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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2022年7月1日〜10日

7月 1「ルカによる福音書15766
 父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。
(ルカによる福音書1章63節)
高齢の妻エリサベトに子どもが生まれるという主の天使の言葉を信じることができなかったザカリアは、口が利けなくなっていました。近所の人々や親類が手振りで話しかけているところをみると、耳も聞こえなくなっていたことがわかります。
この当時、生まれてきた子どもには祖父の名前などを付けることが一般的でした。ただし父親の名前をそのまま付けるのは稀で、「ティマイの子、バルティマイ」(バルは息子の意味)といったつけ方もあったようです。
しかしヨハネは違いました。彼の名は主の天使によって定められていました。つまり神さまの思いがその名前に込められたのです。ヨハネとは、「神さまは恵み深い」という意味です。彼はイエス様の道備えをする者として、イエス様の半年前に生まれました。
7月 2「ルカによる福音書16780
 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
(ルカによる福音書1章67節)
「その名はヨハネ」と書き記したザカリアの口は、神さまによって開かれました。ザカリアは疑う者から、信じ賛美する者へと変えられたのです。この箇所を新共同訳聖書は「ザカリアの預言」と書いていますが、「ザカリアの賛歌」と解釈した方がよいでしょう。
ザカリアが洗礼者ヨハネの誕生予告を受けてから誕生するまで、およそ10ヶ月にわたる沈黙の期間がありました。神さまの計画を聞きながら受け入れることができなかった自分に対する深い後悔もあったことでしょう。
しかしこの賛歌を聞くと、ザカリアの心には後悔だけではなく喜びも満ち溢れていたように思います。エリサベトをはじめ他の人との会話がない分、ザカリアは神さまに語り掛けられ、その思いに気づくことができたのではないでしょうか。
7月 3「ルカによる福音書217
 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
(ルカによる福音書2章1節)
ルカによる福音書は、「順序正しく」書くのだと1章の初めに書いてありました。そのためイエス様の誕生は、皇帝アウグストゥスが全領土の住民におこなった住民登録の勅令という、歴史的状況に関わる記述と共に記されています。
この世界史の文脈の中にイエス様の誕生が結び付けられることで、その出来事には普遍的な意味が与えられます。イエス様はユダヤだけに特化した救い主ではなく、全人類のために誕生された方だということを伝えているのです。
「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と記述を見ると、幼稚園などの降誕劇(ページェント)を思い出す方もおられるでしょう。なおイエス様は洞窟で生まれたのだという伝説も、紀元2世紀半ばまでに広まっていったようです。
7月 4「ルカによる福音書2821
 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
(ルカによる福音書2章15節)
羊飼いが野宿をしていると突然主の天使があらわれ、周りが主の栄光で照らされる。とても美しく、心に残る場面です。「のはらでひつじがめぇめぇめぇ」という歌が頭の中をよぎったという方もおられるのではないでしょうか。
羊飼いに喜びの知らせが真っ先に届けられたということ。ここには大きな意味がありました。というのも定住する場所を持たない羊飼いは貧しく、また神さまの掟である律法も守ることができなかったからです。(動物を相手にしているのに、週一度休め、なんて無理です)
イエス様の誕生の知らせが、金持ちや地位の高い人、宗教家などではなく、貧しく虐げられていた人にまず伝えられたということ。そのことは、神さまの目がわたしたちにも向けられていることを示しているのです。
7月 5「ルカによる福音書22238
 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。
(ルカによる福音書2章22節)
男の子を産んだ母親は、律法によると7日間汚れており、さらに子どもの割礼後も33日間は血の清めのために必要とされていました。そしてその期間は、聖なる場所である神殿に入ることができませんでした。(キリスト教ではそのような決まりはありません)
イエス様の両親は、律法をきちんと守っていたようです。しかしその奉献のときにシメオンが語った預言は、両親を驚かせました。さらに「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と言われたマリアの心境はどうだったのでしょう。
シメオンに続いて、女預言者アンナが登場します。ルカ福音書ではしばしば、男性と女性とが対になって書かれます。なお旧約聖書で女預言者として紹介されるのは、ミリアム(出15:20)、デボラ(士4:4)、フルダ(王下22:14)、イザヤの妻(イザ8:3)の四人だけです。
