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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2022年6月1日〜10日

6月 1「マルコによる福音書112025
 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
(マルコによる福音書11章23節)
枯れたいちじくは、エルサレム神殿を示していると言われます。イエス様が再三批判されたにも関わらず、イスラエルの人たちは耳を貸しませんでした。紀元70年に起こったエルサレム神殿崩壊といちじくが枯れたこととを、人々は重ね合わせたのでしょう。
イエス様は「神を信じなさい」と語られます。「山を動かすほどの信仰」という言い方がありますが、山を動かすのはその人ではなく神さまです。神さまならきっとそうしてくださると疑わずに信じること、それが信仰なのです。
わたしたちの教会は、その信仰の上に立っているでしょうか。信じて祈っているでしょうか。枯れたいちじくの木や崩壊したエルサレム神殿のように、なってはいないでしょうか。
6月 2「マルコによる福音書112733
 言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」
(マルコによる福音書11章28節)
「権威」という日本語には、あまり良いイメージがないかもしれません。権威とは自発的に同意・服従を促すような能力や関係のことで、威嚇や武力によって強制的に同意・服従させる「権力」とは区別されます。
2000年前のエルサレム神殿では、律法学者や祭司長、長老たちが「権力」を持っていました。「神の審き」をちらつかせ、「律法」によって人々を縛り付けていました。そこにイエス様がやって来ました。彼らは「何の権利があって」と憤ったのです。
わたしたちはイエス様を受け入れるように、促されています。しかし「何の権利があって、『わたし』の人生に入って来たのか。出て行ってくれ」と拒んではいないでしょうか。
6月 3「マルコによる福音書12112
 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』
(マルコによる福音書12章10節)
詩編118編22〜23節にこのようにあります。「家を建てる者の退けた石が 隅の親石となった。これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。」イエス様はこの詩編の言葉を引用されました。
石造りの家を建てる際、土台の意志である「かなめ石」はとても重要なものでした。イエス様は信じる人にとってはかけがえのない隅の親石です。しかし信じない人にとっては、捨てられるもの、つまずきの石、妨げの岩となるのです。
彼らはぶどう園の収穫を、神さまに返そうとはしませんでした。わたしたちも与えられた賜物を自分の力で得たものだと勘違いしたときに、イエス様につまずいてしまうのです。
6月 4「マルコによる福音書121317
 イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。
(マルコによる福音書12章17節)
人々がイエス様を陥れようとして言った、皇帝に税金を納めるか否かという問題は、わたしたちが思う以上に複雑な問題です。当時ユダヤはローマ帝国の支配下にあり、ローマ皇帝への税金を課せられていました。
その税金を納めるためには、ローマの貨幣を使わなければなりません。たとえばある銀貨には皇帝ティベリウスの肖像と、皇帝が神格化されていることを示す銘が刻まれていました。その硬貨を持つことは、偶像を刻むこと、そして偶像を礼拝することにつながるのです。
イエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」と語られます。わたしたちが手にしているこの世的なものではなく、神さまから頂いたものに目を向け、それをどう用いているのかを考える必要があるのです。
6月 5「マルコによる福音書121827
 復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。
(マルコによる福音書12章18節)
サドカイ派とは貴族祭司階級の人たちで、モーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)の権威だけを認めていました。そのため天使の存在や死者の復活については否定していました。
彼らは貴族で裕福であったために、復活などなくても十分だと思っていたのでしょうか。現世で十分恵まれたからそれでいいと思ったのでしょうか。彼らはそして、レビラート婚と呼ばれる制度を元に、復活信仰の矛盾点を突こうとします。
