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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2022年7月21日〜31日

7月 21「ルカによる福音書62736
 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
(ルカによる福音書6章32節)
メールやLineなどの発達によって、他の人と意見を交わす機会は増えたように思います。またFacebookやニュースの掲示板にも様々な考えを自由に書き込むことができるようになりました。
しかし中には、人を傷つけ、見るに耐えられないような内容の物もあります。「敵を愛する」ということは、自分とは考えも生き方もまったく違うような人も大切にしなさいという意味です。
31節の「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」は黄金律(ゴールデンルール)と呼ばれ、すべての基本のことです。思ったことを何でも書き込むのではなく、少し立ち止まって、「自分が言われたらどう思うか」考える余裕が欲しいものです。
7月 22「ルカによる福音書63742
 人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
(ルカによる福音書6章37節)
人間はどうして、他人を裁きたがるのでしょうか。わたしたちは社会生活だけでなく教会においても、「あれはダメだ、これはいけない」と決めがちです。そしてそれに従うことが出来ない人を遠ざけてしまうことがあります。
他人を裁き、その罪を定めることで、自分の正しさが証明されるのでしょうか。ファリサイ派や律法学者はそう考えていたかもしれません。しかし神さまの前に正しい人は、一人もいないのです。
自分の目の中にある丸太に気づかずに相手のおが屑を取ろうとする光景は、とても滑稽です。神さまから見たらわたしたちは、そんな一人ひとりなのです。わたしたちは人を裁いたり、罪に定めたりすることから解放されましょう。
7月 23「ルカによる福音書64349
 わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
(ルカによる福音書6章46節)
イエス様はぶどうやいちじくなど、当時の人たちにとって身近なものを用いて人々に語ります。「良い実がなるのは良い木だ」ということが当たり前であったので、イエス様の言葉はすんなり入ってきたことでしょう。
「平地の説教」の最後に、「家と土台」というたとえが語られます。マタイ福音書では岩の上に家を建てた人と、砂の上に家を建てた人が対比されていました。ルカ福音書では「土台」に焦点が当てられます。
土台をしっかり作るとは、どういうことでしょうか。日々祈り、み言葉に聞くことも、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えることだと思います。わたしたちの信仰がしっかりと建てられるように、歩みましょう。
7月 24「ルカによる福音書7110
 そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。
(ルカによる福音書7章6節)
ルカによる福音書は、異邦人(ユダヤ人以外の人)が多くいる共同体の中で書かれたと考えられています。今日の箇所に出てくる百人隊長は異邦人でした。
彼は異邦人でありながらユダヤ人のために会堂を建て、ユダヤ人を愛していました。その思いがユダヤ人の長老たちを動かし、イエス様をも動かしました。しかしイエス様に出会った百人隊長は、言葉だけを求めました。
神さまを畏れ、そして信じる。異邦人である百人隊長のこの信仰に対し、イエス様は感心します。原文では「驚嘆し」という言葉です。この百人隊長の姿こそ、わたしたちの信仰のお手本となるのではないでしょうか。
7月 25「ルカによる福音書71117
 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。
(ルカによる福音書7章13節)
ナインでやもめの息子を生き返らせたこの物語は、ルカ福音書にしか書かれていません。わたしたちはこの物語を読むときに、「死人が生き返った」という奇跡に目が行きがちですが、実はもっと大きなポイントがあります。
それは、「誰もイエス様に頼んでいない」ということです。イエス様の元に行き、「どうかこの子を生き返らせてください」とは言っていないのです。それどころか誰かの信仰をほめることもありません。
この奇跡物語の動機は、イエス様の憐れみです。母親の涙を見て一方的に憐れみ、手を差し伸べる。そのときに告げられる「もう泣かなくともよい」という言葉は、きっとわたしたちの元にも届けられることでしょう。
7月 26「ルカによる福音書71835
 主のもとに送り、こう言わせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
(ルカによる福音書7章19節)
ルカによる福音書ではイエス様と洗礼者ヨハネとの対比が多く語られます。誕生が天使によって予告される、天使に名前を告げられる、妊娠中に母親同士が出会う、洗礼者ヨハネの誕生の半年後にイエス様が生まれる。
