の場面では、アンデレがイエス様のことを自分の兄弟シモンに伝え、さらにシモンをイエス様の元に連れていきました。これが最初の伝道です。わたしたちは誰かに導かれ、イエス様の元に来ました。そして違う誰かをイエス様の元に導くのです。 |