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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2022年10月1日〜10日

10月 1「ルカによる福音書221423
 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
(ルカによる福音書22章19節)
聖餐式の司式の中で、「感謝聖別文」と「分餐のときの言葉」を唱えるときに、わたしはいつも緊張します。2000年前の「主の晩餐」でイエス様がなさった出来事を思い起こすからです。
イエス様は「わたしの記念として」、「このように」おこないなさいと弟子たちに命じました。それが現在も世界のいたるところでおこなわれていることに、感動と驚きを覚えます。
司祭用の大きなウエハース(パン)には、十字架のイエス様が刻まれています。その大きなパンを、「わたしたちがパンを裂くとき」と言いながら二つに割ります。文字通り、イエス様の体が裂かれるのです。その「裂かれる」出来事があって初めて、わたしたちは「キリストの体にあずかります」と言えるのです。
10月 2「ルカによる福音書222434
 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
(ルカによる福音書22章32節)
「一番偉い人は誰だろう」、弟子たちはいつも、このことに関心を持っていたようです。「主の晩餐」でイエス様と共に食卓を囲んだすぐあとにも、この議論は続きます。イエス様はそれでも弟子たちを見捨てず、何度も「仕える者となれ」と語ります。
イエス様はシモン・ペトロを、弟子の中でも特別視していたのでしょうか。イエス様はシモン・ペトロに「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやれ」と命じます。「立ち直る」ということは、彼は一度、イエス様から離れてしまうことを意味します。
しかしその事実と共に、「あなたのために祈った」と語るイエス様の言葉が響きます。わたしたちの信仰も弱いものです。しかしその信仰が無くならず、強められるようにと祈るイエス様の姿を覚えたいと思います。
10月 3「ルカによる福音書223546
 そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。
(ルカによる福音書22章38節)
以前弟子たちが近くの町や村に宣教に出かけたときには、「財布も袋も履物も持っていくな」と言われていました。ところが今回は、財布も袋も持って行くように、また剣のない者は服を売って買いなさいと命じられます。この違いは何なのでしょう。
まもなく逮捕されることが分かっていたので、その備えをさせたのでしょうか。少しでも抵抗するように、弟子たちを仕向けたのでしょうか。剣を持つことによって、イエス様たち一行は「犯罪者」として扱われることになるでしょう。
そのあとイエス様は、「オリーブ山」に行って祈ります。マタイ・マルコでは「ゲツセマネ」と書かれた場所です。苦しみの中でイエス様は、「御心のままに」と祈られました。自分の思いではなく、神さまのご計画を優先されたのです。
10月 4「ルカによる福音書224753
 イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。
(ルカによる福音書22章47節)
オリーブ山で祈り、弟子たちに「起きて祈っていなさい」と命じられたイエス様の元に、群衆と12弟子の一人であるユダが近づいて来ました。ユダは群衆の先頭に立ちます。群衆に誰がイエス様かを伝えるため、またイエス様たちを油断させるためなのでしょうか。
昨日の箇所で剣を用意させたイエス様ですが、剣を使って抵抗した人をやめさせ、また切り落とされた耳をいやされました。イエス様が弟子たちに持たせたかった剣とは、「神の言葉(エフェソ6:17)」のことだったのかもしれません。
53節の「闇が力を振るっている」という言葉は、新しい聖書では「闇が支配している」と訳されています。「神の国」とは「神さまの支配」という意味です。このとき、この世は闇に支配されていました。この闇はいつまで続くのでしょうか。
10月 5「ルカによる福音書225462
 するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。
(ルカによる福音書22章56節)
シモン・ペトロは漁をしているときにイエス様と出会いました。イエス様に言われるままに網を降ろしたところ、魚が網一杯になったのを見て、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです(ルカ5:8)」とペトロは言いました。
そして今日の場面、たき火がペトロの顔を、そして心を照らし出します。ペトロの弱さが露わにされていきます。聖書は12弟子の中でも一番イエス様に目を掛けられていたペトロの罪をも、隠すことなくはっきりと記します。
