7月 11日「ルカによる福音書4:31〜37」 | ||||
人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」 (ルカによる福音書4章36節) |
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昨日の箇所は、イエス様が来られたことによって神さまの恵みの業が「実現」するという宣言でした。その一つに、「捕らわれている人に解放を」という言葉がありました。 | ||||
会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいました。本来彼のような「汚れた」とされる人は、会堂からも、人々の交わりからも排除されていたことでしょう。しかしイエス様は、「構わないでくれ」というその人に、構ったのです。 | ||||
人々は、イエス様の「言葉」に驚きます。「おこない」ではなく「言葉」に権威を感じるのです。ヨハネ福音書の冒頭「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」が思い起こされます。 | ||||
7月 12日「ルカによる福音書4:38〜44」 | ||||
イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。 (ルカによる福音書4章39節) |
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イエス様はシモンの家に行かれます。シモンとは明日登場する漁師、シモン・ペトロのことです。マルコ福音書ではペトロは弟子になってイエス様を家に招きますが、ルカ福音書では弟子になる前に家に招いたことになっています。 | ||||
家には、ひどい熱に苦しめられているシモンのしゅうとめがいました。彼女をいやすために、イエス様は熱に対して??りつけました。手を取るわけでもなく、手を置くわけでもありませんでした。 | ||||
言葉の力によって、イエス様は彼女をいやします。「この言葉はいったい何だろう」と人々が驚いた前回の箇所の場面が、心に思い起こされます。 | ||||
7月 13日「ルカによる福音書5:1〜11」 | ||||
これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 (ルカによる福音書5章8節) |
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漁師を弟子にする召命物語はマタイ・マルコにも載せられていますが、ルカ福音書の物語には他にはない特徴がいくつか見られます。まずシモン・ペトロとイエス様はすでに会っていました。4章の終わりでシモンはイエス様を家に招いています。 | ||||
またマタイ・マルコではイエス様はただ「わたしについて来なさい」と呼ばれたとありますが、ルカではイエス様の指示通りに網を降ろすと、おびただしい魚がかかったという物語が書かれています。 | ||||
その奇跡に恐れ、「わたしから離れてください」と言うシモン・ペトロの姿に、親近感を覚えます。わたしたちは言葉だけを信じて歩むことは難しいかもしれません。でも戸惑い恐れながら、イエス様に何とかついて行こうとする気持ちが必要なのです。 | ||||
7月 14日「ルカによる福音書5:12〜16」 | ||||
イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。 (ルカによる福音書5章13節) |
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「重い皮膚病」とは現在のハンセン病だけではなく、いくつかの皮膚病をしまします。この病気は罪に対する罰とされ、この病気にかかると共同体から追い出され、また治る見込みはないとされていました。 | ||||
協会共同訳聖書では、病気の人とイエス様の言葉が新共同訳とは違う翻訳で書かれています。「主よ、お望みならば」という病気の人の言葉に対し、イエス様は「私は望む。清くなれ」と答えられます。「御心ならば」、「よろしい」とは随分印象がかわります。 | ||||
イエス様は、社会から排除された人々が元に帰ることを望まれているのです。単なる病気の癒しなのではなく、人間関係の回復や社会復帰など、様々な要素がここに含まれます。イエス様は人が人として生きていくことをお望みなのです。 | ||||
7月 15日「ルカによる福音書5:17〜26」 | ||||
イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。 (ルカによる福音書5章20節) |
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当時、様々な病気は神さまからの罰だと考えられていました。その人(あるいは肉親)が罪を犯したから病気になったのだと、人々は考えていました。中風とは体の一部が麻痺する病気です。きっとたいへんな罪を犯したに違いないと考えられていました。 | ||||
しかし、その「罪人」とされていた人に、手を差し伸べる人たちがいました。彼らは歩けないその人を床に乗せ、イエス様の元につれて行きます。さらに家に入れないと知ると、屋根に上り瓦をはがして、その人を床ごと群衆の真ん中に降ろします。 | ||||
イエス様は、その人たちの信仰を見られて、罪の赦しを宣言されます。病気の人ではなく、その仲間の信仰を良しとされたのです。病気の人を見捨てず、イエス様の元に連れて行き、願い求める。これはわたしたちの教会にも求められる姿勢なのではないでしょうか。 | ||||
7月 16日「ルカによる福音書5:27〜32」 | ||||
そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。 (ルカによる福音書5章29節) |
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徴税人はお金持ちでした。彼らはユダヤ人でしたが、ローマ帝国からユダヤ人に課せられた税金を集めていました。しかも決められた額以上の物を集め、差額は自分の懐に入れていました。ユダヤ人にとって、彼らは裏切り者でした。 | ||||
教会は金持ちが集う場所ではない。社会的弱者にのみ手を差し伸べたらいいと言われる人がいます。果たしてそうでしょうか。イエス様はどうして彼らの宴会に参加して、飲み食いしたのでしょうか。 | ||||
お金がある、なしが基準なのではありません。自分の弱さに気づき、イエス様を受け入れる人に、喜びの宴は開かれます。すべての人が招かれ、神さまに向き直ること。それが神さまの思いです。そのためにイエス様は、すべての人と食卓を共にしようとされるのです。 | ||||
7月 17日「ルカによる福音書5:33〜39」 | ||||
そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。」 (ルカによる福音書5章36節) |
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「旅する教会」と日本聖公会のことを称した方がおられます。イエス・キリストは2000年前に十字架につけられ、復活されました。そこからキリスト教は始まりましたが、聖書の解釈や教理など、様々な「神学」も生まれてきました。 | ||||
人間の考えることに「絶対」はありません。神さまから与えられたみ言葉を元に、わたしたちの教会はいつもなにが神さまのみ心なのかを考えながら、「旅する」ことが大事なのです。 | ||||
古い習慣や伝統にとらわれずに、何が今必要で、何が今求められているのか考えていきましょう。教会が常に新しく、生き生きとしたものとされ、用いられるようにと祈り続けましょう。 | ||||
7月 18日「ルカによる福音書6:1〜11」 | ||||
そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」 (ルカによる福音書6章9節) |
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ルールや規則が絶対化され、人々がその枠組みの中に入れられるということは一般社会においてもよくみられます。法律や校則、そして当時の安息日もそうでした。安息日には一切の労働を禁ずるという強い掟でした。 | ||||
一方、「牧会的配慮」という言葉があります。教会や社会的にはこう決まっているかもしれないけれども、牧師の判断でこのようにおこなう、と決めることです。礼拝堂の使い方や聖歌の用い方、様々な人との関わり方にいたるまで、あらゆる配慮がなされます。 | ||||
その根底にあるのは、「イエス様だったらどうするか?」という思いです。イエス様だったら子どもを「うるさい」と言って追い出しただろうか。献金をちゃんと納めないと礼拝堂に入ってはならないと言われただろうか。「安息日の主」に聞いていきましょう。 | ||||
7月 19日「ルカによる福音書6:12〜16」 | ||||
そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。 (ルカによる福音書6章12節) |
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イエス様は12人を選ぶ前夜に山に登り、祈られました。このことから選ばれた12人は、神さまのみ心によって使徒とされたことがわかります。その中にイエス様を裏切ることになるユダが含まれるということは、裏切りも神さまのご計画なのでしょう。 | ||||
12という数字は、イスラエル民族の数を示します。彼ら使徒たちが新しいエルサレムをつくっていくイメージでしょうか。イスカリオテのユダがイエス様を裏切り死んだあと、使徒言行録にはマティアを選び、「12人」になるように補充した記事が書かれています。 | ||||
この12人の多くは、聖書の他の箇所にほとんど記述がありません。しかし様々な伝説が残っています。興味のある人は、「遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子」(遠藤周作著)を手に取ってみてください。 | ||||
7月 20日「ルカによる福音書6:17〜26」 | ||||
イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、 18イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。 (ルカによる福音書6章17〜18節) |
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イエス様は12人を使徒として選んだあと、山を下ります。そこでは多くの人たちがイエス様を待っていました。イエス様は彼らをいやし、6章の終わりまで続く長い説教を語られます。 | ||||
マタイ5〜7章の山上の説教と内容が似ているものの、ルカでは山を下りているので「平地の説教」と呼ばれます。単に場所の違いではなく、ここには大きな意味があります。それはほとんどの人は自力で山を上ることが出来なかったということです。 | ||||
神さまのみ恵みが自分の元にくるのを、ただただひたすら待つ。それしか出来ない多くの人に、イエス様は関わられたのです。イエス様が語られたことは、「逆転」が起こるということでした。幸いと災いとが、神の国では逆転するのです。 |