9月 21日「ルカによる福音書20:9〜19」 | ||||
そこで、ぶどう園の主人は言った。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」 (ルカによる福音書20章13節) |
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今日のたとえを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません」とイエス様に言いました。「そんなこと」とは、農夫たちが跡取りまでも殺してしまったことでしょうか。それとも殺されるのが分かっているのに、ぶどう園の主人が息子まで送ったことでしょうか。 | ||||
このぶどう園の主人とは、神さまのことです。農夫たちに何度裏切られても辛抱強くしもべを送り続け、最後には愛する息子を送ります。殺されるのが分かっているのに、十字架につけられるのが分かっているのに、愛する独り子を送られる神さまのことです。 | ||||
人々はしかし、イエス様を捨てました。自分たちだけの力で家を建てようとする、またぶどう園の収穫を自分たちだけのものにする。とても傲慢です。しかしそのときに人々が捨てたイエス様の十字架によってのみ、わたしたちは救われるのです。 | ||||
9月 22日「ルカによる福音書20:20〜26」 | ||||
彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。 (ルカによる福音書20章26節) |
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先日興福寺会館でおこなわれた「奈良県宗教者フォーラム」に参加しました。今年はキリスト教からの参加はわたし一人でしたが、様々な気づきが与えられた豊かな時間でした。ほら貝が鳴り響く中で、様々な宗教の人たちと共に祈るというのも不思議な体験でした。 | ||||
日本のクリスチャン人口は1%以下だと言われます。その状況で生きていくときに、様々な葛藤を抱えることがあります。神社やお寺に行くこと。お葬式やお墓のこと。家族や親戚との付き合い。町内会の行事や寄付などなど。 | ||||
そういったところとは一切関わるな、他の宗教行事には出てはいけないと厳しく言う教派もあるそうです。しかしわたしは、「神のものは神に」という根元さえしっかりしておけば、世俗のことは世俗の中で考えればいいのではないかと思います。 | ||||
9月 23日「ルカによる福音書20:27〜40」 | ||||
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。 (ルカによる福音書20章38節) |
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教会では愛する人が天に召されたとき、「神ともにいまして」という聖歌を歌うことがあります。その中で、「また会う日まで」と何度も歌います。たとえ肉体は滅んだとしても、神さまのみ許でいつかまた、語り合うことが出来ると信じているからです。 | ||||
サドカイ派の人がたとえで語った女性には、7人の夫がいました。長男から始まり、次々に子がないまま死んだため、7人の兄弟すべての妻となった。律法のきまりに従えば、そのようにしなくてはならなかったからです。 | ||||
彼女が天に召されたら誰の妻になるのか、それが質問の内容でした。彼らは自分たちの尺度でしか物事を考えられなかったのでしょう。天に召された後のことは、神さまにしかわかりません。神さまにお任せするしかないのです。 | ||||
9月 24日「ルカによる福音書20:41〜47」 | ||||
このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。 (ルカによる福音書20章44節) |
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牧師をしていて、「聖霊って何ですか?」と聞かれることがあります。また幼稚園の子どもに「神さまってどこにいるの?」と聞かれることもあります。「三位一体でどういうことですか?」と難しい質問をされることもあります。 | ||||
わたしたちはどうしても、頭で物事を理解したいと願います。「ダビデの子」という枠に、勝手にメシアを押し付けてしまうようにです。神さまにしかわからないことは沢山あるのにもかかわらずです。 | ||||
またわたしたちはどうしても、人から良く見られたいものです。見せかけの長い祈りもその中に含まれるそうです。それらの「人の思い」から抜け出すことができれば、どんなにか心が軽くなることでしょう。 | ||||
9月 25日「ルカによる福音書21:1〜6」 | ||||
イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。 (ルカによる福音書21章1節) |
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この箇所を見て、「そうか、イエス様もみんなの献金が気になるんだ。じゃあ牧師が気になっても仕方ないな」と思ってしまいましたが、当時の賽銭箱は近くでじっくり見なくても、大体の献金額がわかるような工夫がしてありました。 | ||||
賽銭箱の入れるところがラッパの口のようになっており、そこに銀貨を入れると「カランカラン」と大きな音がしたのです。金持ちが威勢よくたくさん入れると、その音は周りに大きく響き渡り、人々の注目を集めたことでしょう。 | ||||
対してやもめは、当時一番価値が低かった銅貨二枚を入れました。きっと使われている銅も少ない、軽い硬貨だったでしょう。その音は周りには響かなかったかもしれません。しかしその小さな音は、神さまにはしっかりと届いたのです。 | ||||