聖書は洗礼者ヨハネを旧約最後の預言者と位置づけます。彼は荒れ野で悔い改めを叫び、断食をしました。しかし彼がいくら叫んでも、人々は神さまの前に本当の意味で「正しい者」とはなれなかったのです。
イエス様はナザレの会堂で宣言した通り、弱く小さくされた人を立ち上がらせるために来られました。自分の力ではどうすることもできない人たちが、もう一度神さまとの正しい関係に戻ること、それが神さまの願いであり、イエス様を遣わされた意味なのです。
7月 27「ルカによる福音書73650
 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。
(ルカによる福音書7章42節)
ユダヤでの食事は、多くの場合扉が開けられた状況でおこなわれていたようです。また招かれた人は寝転がって足を投げ出し、肩ひじをついて食事をしていたようです。だからこの女性はイエス様の足元に行くことは容易にできたのでしょう。
ただしその行動は、してはならないことでした。なぜなら彼女は「罪深い」女性だったからです。それでも彼女は、イエス様に対してただただ愛を示します。イエス様は彼女のおこないを「信仰」だと認めました。
彼女は多く赦されたから、多く愛すのだとイエス様は言われます。わたしたちはどうでしょうか。どれだけの借金を帳消しにしてもらっているでしょうか。「わたしは自分の力で借金を返した」、「わたしにはそもそも借金はない」、そう思ってはいないでしょうか。
7月 28「ルカによる福音書818
 悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。
(ルカによる福音書8章2〜3節a)
ルカ福音書はここで、12弟子と共にイエス様に従う女性たちに言及します。聖書が書かれた時代、女性の地位は低く、宗教的行事や公的な活動からは除外されていました。
しかし聖書の中では、彼女たちの存在は非常に大きなものでした。特にマグダラのマリアは、イエス様の十字架の場面を見守り、イエス様の墓を訪れ、そして復活の証人として描かれていきます。
彼女はイエス様の弟子として重要な役割を担っていたのだと、多くの研究者は記します。わたしもそのように思います。わたしたちの教会も、性別など関係なくすべての力で支え合えるといいですね。
7月 29「ルカによる福音書8915
 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。
(ルカによる福音書8章15節)
4節から始まる「種を蒔く人のたとえ」に違和感を覚えないでしょうか。わたしたちが思い浮かべる種まきは、穴をあけた場所に種を落とすやり方だと思います。ヒマワリや朝顔など、そうして植えてきました。
しかしパレスチナ地方の種まきは、種をばらまいた後で土を耕すという方法でおこなわれます。この種をばらまき耕す人と、神さまとを重ね合わせて考えてみましょう。
わたしたちがどのような土地にいても、種は与えられるのです。たとえすぐに芽が枯れても、試練につまずいても、いつか忍耐して実を結ぶことを神さまは期待されているのではないでしょうか。
7月 30「ルカによる福音書81625
 だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。
(ルカによる福音書8章18節)
信仰義認という言葉があります。わたしたちは信仰によってのみ、神さまから義と認められるという意味です。しかし、良い行いがまったく必要ないという意味ではありません。ここでイエス様は「どう聞くべきか」ということに目を向けられます。
ただみ言葉を聞くだけではなく、その恵みをどうしていくのか。神さまから与えられた愛を誰に伝えるのか。強制されるのではなく、喜びにあふれハレルヤと叫びながら押し出されていく。
神の言葉を聞いて、行う人となりましょう。イエス様はその人たちを、「神の家族」と呼ばれます。わたしたちの教会は、神の家族の集まりとなっているでしょうか。「聞くこと」と「行うこと」、そのバランスはどうでしょうか。
7月 31「ルカによる福音書82639
 「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。
(ルカによる福音書8章39節)
異邦人の住む町で、イエス様は悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出されます。レギオンと呼ばれる悪霊が豚(ユダヤ人は汚れていると考えていた)の中に入り、次々と湖の中に飛び込んでいく様子は、想像するだけで怖いものがあります。
実際にその様子を見ていたゲラサ地方の人たちは恐怖にとらわれ、イエス様に自分たちの住む場所から出て行って欲しいと願います。彼らはイエス様を受け入れることができなかったのです。
一方、悪霊を追い出してもらった人は、イエス様に従おうとしました。イエス様はその申し出を受けず、自分の家に帰り、そこでこの出来事を言い広めるように告げます。彼にふさわしい場所が、与えられたということです。

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