9月 1日「ルカによる福音書14:7〜14」 | ||||
そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。 (ルカによる福音書14章14節) |
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礼拝堂ではしばしば、入り口近くの席が大人気になることがあります。「末席」を求めてみんなが殺到するのか、あるいは説教壇からできるだけ離れたいという心理なのか、それはよくわかりません。 | ||||
他の人の尊敬の目を集めたいという思いで上席に座ろうとするならば、その思いは神さまに否定されるということをイエス様は言われているのでしょう。ただし神さまの元に少しでも近づきたいという思いで礼拝堂の前の席を選ぶことは、きっと喜ばれると思います。 | ||||
さらにイエス様は、催しへの誘いについても語られます。わたしたちは人にしたことはしっかり覚え、人にしてもらったことは忘れがちです。逆でありたいですね。つまり、人にしたことはすぐに忘れても、人からしてもらったことはいつまでも覚えておきたいものです。 | ||||
9月 2日「ルカによる福音書14:15〜24」 | ||||
主人は言った。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。」 (ルカによる福音書14章23節) |
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聖書を見ると、この物語と同じような物語がマタイ22:1〜10に書かれています。しかしよく見ると、二つの物語には決定的な違いがあります。それはマタイでは「婚礼の祝宴」なのに対し、ルカは「大宴会」となっているところです。 | ||||
いくらなんでも婚礼の祝宴の招待を受けたのに理由をつけて断るのはダメだけれども、大宴会だったらいいのではないか、とも思います。それも仮病やウソではなく、ちゃんとした理由があるのですから。 | ||||
しかし逆に考えてみると、わたしたちに対する神さまからの招きは一見大したことのないことのように見えても、とても大切なものだということかもしれません。扉が閉められた後にいくら悔やんでも、遅いのです。 | ||||
9月 3日「ルカによる福音書14:25〜35」 | ||||
もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 (ルカによる福音書14章26節) |
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十戒にはこのように書かれています。「あなたの父母を敬え(出エジプト記20章12節)」。しかしイエス様は弟子の条件として、父母を含む家族や自分の命を憎むことが必要だと語ります。この言葉は、わたしたちに戸惑いを覚えさせます。 | ||||
実は聖書の「憎む」という言葉は、わたしたちが日常で用いる「憎む」とは多少ニュアンスが違います。「背を向ける」や「身を引き離す」というイメージです。一番大切なものに向き直りなさいということなのです。 | ||||
わたしたちは、イエス様に従い、日々歩んでいます。しかし時には神さまに背を向け、イエス様から身を引き離すこともあるでしょう。そのときわたしたちの信仰は、風味を失った塩のように味気ないものになるのかもしれません。 | ||||
9月 4日「ルカによる福音書15:1〜10」 | ||||
言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。 (ルカによる福音書15章10節) |
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イエス様は二つのたとえを語られます。「見失った羊」と「無くした銀貨」のたとえです。どちらもいなくなった(なくなった)ものが見つかった時に、大きな喜びがあるという物語です。 | ||||
羊や銀貨をさがす人とは、神さまのことでしょう。そして羊や銀貨はわたしたちのことです。神さまはどんなにわたしたちが遠く離れていったとしても、捜し、見つけ出してくださるのです。 | ||||
それぞれのたとえの最後には、「悔い改め」について書かれています。しかし羊も銀貨も、悔い改めなどしていないように思えます。ただ見つけられ、その手の中に抱えられた。しかしそのように委ねることを、イエス様は「悔い改め」とよばれているのかもしれません。 | ||||
9月 5日「ルカによる福音書15:11〜32」 | ||||
だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。 (ルカによる福音書15章32節) |
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この物語を、自分の信仰生活に重ね合わせる方は多いと思います。神さまの元を離れ、好き勝手生きて来たけれども、ある日神さまからいただいてきた恵みに気づく。そしてもう一度神さまの元に戻ろうと決心する。 | ||||
物語では、父親に謝ろうと家に向かう弟を見つけた途端、遠く離れていたにも関わらず走り寄り、抱きしめる父親の姿が描かれます。ずっと弟が帰ってくるのを待ちわびていたのでしょう。その姿を見て手放しで喜ぶ。それがわたしたちに対する神さまの姿です。 | ||||
一方兄は、弟が父親に受け入れられたことに腹を立てます。わたしたちの教会はどうでしょう。神さまの方に向き直った人が受け入れられるときに、心から共に喜び祝う教会でありたいものです。 | ||||
9月 6日「ルカによる福音書16:1〜13」 | ||||