イエス様はこの問いを聞かれて、噴き出してしまったかもしれません。しかし律法や聖書を自分の都合の良いように捉え、判断していくのは、わたしたちにも覚えがあることです。そうではなく神さまの思いは、わたしたちの想像をはるかに超えるのです。
6月 6「マルコによる福音書122837
 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
(マルコによる福音書12章34節)
今日の箇所と同じような内容の物語(並行箇所)が、マタイ22:34〜40、ルカ10:25〜28に書かれています。この三つの福音書を見比べてみると、二つの大きな特徴がマルコ福音書には見られます。
マタイとルカに出てくるのは律法の専門家でマルコ福音書は律法学者。それは大した違いではありません。ところがマタイ・ルカが「イエスを試そうとして」質問しているのに対し、マルコ福音書の律法学者はそのような考えを持っていません。
さらにイエス様は適切に答える律法学者を見て、「あなたは、神の国から遠くない」と褒めます。彼はイエス様に、神を愛し、隣人を愛することはすべてのことに優ると答えました。そのことこそが、神さまの望まれていることなのです。
6月 7「マルコによる福音書1238132
 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」
(マルコによる福音書12章43節)
律法学者は、「人から見てどう見えるのか」をとても大切にしていたようです。長い衣をまとうことで自分は偉いのだとアピールし、広場で挨拶されることによって自分が特別な人間であると人々に知らしめました。
また上席に座ることで人々の尊敬を集め、長い祈りでありがたみを増していました。ちなみに祈りを長くすることで、祈祷料も多く要求していたようです。
それらは神さまの目から見たら、まったく意味のないものです。レプトン銅貨2枚(現在の価値で130円くらい)であっても、持てるすべてを投げ入れたやもめの献金に、神さまは目を留められるのです。
6月 8「マルコによる福音書13313
 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
(マルコによる福音書13章11節)
ユダヤ戦争が起こり、エルサレム神殿が崩壊した頃にマルコ福音書は書かれたと言われています。人々は信仰の拠り所を失い、戦争や地震や飢饉の中で世界の終わりを想像し、不安の中で動転していました。
しかしイエス様は、それらのことは「産みの苦しみの始まりである」と言われます。決してそのようなことは小さなことだと言われているのではありません。どんなに苦しいことがあっても「わたしが共にいる」と約束されているのです。
神さまはわたしたちを驚くような場所で用いられるかもしれません。しかしどんな場所でも恐れることはありません。なぜならわたしたちは一人ではありませんし、聖霊がわたしたちの口を通して語るからなのです。
6月 9「マルコによる福音書131423
 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
(マルコによる福音書13章14節)
「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」という言葉を悟れと言われても、現代に生きるわたしたちには難しいことです。しかし当時のユダヤの人々の心には、「ああ、あのことか」と誰もが思い出す出来事がありました。
紀元前168年、ユダヤは当時アンティオケアに支配されていたのですが、その王はユダヤ教を禁止するだけではなく、エルサレム神殿の中にオリンピアのゼウス像を立てさせたそうです。人々はこの像を「荒廃をもたらす憎む(忌む)べきもの」と呼びました。
そして紀元40年ごろ、ローマ皇帝のカリグラが自分の像をエルサレム神殿に建てようとしました。イエス様が十字架につけられてから10年も経たずに起こったこの出来事は、人々にイエス様の言葉を思い起こさせたことでしょう。
6月 10「マルコによる福音書132432
 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
(マルコによる福音書13章29節)
マルコによる福音書13章は小黙示録と呼ばれます。ここには終末の出来事が数多く書かれており、新興宗教や一部の教派はこの箇所やヨハネ黙示録、ダニエル書などを強調して人々の不安をあおることがあります。
しかし「人の子」がやってくる本当の目的は、「滅ぼす」ことではなく「選ぶ」ことにあります。ウィリアム・ハントが描いた「世の光」という絵画があります。戸口に立つイエス様がずっと戸を叩き続けている絵です。
その戸は、わたしたちの心です。そしてその戸には、内側にしかノブがありません。ずっと戸を叩くイエス様を招き入れるためには、わたしたちがそのドアノブに手を掛け、回さないといけないのです。

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