8月 11日「ルカによる福音書10:13~20」 | ||||
あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。 (ルカによる福音書10章16節) |
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72人を派遣して帰ってくるまでの間、イエス様は悔い改めない町を叱ります。「町を叱る」とはどういうことなのか、ちょっと想像がつきませんが、イエス様は後にエルサレムのために嘆いてもおられます。 | ||||
聖書の記述は、神さまとイスラエルの民とが契約をしたことを前提に進んでいきます。しかしイエス様は一つの民族のためだけではなく、全世界へと宣教の場を広げていかれました。神さまの愛がすべての人に伝えられていくのです。 | ||||
わたしたちに求められているのは、町単位、民族単位の決断ではありません。「あなたはどうするか」ということです。一人ひとりがイエス様を心に迎え入れることが必要なのです。 | ||||
8月 12日「ルカによる福音書10:21~24」 | ||||
それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。」 (ルカによる福音書10章23節) |
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子どもの頃何か良いことをしたときに、先生や親から思いっきり褒められて、とてもうれしかった思い出があります。人間だれしも、褒められればうれしいし、逆に叱られると落ち込んでしまいます。 | ||||
72人が帰って来たとき、イエス様は聖霊によって喜びにあふれたと書かれています。72人の働きを喜ばれた。それも天に届くほどの勢いで、賛美と祈りが届けられたということなのです。 | ||||
わたしたちの小さな働きも、イエス様はこのように喜んでくださっているのだと思います。わたしたちは幼子のように、神さまの愛なしでは生きていけない存在です。しかしその一人ひとりを喜びを持って用いてくださる方がおられるということを、覚えておきましょう。 | ||||
8月 13日「ルカによる福音書10:25~37」 | ||||
律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」 (ルカによる福音書10章37節) |
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「わたしの隣人とは誰ですか」、この律法の専門家の質問には、自分の愛の対象者を限定したいという思いがあるようです。ユダヤ人は自分たちの「聖(きよ)さ」を守るために、罪人、徴税人、娼婦、そしてサマリア人などとは一切交際しませんでした。 | ||||
しかしイエス様が語られた「善きサマリア人」の物語では、強盗に襲われたユダヤ人に手を差し伸べたのは、神殿で礼拝を司る祭司やレビ人ではありませんでした。普段から敵対し、憎み合っていたはずのサマリア人が介抱し、彼の隣人になったのです。 | ||||
イエス様は、「行って、あなたも同じようにしなさい」と命じられます。思い浮かべてみましょう。あなたが普段関わりたくない人。避けたい人。考えが全く違う人。嫌いな人。消えて欲しい人、そのような人たちを、隣人として受け入れることができますか。 | ||||
8月 14日「ルカによる福音書10:38~42」 | ||||
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 (ルカによる福音書10章41節) |
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「マリアとマルタ」の物語が読まれると、教会では「わたしはマルタタイプ」、「あの人はマリアタイプ」といった会話が聞かれることがあります。そしてたいていの場合、「マルタタイプ」と言われた人は、肩身が狭いようです。 | ||||
イエス様はマルタに対し、「マルタ、マルタ」と呼びかけます。名前を二度繰り返すのは、親しみをあらわします。イエス様はマルタを非難しているのではなく、たしなめているのです。「マリアの選んだことについて、あなたが考える必要はないよ」。 | ||||
教会には、マルタさんが必要です。人がそれぞれ、自分の置かれた場所で、自分のできることをする。これがないと、共同体は活性化しません。しかし人のことはどうでもよいのです。あなたが、あなたにあたえられたことをする。それだけなのです。 | ||||
8月 15日「ルカによる福音書11:1~13」 | ||||
しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。 (ルカによる福音書11章8節) |
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イエス様は「祈りを教えてください」と願う弟子に対し、一つのお祈りを教えられます。このお祈りは「主の祈り」として、世界中で最も祈られているお祈りです。しかしイエス様は、そのお祈りをただ唱えるのではなく、どのように祈るかもたとえを使って示されました。 | ||||
真夜中に友達のところに行って「パンを貸してください」と頼んでも、最初は戸を開けてもらえないだろう。でも何度も何度も、執拗に頼めば、きっと友達はその扉を開けてくれるに違いない。お祈りもそういうものだとイエス様は語られます。 | ||||
ただここで、心に留めておきたいことがあります。この執拗に戸を叩いた人は、自分のために願ったのではありません。旅の途中でお腹を空かせた友達のために、願っています。わたしたちのお祈りも「誰かのため」に、執拗に願うことができればと思います。 | ||||
8月 16日「ルカによる福音書11:14~23」 | ||||
あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。 (ルカによる福音書11章18節) |
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昔、かなり気持ち悪い映画を見たことがあります。悪魔が大量のハエを使って人を襲うのですが、ハエは人の体をついばみ、あっという間に白骨化していくというものでした。ハエって肉食だっけ?とは思いましたが。 | ||||
聖書に出てくる悪霊の頭ベルゼブルは、「ハエの王」だそうです。仮面ライダーの怪人に出てきそうです。そう考えると、イエス様が本当にそのベルゼブルの仲間だとしたら、かなりショックです。 | ||||
結局イエス様の力を信じない人は、あれやこれやと理由をつけるのです。イエス様は悪霊の頭の力を使ってわたしたちを惑わそうとしているのでしょうか。それともわたしたちの間に神の国を来させるために、神さまの力を使っておられるのでしょうか。 | ||||
8月 17日「ルカによる福音書11:24~28」 | ||||
イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」 (ルカによる福音書11章27節) |
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クリスマスを迎える前、アドベントに入ると、こういう話を子どもたちにすることがあります。「さあもうすぐクリスマス、イエス様がみんなのお心にも来てくださいますよ。それまでにお心をきれいに掃除しましょうね」。 | ||||
ところが今日のイエス様の言葉を聞くと、下手に心をきれいにすると悪霊がどんどん入って来てしまうような、間違った印象を受けてしまいます。ただ単に心を清めるのではなく、心を神さまに委ねていくことが大切なのです。 | ||||
そして一人の女性が声を張り上げ、イエス様の母マリアをほめました。イエス様を育て上げたことが素晴らしいというのでしょうか。しかしイエス様は、神の家族とは神の言葉に聞き、それを守る人たちだと言われます。ではわたしたちはどうでしょう。聞き、守っていますか。 | ||||
8月 18日「ルカによる福音書11:29~36」 | ||||
群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。 (ルカによる福音書11章29節) |
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旧約聖書には様々な物語が収められています。ダビデの子であるソロモン王は神さまに知恵を求め、栄華を極めます。彼の元を訪ねたシェバの女王はソロモンの知恵と彼の建てた宮殿に目を見張ります。(列王記上10章に詳しく書かれています) | ||||
またヨナ書には、ニネベの町に対し悔い改めを呼びかけるように命じた神さまを無視し逃亡したヨナが、魚の腹の中に三日三晩いた物語が載せられています。とても短く面白いので、一度お読みになってください。 | ||||
女王はソロモンを、そしてニネベの人々はヨナの言葉を信じました。ところがそれに優るイエス様の言葉を信じないのはどういうことなのでしょうか。目に見える財産や不思議な出来事がないと信じられない、というのは信仰ではないのです。 | ||||
8月 19日「ルカによる福音書11:37~54」 | ||||
イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。 (ルカによる福音書11章37節) |
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イエス様がファリサイ派の人から食事の接待を受けたという記事は、わたしたちには奇妙に映るかもしれません。というのもファリサイ派はイエス様の教えを受け入れることができなかったからです。現に今日の箇所でも彼らはイエス様から非難されています。 | ||||
ファリサイ派の人がイエス様を食事に誘った理由はただ一つ、見栄のためでした。イエス様は会堂などで人々に教える教師という一面も持っていました。安息日にそのような人を家に招くことは、自分のステータスを上げることだと考えられていたのです。 | ||||
外側ばかり気にするファリサイ派の人は、食事の前に身を清めないことを驚き、会堂では上席に座ることや広場で挨拶することを好みます。すべて「人の目にどう映るか」ということです。わたしたちもファリサイ派のようになってはいないでしょうか。 | ||||
8月 20日「ルカによる福音書12:1~7」 | ||||
それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。 (ルカによる福音書12章7節) |
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偽善という言葉は、「うわべをいかにも善人らしく見せかけること。また、そういう行為」という意味だそうです。パン種は小麦粉の中に入るとどこにあるかわからなくなりますが、熱を加えると驚くほど周りを大きく膨れさせます。 | ||||
ファリサイ派の人も見た目には神さまの前に正しい者のように思えますが、人々に様々な悪い影響を与えてしまうということでしょうか。 | ||||
そしてイエス様は、神さまを恐れなさいと言われます。この言葉はとても怖く聞こえますが、「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられる」神さまの姿も同時に示されます。神さまはわたしたちのことを、わたしたち以上に知ってくださっているのです。その神さまの愛を知ったわたしたちは、他に何を恐れることがあるでしょうか。 |