主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。 (ルカによる福音書16章8節) |
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今日の物語は、「不正な管理人のたとえ」と呼ばれます。ある管理人が、主人の財産を無駄遣いしていることがばれます。そこで彼は主人に借りのある人の証文を書き換え、勝手に借金を減らしてしまいます。主人の損害はさらに大きくなるのです。 | ||||
普通に考えたら、とんでもない管理人です。自分のものでもない主人の財産を管理するどころか、浪費していきます。ところが主人はこの管理人の「賢いやり方」(新しい聖書ではこのように訳されています)を褒めたそうです。 | ||||
自分の命を守るために全力で不正に走った管理人の姿勢は、決して素晴らしいとは言えないでしょう。しかし中途半端にいろんなものを天秤に掛けて判断するよりも、ある意味潔いのかもしれません。わたしたちの信仰はどうでしょう。 | ||||
9月 7日「ルカによる福音書16:14〜18」 | ||||
そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」 (ルカによる福音書16章15節) |
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聖書はファリサイ派の人々を、「金に執着する」と称します。しかしこの当時、富を得ることは神さまに祝福されていることと結びつけられており、「お金を持っている」ことは人々に対し、「あの人は神さまの前に正しい」と思わせる要素となっていました。 | ||||
ところがイエス様は不正な管理人のたとえの中で、「神と富とに仕えることはできない」と語ります。自分たちが正しいと思っていたことを、全く共感できないたとえで否定されたのです。彼らはイエス様を嘲笑います。 | ||||
イエス様は、わたしたちと神さまとが、正しい関係に戻るようにこの世に遣わされました。神さまは、見せかけの、形だけの正しさは必要とされません。わたしたちが何を大事にしていくのか、それが大切なのです。 | ||||
9月 8日「ルカによる福音書16:19〜31」 | ||||
やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 (ルカによる福音書16章22節) |
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イエス様の母マリアは神さまのみ心を知ったときに、「マリアの賛歌」を唱えました。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。(ルカ1:51〜53)」 | ||||
そこで語られているのは、神さまの前での大逆転です。今日の箇所においても、金持ちとラザロとが、生きている間と死んだ後では全く立場が逆転することが伝えられています。 | ||||
それではわたしたちは、どうすればよいのでしょうか。“ラザロ”と共に生きることが大事なのではないかと思います。わたしたちの周りには、“ラザロ”はいませんか。ちなみに「ラザロ」とは、「神さまが助けてくれる」という意味です。 | ||||
9月 9日「ルカによる福音書17:1〜10」 | ||||
あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言いなさい。 (ルカによる福音書17章10節) |
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自分の悪い所を指摘されたり、自分の思い通りにならなかったりしたときに、人はつまずきます。特に教会のような場所でそのようなことになったら、なおさらです。しかしわたしたちは一日に7回どころか、一度赦すことさえ難しいときがあります。 | ||||
わたしたちには、からし種一粒ほどの信仰すらないということなのでしょうか。からし種は地上で最も小さい種だと思われていました。それがとてつもない大きな木になります。しかしからし種は自分の力で大きくなったのではありません。育てられるのです。 | ||||
神さまがすべてを備え、育て、導いてくださる。そう信じ、神さまに全てを委ねることが必要なのではないでしょうか。そして神さまから与えられた賜物を用いて、なすべきことをしていきましょう。 | ||||
9月 10日「ルカによる福音書17:11〜19」 | ||||
その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。 (ルカによる福音書17章15〜16節) |
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新共同訳聖書で「重い皮膚病」と訳されていた言葉は、新しい聖書では「規定の病」と変わりました。彼らは宗教上「汚れている」とされ、共同体から追い出され、病気にかかっていない人との接触を禁じられていました。 | ||||
その彼らが遠くから、イエス様に憐れみを求めます。イエス様は彼らのそばに行くこともなく、祭司に体を見せに行くように言います。「規定」では祭司が「清い」と判断すれば、元の生活に戻ることが許されるからです。 | ||||
彼らは祭司の元に行く途中、いやされました。10人のうち9人は、そのまま祭司の元に急ぎました。社会復帰がそのことによってできるからです。しかし一人のサマリア人だけは、イエス様の元に戻ってきました。神さまを賛美するためです。彼はその結果、本当の救いへと導かれました。 |