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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2022年5月21日〜31日

5月 21「マルコによる福音書9213
 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
(マルコによる福音書9章4節)
エリヤとモーセは旧約聖書に登場する人物ですが、二人には共通点があります。彼らは「死ぬことなく昇天したと信じられていた」ということです。(エノクもそうです)
イエス様が語っていた相手は、神さまの前で生きている存在として考えられていました。またイエス様の姿が変わり、服が真っ白に輝いたことは、神的存在になったということを示しています。この場面は、神の国の先取りでした。
ペトロは驚きのあまり、その栄光の中に留まろうとしました。彼は幕屋を三つ建てることを提案します。イエス様たちを山に留まらせるためです。しかしイエス様は、山から下りられます。十字架に向かう苦難の道を、イエス様は選択なさったのです。
5月 22「マルコによる福音書91429
 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。
(マルコによる福音書9章29節)
「祈りによらなければ」、この言葉を聞くときに、わたしたちはどのような思いを持つでしょうか。「祈っているのに聞いてもらえない」、そう思うこともあります。弟子たちも、決して祈ってなかったわけではないと思います。
弟子たちはイエス様がいない間にいやそうとして、失敗しました。もしかしたら「イエス様がいなくても大丈夫。自分の力でなんとかなる」と思ってしまったのかもしれません。
また祈るときに、あらかじめ「こうなってほしい」という答えを設定して、自分の思い通りにならなかったら「祈りは聞かれなかった」と思うこともあるでしょう。そうではなく、神さまにすべてを委ねることが大事なのだということです。
5月 23「マルコによる福音書93041
 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
(マルコによる福音書9章36節)
今日の箇所は、イエス様の二回目の受難予告から始まります。一度目の予告のときにはペトロがイエス様をいさめました。そして今回の予告の直後には、「だれがいちばん偉いか」を議論する弟子たちの姿が描かれます。
弟子たちにはイエス様の受難の意味が分かりませんでした。イエス様は弟子たちに、「仕える者となりなさい」と命じます。当時の社会における奴隷のように、最も低い所に立ちなさいという意味なのでしょう。
当時子どもは、人格を認められず、数にも入れられない存在でした。イエス様はその子を真ん中に呼び寄せ、抱き上げます。取るに足らないと思われていた子どもを受け入れることが、神さまの思いなのです。イエス様は小さな一人に仕えるため、十字架に進まれるのです。
5月 24「マルコによる福音書94250
 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。
(マルコによる福音書9章50節)
「教会から離れる」という言葉があります。信仰的な事柄などによってつまずき、礼拝に行かなくなることを、このように言います。わたしたちは自分たちの考えや慣習に合わない人を否定し、つまずかせていることはないでしょうか。
続いてイエス様は塩の話をされます。旧約の時代、塩によって献げ物は神さまに受け入れられるものとなったそうです。また献げ物が火で焼き尽くされることによって、その香りは神さまに届くとされていました。
わたしたちは聖霊の火によって、地の塩とされます。その塩は、周囲の人たちに様々な影響を与えます。わたしたちが塩として与えられた地で生かされ、多くの人と共に歩むときに、わたしたちの間には神さまの平安が訪れるのです。
5月 25「マルコによる福音書10112
 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」
(マルコによる福音書10章5節)
「教会は離婚した人を受け入れてくれるのでしょうか?」、そのように聞かれることがあります。わたしたちは「律法」や「過去の実例」に基づき、判断しようとします。しかしそこに大切なものが抜け落ちていたならば、神さまのみ心とは違ったものになってしまいます。
モーセが離縁状を書くように言ったのは、家を追い出された女性に必要だったからでした。離縁状がなければ、女性は新しい家庭を持つことが出来ませんでした。離縁状なしにそのようなことをしてしまうと、女性は姦淫の罪を犯したことになるからです。
わたしたちに必要なことは、頭から離婚を禁止することでも、無差別に離婚を推奨することでもありません。今、痛みを受け、苦しんでいる人の心に寄り添い、いやしを祈ることなのです。イエス様もきっと、そうなさいます。
5月 26「マルコによる福音書101316
 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。
(マルコによる福音書10章15節)
弟子たちは子どもたちを連れて来た人々を叱ります。それを見てイエス様は、憤られます。ここで「憤る」と訳された言葉は、大変強い怒りをあらわします。いつまでも排他的な弟子たちの態度が許せなかったのでしょう。
