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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2022年5月1日〜10日

5月 1「マルコによる福音書33135
 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。
(マルコによる福音書3章35節)
マルコ3:21にはイエス様を取り押さえに来た身内の人たちが登場します。ここに出てくるイエス様の母と兄弟姉妹は、その身内と同じ人たちでしょうか。彼らは「外」から人をやり、イエス様を呼ばせます。
イエス様のことを、「外」から見ていることに距離を感じます。彼らは「血縁関係」はありましたが、そこには何の特権もありません。イエス様は周りに座っている人びとこそ、兄弟姉妹だと語られます。
子どもの頃から教会に行っているから、クリスチャン何代目だから、そんなことは何も関係ないのです。「神の御心をおこなう」、そのことが大切なのです。
5月 2「マルコによる福音書419
 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。
(マルコによる福音書4章8節)
福音書には多くのたとえが出てきます。「たとえ」と訳された語には、「ことわざ」という意味の他、「謎」という意味があります。聞く人に対して意味を明確に示すのではなく、かえって悩ませるということでしょうか。
日本語の聖書で読むと気づかないところですが、今日の箇所に出てくる「種」ですが、4・5・7節は単数であるのに対し、8節の「種」は複数形になっています。ということは種は同じ確率で四つの場所に落ちているわけではないのです。
「たまたま運悪く、道端や石地や茨の中に落ちた種もいくつかあるかもしれない。しかしほとんどすべての種は、良い地に落ちてしっかりと実を結ぶ」、そう解釈するのは乱暴でしょうか。
5月 3「マルコによる福音書41020
 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。
(マルコによる福音書4章13節)
出エジプト記には神さまがエジプトの王ファラオの心をかたくなにし、イスラエルの民を去らせようとしなかった場面が描かれます。わたしたちの心はかたくなにはなっていないでしょうか。
「見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず」となっていないか、気になります。しかしマルコ福音書では弟子たちは最後まで、無理解でした。イエス様の十字架と復活を通して初めて、弟子たちにもイエス様が何者なのかが知らされるのです。
後半にはたとえの意味が書かれています。どんな紆余曲折があったとしても、わたしたちには必ず豊かな収穫が与えられるのだということを信じていきましょう。たとえを頭で理解するのではなく、心で感じていければと思います。
5月 4「マルコによる福音書42129
 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
(マルコによる福音書4章28節)
植物の成長には驚かされます。ついこの間草刈りをしたはずなのに、ちょっと目を離すと…ということはよくあります。毎朝きれいに作られているクモの巣にもびっくりさせられますが。
「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(コリントの信徒への手紙一3章6節)が響きます。蒔かれた種を成長させてくださるのは神さまです。
ではわたしたちは何もしなくていいのでしょうか。そうではありません。「神さまにお委ねする」ということが大事なのです。そのためにわたしたちは聖書の言葉を「聞く」のです。
5月 5「マルコによる福音書43034
 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 32蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。
(マルコによる福音書4章31〜32節)
パレスチナ地方では、からし種は小さい物の比喩としてよく用いられていました。ゴマぐらいの大きさの種が、2.5〜3mほどの木に成長します。
その大きさを聞いても、「それほど大きくないなあ」と思うかもしれません。わたしたちの身の周りには、もっと大きな木がいくらでもあります。教会にもイチョウやヒマラヤ杉といった巨木があります。
からし種が成長した木は、いわゆる低木です。木の葉も手が届くほどの高さです。太陽の光が厳しいパレスチナでは、その木を見つけらすぐに駆け寄って行くことでしょう。そこに、わたしたちをちょうどよく包み込んでくれる神の国のイメージがあるのかもしれません。
