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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2022年5月11日〜20日

5月 11マルコによる福音書61429
 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。
(マルコによる福音書6章26節)
今日の箇所には三人の人物が登場します。ヘロデとへロディア、そしてへロディアの娘です。彼らによって、洗礼者ヨハネは殺害されました。彼らがおこなったことを通して、自分自身を振り返りたいと思います。
あなたはヘロデのように、自分が人からどう思われるのかを気にして、大切なものを裏切ってはいないでしょうか。あなたはヘロディアのように、自分の弱さを暴かれることを好まず、何としてでも隠し通したいと思ってはいないでしょうか。
あなたはヘロディアの娘のように、悪いことだと知っていながら自分には責任がないかのように、物事をおこなってはいないでしょうか。それぞれの立場に立って、考えてみたいと思います。
5月 12マルコによる福音書63044
 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
(マルコによる福音書6章34節)
イエス様が5000人に食べ物を与えられた物語は、4つの福音書すべてに収められています。たった5つのパンと2匹の魚が5000人の人たちを満腹させる物語は、現代の社会(福祉)活動と似ているように感じるかもしれません。
しかしここで忘れてはならないのは、群衆を見て深く憐れまれたイエス様が最初になさったことは「教える」ということだったという事実です。肉体の飢えを解消することも大事ですが、魂の渇きをいやすことも必要なのです。
「人はパンだけで生きるものではない」という聖書の言葉が響きます。福音宣教と社会活動、それは決して相反するものではなく、どちらも必要なことです。教会の働きも同じなのです。
5月 13マルコによる福音書64556
 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
(マルコによる福音書6章50節)
マルコ4章35節〜には、嵐を静めたイエス様の物語が書かれていました。嵐の中沈みそうになる舟の中で、弟子たちはパニックになっていました。イエス様が一緒に乗っておられるにもかかわらずです。
今回の物語は、それとは少し違います。イエス様は弟子たちの乗る舟にはおられませんでした。また舟は逆風のために一晩中漕ぎ悩んでいましたが、嵐によって沈む危険があるわけではありませんでした。
弟子たちは湖の上を近づいてくるイエス様を見て、「幽霊だ」と怯えます。わたしたちも生きている中で、前に進むことが出来ず、イエス様に見捨てられたと感じることがあるでしょう。しかしイエス様は必ず来てくださいます。決して「幽霊」ではないのです。
5月 14マルコによる福音書7123
 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。
(マルコによる福音書7章8節)
わたしたちはイエス様に出会うことで、すべての束縛から解放され、自由になるはずです。しかしわたしたちの信仰生活や教会での決まり事をみていると、必ずしもそうではないように思います。
教会にはこのような格好で行くべき、献金はこのようにささげるべき、礼拝堂はこのように使うべき。様々な「〜べき」がわたしたちの間にはあります。イエス様が何一つ、規定されなかったのも関わらずです。
神さまはわたしたちを「そのままの姿」で受け入れてくださいます。だから教会も、「そのままの姿」ですべての人を受け入れる器でありたいと思います。それが「神の掟」なのです。
5月 15マルコによる福音書72430
 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
(マルコによる福音書7章28節)
聖公会の祈祷書181頁に、「近づきの祈り」と呼ばれる祈りがあります。その中で「わたしたちは、み机から落ちるくずを拾うにも足りない者ですが、主は変わることなく常に養ってくださいます」と声を合わせて祈ります。
今日の箇所に出てくる「シリア・フェニキアの女性」は、いわゆる異邦人でした。神さまの救いの中には入れられていないと考えられていた人たちでした。しかし彼女はイエス様に食い下がることによって、救いの門をこじ開けたのです。
わたしたちもこの祈りを唱えるときに、本来であれば救いの中に入れられなかったはずの自分にも、救いの手が差し伸べられたことを感謝したいと思います。
5月 16マルコによる福音書73137
 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
(マルコによる福音書7章34節)
イエス様は天を仰いで深く息をつかれました。「深く息をつく」を原語に忠実に訳すと、「嘆息」となります。その意味は、「嘆いてため息をつくこと。甚だしく嘆くこと」です。単なる深呼吸ではなく、「嘆き」がその中にはあるのです。
イエス様は、激しい感情をあらわにされました。奇跡をおこなう前の精神の高ぶりもあったでしょう。また悪魔的な力に対する怒りや、自分の力でどうすることもできない人間への憐れみもあったかもしれません。
イエス様は耳が聞こえず舌の回らない人に手を置くだけでなく、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられました。彼に心から寄り添われたのです。
5月 17マルコによる福音書8110
 群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。
(マルコによる福音書8章2節)
イエス様の周りにはたくさんの群衆がいました。病気をいやすために手を置いてほしいと願う人もいたでしょう。イエス様の語る言葉にじっと耳を傾ける人たちもいたと思います。今日の物語は、そんな群衆へのイエス様の憐れみからスタートします。
群衆は三日も食べてなかったということです。その彼らの空腹に気づいたのは、他ならぬイエス様でした。群衆が「お腹が空いた」と訴えたわけでも、弟子たちが「何とかしてあげて」と頼んだわけでもありませんでした。
「群衆がかわいそうだ」、その一方的な思いの中で、イエス様は4000人を満腹にさせるという奇跡をおこなわれました。その憐れみの目は、わたしたちにも向けられています。
5月 18マルコによる福音書81121
 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。
(マルコによる福音書8章11節)
わたしたちはしるしを求めます。しるしには神さまから一方的に与えられるものと、人間の側から求めるものがあります。ある本には、前者は信仰を強めるが後者は信仰を破壊すると書かれていました。
わたしたちが信じるものは、目に見えるものではないかもしれません。復活のイエス様や神さまの愛、聖霊の働きなど、見ようと思っても難しいものです。
しかしそのときには、この言葉を思い出したいと思います。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(コリントの信徒への手紙二4章18節)」
5月 19マルコによる福音書82230
 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。
(マルコによる福音書8章25節)
今日の箇所には、他の奇跡物語にはない特徴があります。それは「二段階のいやし」です。最初に手を置いたときにはぼんやりしか見えなかったものが、もう一度手を置かれることではっきり見えるようになったというお話しです。
イエス様が一回でいやすことができなかったと思ってしまうかもしれません。しかしそれよりも、イエス様が何度も関わってくださる姿を感じたいと思います。「見えるか?」と確認しながら何度も手を差し伸べてくださるのです。
そのイエス様に、わたしたちは尋ねられます。「あなたはわたしを何者だと言うのか」。わたしたちの目が開かれるまで、イエス様はわたしたちに関わり続けておられます。イエス様を救い主として、心に受け入れていくことが出来ればと思います。
5月 20「マルコによる福音書83191
 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
(マルコによる福音書8章31節)
イエス様は三度の受難予告をされます。今日の箇所はその一回目で、イエス様は弟子たちに対して語られました。イエス様はなぜ、弟子たちが不安になるようなことを語られたのでしょうか。
それはイエス様の受難は、神さまのみ心だったからです。神さまのご計画の中に、イエス様の死、そして復活は組み込まれていました。そしてそのことによって、わたしたち人間は救いの中に入れられるのです。
しかしペトロを筆頭として、弟子たちは無理解でした。神さまのことを思わず、人のことを思ってしまいます。わたしたちも神さまの思いがわからないことがあります。でも神さまは、わたしたちを愛しておられるということを忘れないでいたいものです。

バナースペース

勤務地:日本聖公会 奈良基督教会
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牧師:司祭マタイ古本靖久
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