イエス様は「子どものように神の国を受け入れる人でなければ」と言われます。子どもを受け入れることと、神の国を受け入れることとは同じなのです。自分にとって小さな存在、価値のないようなものを受け入れることこそ、神の国を受け入れることです。
また、わたしたちが子どものようになることも、イエス様は求められています。当時子どもは、何もできない存在として扱われていました。自分たちに与えられた恵みに頼らなければ生きていけない、そのような子どものために、神の国はあるのです。
5月 27「マルコによる福音書101731
 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
(マルコによる福音書10章21節)
当時のユダヤの人々は、十戒を一生懸命に守っていました。それは十戒が双務契約(戒めを守る交換条件として、神さまはユダヤ人を守る)だったからです。またこの掟を守ることによって、神さまの前に立てると考えていました。
しかしイエス様は彼に言われます。「行き」「売り」「与え」「来て」「従え」と。自分のおこないに頼るのではなく、今ある財産から手を離しなさい。そして神さまにすべてを委ねなさいということです。
金持ちは、神さまに祝福された者だと考えられていました。その金持ちですら、神の国に入るのは難しいのです。(らくだは針の穴を通ることなどできませんので、実質不可能です)。「でもね」、イエス様は続けます。「人間には無理でも神さまにはできるよ」。
5月 28「マルコによる福音書103245
 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
(マルコによる福音書10章35節)
イエス様が受難予告をされるのは、これでもう三度目です。一度目も二度目もイエス様は弟子たちだけに語られました。しかしペトロを始め弟子たちは、その意味を理解するどころか、自分のことばかりを考えてしまっていました。
今回のゼベダイの子ヤコブとヨハネもそうです。彼らは弟子の中でも中心人物でした。変容のときも、ゲツセマネの祈りの場にも、イエス様は彼ら二人とペトロだけを連れていきました。
聖書は弟子の弱い部分を隠さずに伝えます。イエス様と共に歩み、何度も受難予告を聞かされた彼らですら、イエス様の十字架を頭で理解することはできなかったのです。復活のイエス様に出会い、初めて彼らは神さまのみ心がわかったのです。
5月 29「マルコによる福音書104652
 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。
(マルコによる福音書10章46節)
バルティマイという人物は、マルコ福音書にしか出てきません。彼は「わたしを憐れんでください」と叫びます。その呼び掛けは、「キリエ エレイソン」です。原文通りに訳すと、「主よ、憐れめ!」となります。
バルティマイはその信仰によって救われました。その信仰とは何でしょうか。挙げてみたいと思います。
「イエス様の名を叫び続ける」「黙るように言われても口を閉じない」「イエス様の招きに応答する」「イエス様の招きを伝えた第三者の言葉を信じる」「自分の願いに焦点をあわせる」「イエス様は必ず願いをかなえてくださると信じる」。他にもあると思います。一緒に考えていきましょう。
5月 30「マルコによる福音書11111
 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
(マルコによる福音書11章7節)
イエス様がエルサレムに入られるときに子ろばを調達された話は、とても不思議な印象をわたしたちに与えます。イエス様はすべてお見通しの超能力者だということなのでしょうか。
それよりもここで伝えたかったのは、二人の弟子の姿勢なのだと思います。この二人の弟子がイエス様の言葉を信用せずに勝手なことをしていたら、イエス様は子ろばに乗ってエルサレムに入ることはできませんでした。
わたしたちも神さまに道を示されたときに、「そんなバカな」、「こんなことが起こるはずがない」と思うこともあるでしょう。しかし、神さまはそんなわたしたちの思いを超えて、必ず良い方向へ導いてくださると信じることができたなら、とても素晴らしいことだと思います。
5月 31「マルコによる福音書111219
 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。
(マルコによる福音書11章13節)
聖公会の聖餐式聖書日課では、イエス様がいちじくの木を呪った話は読まれません。季節になっても実をつけないならまだしも、春にはまだ無理です。いちじくの季節は夏ですから。
いちじくの木は聖書の中で、イスラエルの象徴として登場します。春のいちじくは葉をたくさん茂らせ、一見華やかに見えます。しかし実がないのです。栄養である神さまの恵みを自分の中に閉じ込めてしまったのです。
エルサレム神殿も、形は荘厳でしたが中身が伴っていませんでした。神さまの恵みを自分たちだけでむさぼるその姿は、まさに強盗の巣でした。わたしたちの教会は、「祈りの場所」となっているでしょうか。すべての人に、恵みを開放しているでしょうか。

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