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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2022年8月1日〜10日

8月 1「ルカによる福音書84056
 ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。
(ルカによる福音書8章43節)
今日はこの「12年間出血の止まらない女性」(長血の女と呼ばれることもあります)にスポットを当てたいと思います。血が止まらないことは不浄であること、つまり宗教的に汚れていることを示します。会堂にも入れず、社会からも阻害されていたでしょう。
彼女は会堂長ヤイロと共に歩くイエス様の姿を見ます。その様子から、何か大変なことが起こったのではないかと想像はしたでしょう。また周りにいる群衆も、彼女とイエス様とを分け隔てていました。
しかし彼女は、イエス様の服の房に触れました。イエス様にすがるしかない彼女は、たった一人でイエス様のそばに行き、憐れみを求めました。その彼女の心にイエス様は気づき、足を止めたのです。イエス様はそのような一人にも、目を向けられるのです。
8月 2「ルカによる福音書919
 次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。
(ルカによる福音書9章3節)
わたしたちは様々なことをおこなう前に、「計画」を立てます。資金は足りるのか、広報手段はどうするのか、不測の事態が起こったときには誰がどのように対処するのか。そのために準備をすることが大事なことだと考えるのです。
しかしイエス様は12人に対し、何も持たないように命じました。野獣を追い払う杖も、施しを受けるための袋も、食料もお金も、夜の寒さから身を守る二枚目の下着も持たせてはくれませんでした。
それは、神さまが共にいて守り、導いてくださることを12人に知らせるためだったのでしょう。お金がないから宣教ができない。人が足りないから福音が伝えられない。それは言い訳に過ぎないのです。
8月 3「ルカによる福音書91020
 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。
(ルカによる福音書9章16節)
昨日の箇所で派遣された12人の使徒たちは、イエス様の元に帰って来て報告します。彼らは何も持たずに出かけましたが、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやしたと書かれています。
ベトサイダに退いた彼らを追って、群衆はやって来ます。イエス様はここでも教え、癒します。そして群衆を解散させるように言ってきた12人に対し、「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」と命じられます。
何も持たず、神さまに全てを委ねて宣教に出かけた12人でしたが、実際にパンと魚を手にするまでは5000人が満腹するとは思えませんでした。しかしイエス様はすべての人を満腹させる奇跡の業に、12人を巻き込んでいくのです。
8月 4「ルカによる福音書92127
 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
(ルカによる福音書9章23節)
イエス様に従うためには、自分を捨てないといけない。そう聞くとわたしたちは、イエス様に従うことってすごく大変なことだなと感じてしまいます。この「自分を捨て」とは、どういうことなのでしょう。
「自分を捨て」という言葉を原文どおりに訳すと、「自分自身を否定する」となります。しかしそれは決して自分をないがしろにしたり、自分の命を軽んじたりということではありません。
神さまとの関係の中で、自分の立ち位置を定めなさいということなのだと思います。神さまの前に、わたしたちは自己主張ばかりしていないだろうか。自分の利益ばかりを追い求めていないだろうか。そのように「日々」考えること、それが必要なのでしょう。
8月 5「ルカによる福音書92836
 すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。
(ルカによる福音書9章35節)
ペトロたち三人が目にした光景は、まさに神の国の先取りといえるものでした。モーセ、そしてエリヤと語るイエス様の服は白く光り輝き、そして栄光に包まれていました。
しかしイエス様たちがエルサレムでの最後のことを話している大事な時に、弟子たちは眠りこけてしまいます。一番大事なところを聞き逃してしまった、そういう意味なのかもしれません。そしてペトロは幕屋を三つ建てる提案をします。
幕屋を建てることは、その栄光を自分たちの元に留まらせるということです。しかしイエス様はすべての人のために十字架につけられるために、山を下ります。わたしたちの教会はどうでしょう。イエス様の栄光を自分たちだけのものと勘違いしてはいないでしょうか。