9月 26日「ルカによる福音書21:7〜19」 | ||||
しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。 (ルカによる福音書21章18節) |
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この箇所は「小黙示録」と呼ばれ、終末(この世の終わり)が来ることを暗示する箇所だとされます。わたしは子どもの頃、神さまは「悪いことをすると地獄へ連れていかれる」方だと思っていました。母親の影響が強いのだと思いますが。 | ||||
中学から教会に通うようになって、「神さまから隠れないと怖い」という思いが、「神さまが来て助けてくれるから大丈夫」と変わっていきました。神さまはわたしたちを愛しておられるというその一点が、わたしを支えているのです。 | ||||
今日の箇所の中の、「髪の毛一本も」という一文にも注目したいと思います。当然これは比喩として語られているのですが、髪の数もご存じでそれすら無くさせないほどわたしたちを思ってくれている神さまを感じていたいと思います。 | ||||
9月 27日「ルカによる福音書21:20〜28」 | ||||
エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。 (ルカによる福音書21章20節) |
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エルサレム神殿が崩壊したのは紀元70年、イエス様の十字架の死から37年ほど後のことでした。そしてルカ福音書が書かれた頃には、すでにエルサレム神殿は崩壊していました。 | ||||
この福音書を読んだ人たちは、神殿が破壊されたときのことを思い起こしていたでしょう。エルサレム神殿はユダヤ人にとって、とても大切な場所でした。神殿の崩壊は、ユダヤ人の滅亡を意味するとも思われていました。 | ||||
しかし神殿がなくなったことによって、反対にイエス様の福音が世界中に広がることになったのです。祭儀宗教から解放され、それぞれの場所で集まり、祈り、賛美する教会へと変わっていくのです。 | ||||
9月 28日「ルカによる福音書21:29〜38」 | ||||
放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。 (ルカによる福音書21章34節) |
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いちじくの木を見ても、人それぞれ感じることは違います。夏が近いと感じる人、今年は実をたくさんつけそうだと感じる人、そろそろ切った方がいいと感じる人。神の国の訪れも、同じしるしを見ても感じる人、感じない人がいるのでしょう。 | ||||
イエス様の言葉に聞き、神さまの約束を心に留め日々を過ごすとき、神の国は必ずわたしたちの元にやってくるのだと思います。その確信をいつも心に持ちながら、歩んでまいりましょう。 | ||||
34節には「放縦や深酒や生活の煩いで」とあります。ここを読むたびに「放縦って何だろう?」と思っていました。新しい聖書は「放縦や深酒」を、「二日酔いや泥酔」と訳しています。「ああ、なるほどね」と思ったのは、わたしだけではないと思います。 | ||||
9月 29日「ルカによる福音書22:1〜6」 | ||||
しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。 (ルカによる福音書22章3節) |
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ユダは本当にイエス様が殺されるのを望んでいたのでしょうか。聖書にはユダはイエス様を「引き渡そう」としていたとあります。過越祭の期間、エルサレムは人で一杯になります。その期間だけでもイエス様が逮捕され、留置場に入っておいて欲しいと願ったのでしょうか。 | ||||
しかしこの「引き渡す」という言葉は、ギリシア語では「裏切る」と同じ単語です。お金をもらってイエス様を引き渡すこと、それはイエス様を裏切ることであり、イエス様を十字架の死に向かわせることなのです。 | ||||
聖書は「ユダの中にサタンが入った」と書きます。荒れ野の誘惑も、神さまがイエス様を荒れ野に導き、サタンと対峙させました。この場面もユダという人間の思いではなく、神さまの大きな計画があり、サタンを用いたということなのでしょうか。 | ||||
9月 30日「ルカによる福音書22:7〜13」 | ||||
すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。 (ルカによる福音書22章12節) |
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過越祭には大勢のユダヤ人がエルサレム神殿を訪れました。成人男子のユダヤ人は必ず行かなければならなかったのです。そのため道は混雑するし、宿は一杯だし、食事をする場所さえもままならなかったかもしれません。 | ||||
そのときイエス様は、ペトロとヨハネに不思議なことを告げます。出会った人についていけば、そこに席が整えられているというのです。イエス様はあらかじめ、こっそり話をつけていたのでしょうか。 | ||||
そうではないと思います。すべての出来事が神さまの計画の中にあるということを、聖書は伝えているだと思います。この食事は、わたしたちが教会で大切にしている「主の晩餐」です。その席が神さまによって備えられたということ、そこに大きな意味があるのです。 |