7月 6「ルカによる福音書23952
 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
(ルカによる福音書2章49節)
ユダヤ人の男子は13歳で「律法の子」とされ、一人前とみなされていました。この時のイエス様は12歳なので、成人の一歩手前と考えることが出来ます。イスラエルの成人男子は年に三回エルサレムに行き、祭りに参加することが義務付けられていました。
イエス様の両親も、毎年エルサレムに行っていたようです。ナザレから100q以上離れた場所まで、彼らは地域ぐるみで移動していました。だから近くに我が子がいなくても、「どこかの家族と一緒に歩いているだろう」と思っていたのでしょう。
しかしイエス様は、神殿に残っていました。そればかりか、教師たちの真ん中で話を聞き、質問もしていたようです。イエス様には神さまから知恵が与えられ、ご自分は神さまの家に属する者だと認識されたのです。
7月 7「ルカによる福音書3120
 悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
(ルカによる福音書3章8節)
ルカ福音書では、洗礼者ヨハネとイエス様とが対比されて描かれてきました。誕生の予告や誕生物語を通して、道備えをする洗礼者ヨハネの役割が示されていきました。
ヨハネは人々に、悔い改めを叫びます。そして「ふさわしい実を結ぶ」ように、迫るのです。具体的な悔い改めの方法も示しつつ、おこないによって神さまに立ち返るように語ります。
ヨハネは「旧約最後の預言者」と呼ばれることがあります。旧約の時代、人々は神さまから与えられた掟を守ることができずにいました。神さまはその様子をご覧になり、イエス様をわたしたちの間にお遣わしになりました。わたしたちは、何をすればよいのでしょうか。
7月 8「ルカによる福音書32138
 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
(ルカによる福音書3章22節)
イエス様が洗礼を受けたとき、聖霊が鳩のように降って来たとあります。奈良基督教会の洗礼盤の上には、鳩が乗っています。イエス様が洗礼によって神の子であることを改めて示されたように、わたしたちも洗礼によって神さまの恵みの中に入るのです。
イエス様はおよそ30歳のときに宣教を開始されました。ダビデは30歳で王となりました。またヨセフが活動を開始したのも、エゼキエルが召命を受けたのも30歳でした。祭司やレビ人が務めにつくのも30歳からだと言われます。成熟した時期なのでしょう。
ルカに書かれた系図とマタイの系図を見比べてみると、共通している名前は16名しかありません。大きな違いは、ルカの系図はノアやアダムはもちろんのこと、神さままで遡るということです。イエス様は神の子であるということを強く伝えてくれます。
7月 9「ルカによる福音書4115
 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
(ルカによる福音書4章4節)
イエス様は聖霊に満たされ、霊によって荒れ野に導かれます。悪魔からの誘惑は、神さまがご計画されていたことでした。この40日間の誘惑の出来事は、出エジプトの後40年間荒れ野でさまよったイスラエルの民を思い起こさせます。
悪魔は「お前が神の子なら」と、三度誘惑の言葉を投げかけます。「石をパンにしろ」、「わたしを拝め」、「神を試せ」。それらの悪魔の言葉は、わたしたちの口から出される祈りの言葉と通じるところがあるように思うのは、わたしだけでしょうか。
イエス様は聖書の言葉を用いて、悪魔を退けました。わたしたちの心に、聖書のみ言葉は満たされているでしょうか。自分のおこないを振り返るときに、聖書のみ言葉を思い起こしたいものです。ただし人を裁くために、聖書の言葉を用いるのはやめましょうね。
7月 10「ルカによる福音書41630
 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
(ルカによる福音書4章21節)
イエス様は故郷ナザレの会堂で、イザヤ書61章の言葉を朗読しました。そしてこの聖書の言葉が「今日」、実現したと語ります。この「今日」とは2000年前のその日のことにとどまらず、わたしたちが耳にしたときも含まれます。
一体なにが実現したのでしょうか。それは、貧しい人に福音が告げ知らされ、捕らわれている人は解放され、目の見えない人は見えるようになり、圧迫されている人は自由になるということです。
わたしたちもイエス様に倣う者として、このイザヤ書の言葉を大切にしたいと思います。わたしたちが参与する働きは、誰のために為すべきことか。教会は誰と共に歩むべきか。一緒に考えていきましょう。

バナースペース

勤務地:日本聖公会 奈良基督教会
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牧師:司祭マタイ古本靖久
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