9月 11日「ルカによる福音書17:20〜37」 | ||||
「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」 (ルカによる福音書17章21節) |
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「神の国」はいつ来るのでしょうか。その問いに対しイエス様は、「神の国は、観察できるようなしかたでは来ない」と言われます。生駒山上遊園地や奈良ドリームランドのように、誰もがわかる形として見ることはできないということです。 | ||||
また神の国は、「死後の世界」ということでもありません。「神の国はあなたがたの間にある」とイエス様が言われているからです。この「間にある」ということについて、少し考えてみましょう。 | ||||
わたしたちが誰かとの交わりの中で神さまの愛を分かち合った時、そこに「神の国」がやってくる。わたしたちが誰かの肩を抱きながら一緒に涙を流した時、そこに「神の国」がやってくる。そういうことなのかもしれません。 | ||||
9月 12日「ルカによる福音書18:1〜8」 | ||||
まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。 (ルカによる福音書18章7節) |
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この「やもめと裁判官のたとえ」は、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、イエス様が弟子たちに対して語ったものです。 | ||||
聖書の別の箇所には「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と書かれているため、自分の願いを必死になって祈るのはあまりよくないと考える人がいます。しかし果たしてそうでしょうか。 | ||||
自分の願いがかなえられるまでしつこく何度でも裁判官の元に行ったやもめのように、わたしたちの祈りもしつこくてよいのです。神さまはその叫びを、いつも待っておられます。神さまはわたしたちをほうってはおかれません。 | ||||
9月 13日「ルカによる福音書18:9〜17」 | ||||
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 (ルカによる福音書18章9節) |
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「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」とは誰のことでしょう。イエス様のたとえにはファリサイ派と徴税人が出てきますので、「ファリサイ派」だと多くの人は考えます。するとここで、今日のメッセージは届かなくなってしまいます。 | ||||
聖書を読んでいて、「これは自分に対して言われているのではない」とか、「これはあの人に対して言われているんだ」とか考えることと、「この徴税人のような者でないことを感謝します」というファリサイ派の人の思いは同じなのです。 | ||||
大切なことは自分の罪を自覚し、ただひたすらに神さまの憐れみを求めることです。わたしたちは乳飲み子のように、一方的に恵みを与えられなければ生きていけない、そんな存在なのですから。 | ||||
9月 14日「ルカによる福音書18:18〜30」 | ||||
しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。 (ルカによる福音書18章23節) |
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イエス様に金持ちの議員が質問します。「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるか」と。彼は少年の頃から律法を守っていました。また金持ちであるため、神さまの祝福が与えられていると思っていました。 | ||||
彼は多分、周りの人からも羨ましがられるような人だったのではないでしょうか。しかし彼は、不安を抱えていたようです。「本当にこのままで永遠の命を受け継ぐことが出来るのだろうか」。彼はイエス様から「あなたは大丈夫」と言って欲しかったのでしょう。 | ||||
しかしイエス様は、財産を売り払い、貧しい人々に分けてあげるように言われました。金持ちで律法も守る彼は、神さまからの恵みや喜びを一人占めしていたのです。そうではなく周りの人と、その喜びを分かち合いなさいとイエス様は促されたのです。 | ||||
9月 15日「ルカによる福音書18:31〜34」 | ||||
十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。 (ルカによる福音書18章34節) |
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ルカ福音書の中で、イエス様がご自分の死と復活について語られたのは三度目です。(マタイ、マルコもそれぞれ三度語られました)。イエス様はこれらの言葉を、12人に対して語られています。12人とはいわゆる12弟子(12使徒)のことです。 | ||||
12人はイエス様の12弟子というくらいですから、とても霊的で、素晴らしい人物だと想像してしまいます。しかし聖書を読んでいくと、人間的なところばかりが目につきます。今日の箇所でも、彼らはイエス様の言われたことを理解することができませんでした。 | ||||
すべてのことは、復活のイエス様に出会ったときに明かされ、それまでは隠されているのです。自分で精進して立派な弟子になっていくのではなく、復活のイエス様との出会いによって変えられていくのです。それは、わたしたちも同じことです。 | ||||
