8月 21日「ルカによる福音書12:8〜12」 | ||||
人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。 (ルカによる福音書12章10節) |
||||
キリスト教では、「父」「子」「聖霊」という三位一体の神を信じています。この教理は、3〜4世紀におこなわれた公会議によって定められ、聖公会ではそれを教会の信仰として受け入れています。「ニケヤ信経」を礼拝の中で唱えるのはそのためです。 | ||||
しかし、父である神さま、子であるイエス様に比べ、「聖霊」の存在は、わたしたちにとって理解しにくいものなのかもしれません。というのもその姿や形状など、イメージしにくいからです。 | ||||
天地創造のとき、神さまは人の鼻に息を吹き入れて生きる者とされました。「息」と「霊」とは、聖書の原語では同じ言葉が使われています。わたしたち一人ひとりに与えられた「神の息」が「聖霊」として、わたしたちを導き、生かしてくれるのです。 | ||||
8月 22日「ルカによる福音書12:13〜21」 | ||||
自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。 (ルカによる福音書12章21節) |
||||
イエス様に対して「兄弟に遺産を分けるように言ってほしい」と訴える人。彼は果たして貪欲でしょうか。次男や三男にとって、ただでさえ長男よりも分け前の少ない遺産をもらえないことは死活問題でした。 | ||||
また豊作だった年に、穀物や財産を倉にしまい備えようとした金持ちは、貪欲でしょうか。彼が貪欲であれば、老後や子どものために貯蓄することも、貪欲なのでしょうか。 | ||||
日本語の聖書では分かりにくいのですが、金持ちの男は、「わたしの穀物」「わたしの財産」「わたしの倉」と言い、「わたしの魂」に「楽しめ」と語っています。神さまからの恵みを「自分のもの」だと勘違いすること。そのことが「愚か」なのだと思います。 | ||||
8月 23日「ルカによる福音書12:22〜34」 | ||||
ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。 (ルカによる福音書12章31節) |
||||
「ケセラセラ」という曲が1950年代に発表されました。日本でもペギー葉山や雪村いづみによってカバーされ、ヒットしたそうです。「ケセラセラ」とはスペイン語で、「なるようになる(Whatever will be, will be)」という意味だそうです。 | ||||
「なるようになる」というと、何だかやる気のない、投げやりのようなイメージを持ってしまいますが、聖書の中の「なるようになる」はそうではありません。「思い悩まずに、信じる」ということです。 | ||||
神さまがわたしの心に手を差し伸べてくださいますように。この祈りこそが、「神の国を求める」ということだと思います。そのことで、「すべての物は与えられる」のです。(聖歌483番、増補版の歌詞の方が好きだったなあ…) | ||||
8月 24日「ルカによる福音書12:35〜48」 | ||||
主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。 (ルカによる福音書12章37節) |
||||
夜中に地震の揺れを感じ、ビックリして飛び起きたことがあります。1995年1月17日に起こった阪神淡路大震災は午前5時46分に、2016年4月16日に本震があった熊本地震は午前1時25分に起こりました。 | ||||
あらかじめその地震が来ることが分かっていたなら、十分な備えをし、目を覚ましていたことでしょう。しかし残念ながら、わたしたちにはその“時”が分かりません。 | ||||
だからといって、何も備えずにいるのでしょうか。ずっと目を覚ましておくことはできないでしょう。しかし今、自分にできる準備をしておくことが大切です。イエス様の再臨への備えについても、同じことなのです。 | ||||
8月 25日「ルカによる福音書12:49〜56」 | ||||
あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 (ルカによる福音書12章51節) |
||||
今日の箇所だけを見ると、イエス様は平和を願っておられないかのように感じます。しかしここで言われる平和とは何なのか、わたしたちは考える必要があるのかもしれません。 | ||||
当時の人たちは、自分たちさえよければと自分たちとは異なる人たちを遠ざけていました。民族、宗教、職業、そして律法を守っているかどうか、そのようなことで自分たちとは違う人たちを排除していきました。 | ||||
それを彼らは「平和」と呼ぶわけです。今のわたしたちの世界も一緒です。自分たちとは違う考えを受け入れず、自分たちに従うように迫る。それは「平和」ではないのです。イエス様はそんな自分勝手な「平和」を打ち壊し、本当の「平和」に導こうとされているのです。 | ||||
8月 26日「ルカによる福音書12:57〜13:5」 | ||||
決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 (ルカによる福音書13章5節) |
||||
ルカ福音書には、「悔い改め」という言葉が多くみられます。それはこの福音書が「異邦人」と呼ばれるユダヤ人以外の人に対して書かれたためです。ずっと神さまの愛に気づかずに生きてきた人に向けて書かれた、だからわたしたちに対するメッセージでもあるのです。 | ||||