5月 6「マルコによる福音書43541
 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
(マルコによる福音書4章41節)
イエス様が共にいて下さったら、わたしたちは不安も恐れもなくなる。果たしてそうでしょうか。今日の場面では弟子たちがイエス様と共に舟に乗った出来事が書かれています。
彼らが乗った舟は激しい突風にさらされ、今にも沈みそうになります。彼らは恐れ、あわててイエス様の姿をさがします。イエス様が一緒にいてくださっているのに、怖がってしまうのです。
それは確かに「不信仰」かもしれません。わたしたちは何度でも恐れます。逆風は容赦なく吹き荒れます。しかしそのたびに、イエス様はそばにいて、「なぜ怖がるのか」と優しく語り掛けてくださるような気がします。
5月 7「マルコによる福音書5120
 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
(マルコによる福音書5章17節)
イエス様が向かった「湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方」とは簡単にいうと、異邦人(ユダヤ人以外の人)が住んでいる土地です。イエス様は「汚れた地」とされていた土地に行かれ、「汚れた霊」に取りつかれた人と向き合います。
彼は「レギオン」という霊に取りつかれていました。レギオンとはローマ帝国の軍隊用語で、およそ5000人の軍団をあらわします。その霊は、当時の社会で「汚れている」とされていた豚の中に入り込み、湖の中で溺れ死んだということです。
豚にとってはかわいそうですが、イエス様のおこないによって汚れが次々と消えていったとも考えることができます。しかし人々は、イエス様がそのまま留まることを良しとはしませんでした。汚れた霊同様、「わたしたちに関わらないでくれ」と拒絶したのです。
5月 8「マルコによる福音書52143
 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
(マルコによる福音書5章36節)
会堂長ヤイロはイエス様の足元にひれ伏し、一緒に来てほしいと願いました。彼の幼い娘が死にそうだったのです。
会堂長は一般的に裕福で、社会的にも影響力を持つ人物がなっていたようです。ユダヤ人社会の中では、とても高い地位にありました。その彼が使いを送ることなく、自らひれ伏してイエス様に願います。彼はそれほど必死でした。
ところがイエス様は、12年間出血が止まらない女性のために時間を費やし、結果的にヤイロの娘は死んだという知らせが入ります。そのヤイロにとって最悪の状況の中、「恐れるな、信じなさい」とイエス様は語るのです。祈りが自分の思い通りに聞かれないと感じること、多々あります。そのときにはこの物語を思い出したいものです。
5月 9「マルコによる福音書616
 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
(マルコによる福音書6章5節)
人は誰しも、少なからず「先入観」をもって他人を判断してしまいます。見た目や仕事、家柄など、その判断材料は様々です。(できるだけそのようなことは避けたいのですが)
ナザレの人々からイエス様はこのように言われます。「この人は大工ではないか」と。「大工のくせに!」という意味です。人口2000人にも満たない小さな村にいた大工のくせに、なんでお前は会堂なんかで教えているのだ。何を偉そうに!そのような思いが見えます。
結果的に、イエス様は故郷ナザレでは何も奇跡をおこなうことがおできになりませんでした。しなかったのではありません。できなかったのです。わたしたちもイエス様を受け入れ、イエス様を信頼しなければ、イエス様は何一つ力ある業をおこなうことができないのです。
5月 10「マルコによる福音書6713
 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
(マルコによる福音書6章12節)
イエス様は12人を二人ずつ一組にして、周りの村に派遣します。何故二人一組だったのでしょう。旅には大きな危険が伴っていたからか。またユダヤでは裁判の証言には、二人または三人が必要だったので、宣教にも最低二人は必要だったと考える人もいます。
彼らは杖(野獣を退治)と履物(蛇や砂の熱さから足を守る)は持って行ってもよいと言われました。マタイやルカではそれすらも持って行くなと言われています。ただ大事なのは、「すべては神さまに委ねなさい」ということです。
彼らが受け入れられなかったときも、呪ったり裁いたりするようにとは言われませんでした。そこも神さまにお任せするのです。この「宣教」は、2000年経った今でも続けられているのです。

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