このペトロの弱さは、わたしたちにとっては恵みなのかもしれません。わたしたちは神さまの前に弱い自分に気づかされることが多くあります。けれども神さまは、その弱さを何度も赦し、用いてくださるのです。
10月 6「ルカによる福音書226371
 「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。」
(ルカによる福音書22章67節)
長老や祭司長たちは、どうしてイエス様を恐れたのでしょうか。この時代、「自分こそはメシアだ」と言ってクーデターを起こそうとした人が何人もいたそうです。しかしイエス様は、「剣をさやにおさめなさい」と弟子たちに命じておられます。
子ろばに乗ってエルサレムに入られたイエス様は、人々から王として迎え入れられました。しかしイエス様は、武力によってイスラエルを救うということは一切考えておられませんでした。人々はそのようなイエス様の姿に失望したのかもしれません。
イエス様は恐れられ、同時に見捨てられました。イエス様を取り巻くすべての人たちがイエス様から離れていく中、神さまの救いの計画は確実に進行していくのです。
10月 7「ルカによる福音書2315
 そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」
(ルカによる福音書23章2節)
最高法院の議員たちは立ち上がり、ポンティオ・ピラトのところにイエス様を連れていきます。そして2節の言葉をもって、訴えるのです。
しかし聖書のどこを見ても、イエス様が民族を惑わしたとも、税を納めるのを禁じたとも、自分のことを王、メシアだと言っているとも書かれていません。すべてはイエス様を陥れるための理由づけにすぎないのです。
ピラトもそのことに気づいたようです。「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」との言葉は、ピラトの正直な気持ちなのでしょう。しかし議員たちの圧力は収まるどこらか、激しさを増していきます。イエス様の十字架は、避けることのできないものになっていきます。
10月 8「ルカによる福音書23612
 彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。
(ルカによる福音書23章8節)
1973年に公開され、今もロック・オペラとして公演されている「ジーザス・クライスト・スーパースター」という作品があります。この中でヘロデは、大変ユニークな描き方がされています。
「ヘロデの尋問」については、ルカ福音書にしか記されていません。しかしそこに描かれているのは、好奇心旺盛で、興味本位の目でイエス様を知ろうとするヘロデの姿です。その姿は、わたしたちと重なることもあるかもしれません。
イエス様はヘロデに対し、何もしるしを見せなかったばかりか、何もお答えになりませんでした。荒れ野の誘惑のときに「神を試してはならない」と言われたイエス様の姿を思い起こします。
10月 9「ルカによる福音書231325
 ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」
(ルカによる福音書23章22節)
復活節前主日の礼拝の中で、福音書を朗読するときに「朗読劇」をおこなう教会があります。ナレーターやピラトや大祭司など配役を決め、それぞれのセリフなどを語っていくというものです。
ある教会では、「群衆」のところは礼拝に出席している全員で叫ぶと決めていました。群衆が叫ぶ場面とは、今日の箇所です。彼らは何度ピラトが「釈放しよう」と提案しても、「十字架につけろ」、「十字架につけろ」と叫び続けました。
その声の中に、わたしたちの声は含まれていないでしょうか。自分が願っていた救い主ではないと失望した群衆の声に、わたしたちの声は含まれていないでしょうか。「十字架につけろ」、その声の主は、わたしたちではないでしょうか。
10月 10「ルカによる福音書232643
 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
(ルカによる福音書23章43節)
イエス様は二人の犯罪人と共に、十字架につけられました。罪人と同様に扱われたのです。しかしその中でも、イエス様は祈られます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。
この祈りは、ルカ福音書にしか記されていません。そしてもう一つ、この福音書にしか書かれていない出来事があります。それは一人の犯罪人の悔い改めです。彼は十字架につけられるほどの悪事を働きました。
そして彼は、自分が罪を犯したこと、そして十字架の上で死ぬしかないことを理解していました。しかしイエス様に、一つだけ願ったのです。「御国でわたしを思い出してください」。イエス様はその悔い改めの心を受け入れ、救いの約束をしてくださったのです。

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