9月 16日「ルカによる福音書18:35〜43」 | ||||
盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。 (ルカによる福音書18章43節) |
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聖公会の礼拝では参入(礼拝の中の最初の部分)で、「@栄光は〜」、「A主よ、憐れみを〜」、「Bほめ歌え〜」のいずれかを歌い(あるいは唱え)ます。しかしチャントを用いる場合は、Aの横文字バージョン「キリエ」を使っている教会が多いようです。 | ||||
そもそも「キリエ・エレイソン」の意味が分かって歌っているのか、疑問に思うことがあります。その意味は今日の聖書にある、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」という叫びと通じます。 | ||||
礼拝の中で、わたしたちも目が開かれるようにと「キリエ」を唱えましょう。叫んでもいいかもしれません。そして礼拝の終わりには、喜び、ほめたたえながら、「派遣」へと導かれていきたいものです。 | ||||
9月 17日「ルカによる福音書19:1〜10」 | ||||
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 (ルカによる福音書19章5節) |
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今日の場面には、徴税人の頭で金持ちのザアカイという人物が出てきます。徴税人はローマ帝国の手先としてユダヤの人々から税を集めていました。彼らは自分の懐を肥やすために決められた以上に取り立ててもいました。だから彼らは裏切り者だと思われていました。 | ||||
ザアカイはイエス様のうわさを聞きつけ、一目見てみようと思ったようです。別にイエス様に従う気はなかったでしょう。しかし背の低い彼を、人々は遮ります。嫌われ者のザアカイに道を譲ってくれる人など、そこにはいませんでした。 | ||||
ところがイエス様は、先回りしていちじく桑の木に登ったザアカイを見つけ、名前を呼び、「あなたの家に泊まりたい」と言われます。神さまから離れ、人々から相手にされないザアカイにも、救いは訪れました。そしてザアカイはそれを、喜んで受け入れるのです。 | ||||
9月 18日「ルカによる福音書19:11〜27」 | ||||
そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。 (ルカによる福音書19章13節) |
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マタイによる福音書には、「タラントンのたとえ」という「ムナのたとえ」と似た話があります。しかし2つの話には大きな違いが三つあります。一つはお金の単位です。1タラントンが約6000万円なのに対し、1ムナは約100万円です。 | ||||
またマタイでは3人の僕にそれぞれ違う額を渡していたのに対し、ルカでは全員1ムナずつが渡されます。そして3つ目です。マタイでは単に「預けた」と書かれていますが、ルカでは「これで商売をしなさい」と命じられています。 | ||||
ある人は、この「ムナ」を「み言葉」と解釈します。み言葉は誰にでも同じように与えられますが、それをわたしたちは生かしているでしょうか。布に包んでしまっておいてはいないでしょうか。わたしたちがみ言葉を宣べ伝えることを、イエス様は望んでおられます。 | ||||
9月 19日「ルカによる福音書19:28〜44」 | ||||
「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」 (ルカによる福音書19章38節) |
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エルサレムに入られるイエス様を、人々は声高らかに神さまを賛美しながら迎えました。しかしこれから一週間も経たないうちに、イエス様は逮捕され、人々は「十字架につけろ」と叫びます。 | ||||
人々にとって子ろばに乗るイエス様の姿は、自分たちが望んでいる解放者のイメージとはずいぶん違っていたのでしょう。エルサレムに入ってすぐにクーデターを起こしてくれるに違いないと勝手に思っていたのかもしれません。 | ||||
教会には洗礼を受けたものの、教会から離れてしまう人がいます。その原因は様々でしょう。しかし、「イエス様はこんな方ではないと思っていた」という理由であれば、イエス様を自分たちの思い通りに利用しようとした2000年前の人と同じなのではないでしょうか。 | ||||
9月 20日「ルカによる福音書19:45〜20:8」 | ||||
彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」 (ルカによる福音書19章46節) |
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今日の箇所にある「わたしの家は、祈りの家でなければならない」という言葉は、とても注意深く用いなければならないと思います。イエス様はどのような場面で、誰に対して語ったのかというのがとても大事です。 | ||||
子どもたちが礼拝堂でおしゃべりをしていたとします。イエス様は「静かにしなさい。ここは祈りの家だ」と言われたでしょうか。精神を病んでいる人が礼拝堂で大声をあげたとします。イエス様は「出て行きなさい。ここは祈りの家だ」と言われたでしょうか。 | ||||
きっとイエス様は、どちらも受け入れたと思います。「いいよ、いいよ」と優しく言われたと思います。それが礼拝堂であり、教会なのです。イエス様はこのとき、神殿で強盗のように商売をしていた人を非難し、追い出されました。そのことを曲解してはならないのです。 |