そもそも「悔い改め」とは、単なる反省や後悔とは違います。ダイナミックな方向転換です。神さまに背を向けて歩いていたけれども、ある日、180度方向転換して神さまの方に向き直るということです。 | ||||
キリスト教とは、道徳的・倫理的にちょっと良い人になるための教えではないのです。あなたの生き方を180度変えるイエス様との出会いなのです。わたしたちは自分の力で生きているのか、それとも神さまに生かされているのでしょうか。あなたはどちらを選びますか。 | ||||
8月 27日「ルカによる福音書13:6〜17」 | ||||
園丁は答えた。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。」 (ルカによる福音書13章8節) |
||||
聖書の中でイスラエルの人々は、ぶどうやいちじくにたとえられることがあります。人々が神さまに喜ばれるようになることを「豊かな実をつける」と言いますが、そうでない場合は「斧は木の根元に置かれる」というのです。 | ||||
今日の箇所のたとえの中で、主人は園丁に、いちじくの木を切り倒してしまえと命じます。ところが園丁は、木の周りを掘って肥やしをやるので、そのままにして欲しいと願います。この園丁は、わたしたちが実を結ぶのを辛抱強く待ち続けるイエス様の姿です。 | ||||
次の年、いちじくの木が実を結ばなかったら、どうなるのでしょう。「去年約束しただろう。もう無理だ。切り倒してしまえ」という主人に対し、同じやり取りがなされるように思うのは、わたしだけでしょうか。 | ||||
8月 28日「ルカによる福音書13:18〜21」 | ||||
また言われた。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」 (ルカによる福音書13章20〜21節) |
||||
今年3年ぶりに、滋賀県の北小松で「教会ファミリーキャンプ」をおこないました。人数もさほど多くはなくこじんまりとしていましたが、天候にも恵まれ、ゆったりと過ごすことができました。 | ||||
日曜日の朝、愛さん式をおこないました。いつも礼拝で使用するウェハースではなく、焼き立てのパンを準備しました。水、強力粉、バター、砂糖、塩、スキムミルクをそれぞれ入れた後、真ん中のところに穴をあけてそこにベーキングパウダー(パン種)を入れました。 | ||||
ふかふかの焼き立てパンを、みんなで分かち合いました。わたしたちの心の中にも、温かいものが膨れ、満たされているような気持ちになりました。「神の国」とは、そういうものかもしれませんね。 | ||||
8月 29日「ルカによる福音書13:22〜30」 | ||||
狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。 (ルカによる福音書13章24節) |
||||
エルサレムに向かうイエス様に対し、一人の人が尋ねます。「救われる者は少ないのでしょうか」と。多ければ自分も選ばれると思ったのでしょうか。少なかったとしてもエルサレムに従う自分は選ばれるはずと思っていたのでしょうか。 | ||||
しかしイエス様は、救われる人の数には触れずに、狭い門から入るようにと促されます。狭い門さえ選べば、門が閉まる前であればすべての人が救いに導かれるとイエス様は言われています。 | ||||
ただし狭い門から入るには、自分の周りにあるあらゆるものから手を離す必要があります。すべてを握りしめたままでは無理です。すべてのものを神さまに帰し、神さまに委ねて狭い門を目指しましょう。 | ||||
8月 30日「ルカによる福音書13:31〜35」 | ||||
エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。 (ルカによる福音書13章34節) |
||||
ルカによる福音書とその続編である使徒言行録には、エルサレムに関する多くの記述が見られます。エルサレムはユダヤの人たちにとって、とても大切な場所でした。 | ||||
過越祭などの大きな祭りのときには、ユダヤ人の成人男子は神殿に行き、礼拝をしていました。また宗教の中心地でもあり、救いはここから広がっていくと思われていました。 | ||||
しかしファリサイ派やサドカイ派、律法学者といった宗教指導者たちは、イエス様やその前の預言者たちを受け入れることができませんでした。神さまの思いを理解できなかったのです。わたしたちの教会はイエス様に嘆かれてはいないでしょうか。 | ||||
8月 31日「ルカによる福音書14:1〜6」 | ||||
そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」 (ルカによる福音書14章3節) |
||||
聖書には、ルカによる福音書にしか載せられていない安息日のいやし物語があります。「安息日に、腰の曲がった婦人をいやす(13:10〜17)」や「安息日に水腫の人をいやす(14:1〜6)」がそうです。 | ||||
イエス様の十字架の後、ユダヤ人以外の人々(異邦人)にキリスト教が伝えられていく中で、ユダヤ人は異邦人に対し、割礼をすることや安息日などの律法を遵守することを求めようとしていきました。ルカ福音書はその異邦人に向けて書かれています。 | ||||
イエス様はその活動の中で、安息日とは何かを語っていました。すべての戒めは人を生かすためのものであって、人を縛ったり、苦しめたりするものではないのです。それが異邦人やわたしたちに向けて語られたメッセージなのです。 |