8月 6「ルカによる福音書93745
 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」
(ルカによる福音書9章41節)
山上でのイエス様の変容の記事に続いて、マタイ・マルコ福音書と同じようにルカ福音書は、残された9人の弟子たちが悪霊を追い出すことができなかったという物語を報告します。
マタイ・マルコでは「からし種の信仰」、「祈りによらなければ」とイエス様は弟子たちに教えました。ルカではイエス様が「なんと不信仰で、ゆがんだ時代なのか」と嘆く場面しか書かれていません。この嘆きは、わたしたちにも向けられているのではないでしょうか。
続いてイエス様は、二度目の受難予告をされます。弟子たちにはその意味が分かりませんでしたが、怖くてイエス様にその意味を聞くことができませんでした。彼らは何を恐れていたのでしょうか。真実から目を逸らそうとする彼らの姿に、あなたは何を見ますか。
8月 7「ルカによる福音書94650
 イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」
(ルカによる福音書9章50節)
イエス様の二度目の受難予告の後に、弟子たちは「誰が一番偉いか」という議論を交わします。イエス様の受難の意味を聞くことすら怖がっていた彼らがです。しかしわたしたちの教会の中にも、序列やランク付けなどは存在しないでしょうか。
イエス様はそうではなく、「子どもを受け入れる者がわたしを受け入れる」と言われます。それも「わたしの名のために」と。イエス様の愛をすべての人に知らせるため、当時数にも数えられなかった子どものような小さくされた人と共に歩む。それが教会の使命です。
わたしたちの教会は、閉鎖的であってはなりません。自分たちに従わないから敵なのではなく、逆らわない人は味方として受け入れなさいという言葉を、教会でも実践していきましょう。
8月 8「ルカによる福音書95156
 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。
(ルカによる福音書9章51節)
ルカによる福音書は、ここから新たな展開を迎えます。新共同訳では「天に上げられる時期が近づくと」と訳されていた言葉が、聖書協会共同訳では「天に上げられる日が満ちたので」となっています。「チャージ完了」といったイメージでしょうか。
しかしエルサレムに向かうにあたり、イエス様が使いの者を送った場所は、当時の常識からするとふさわしくない場所でした。ユダヤ人とサマリア人は憎み合っていたからです。事実、イエス様は歓迎されませんでした。
わたしたちも福音を宣べ伝えているのに、邪魔をされたと感じることもあるでしょう。そしてヤコブやヨハネと同じように、怒りを燃やすかもしれません。しかしそれは、イエス様の思いとは異なるのです。イエス様はすべての人を救いに導くために来られました。
8月 9「ルカによる福音書95762
 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。
(ルカによる福音書9章57節)
エルサレムに向かって歩みを進めるイエス様は、「弟子の覚悟」を語られます。「わたしには安らぐ場所はない」、「父の葬りより宣教を優先させなさい」、「家の者に別れを告げることはない」。言い方は違いますが、このように捉えることができます。
この言葉を聞いて、背筋がゾ〜っとするのはわたしだけでしょうか。イエス様も大事だけれども家族も大事。その気持ちはイエス様の弟子として、ふさわしくないのでしょうか。
それともイエス様は、あらゆる言い訳を胸に、イエス様からの招きを回避しようとするわたしたちの心を見透かされているのでしょうか。弟子とは何なのか、考えていきたいと思います。
8月 10「ルカによる福音書10112
 その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。
(ルカによる福音書10章1節)
昨日の箇所でイエス様は、「弟子の覚悟」を語られました。その直後に、イエス様が72人を派遣された記事が記されます。72という数字は、この当時考えられていた世界の民族の数だそうです。
そのことから、この72人の派遣は全世界への宣教と考えることが多いです。しかしもう一つの側面にも目を向けたいと思います。それは、「72人も選ぶのは大変だったんじゃないの」ということです。
宣教に遣わすのですから、その人の資質や能力を見極めたいところです。数人ならばそれも可能でしょう。でも72人となれば…。イエス様は手当たり次第、誰でもいいから選んだのではないでしょうか。イエス様の呼びかけに「はい、行きます」、それだけでいいのです。

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