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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2022年4月21日〜30日

4月 21マルコによる福音書12128
 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
(マルコによる福音書1章22節)
当時、律法学者たちは自分の言葉に正当性を持たせるために、「ラビ(先生)Aは〇〇と言ったとラビBは言っている」というように、昔の人の権威を持ち出していました。これは別の箇所で、「昔の人の言い伝え」とも書かれています。
それに対してイエス様は、ご自身の言葉で教えられます。「わたしは言っておく」と、自分自身を権威ある者とされました。このイエス様の言葉やおこないを人々は、「権威ある新しい教えだ」と論じ合いました。
ここに汚れた霊に取りつかれた男が出てきます。「汚れた」は「聖い」と区別されており、その人は礼拝や交わりから排除されていました。しかしイエス様は、その「汚れた」人とも関わるのです。
4月 22マルコによる福音書12934
 町中の人が、戸口に集まった。
(マルコによる福音書1章33節)
イエス様はペトロとアンデレの家に行きます。彼らはすべてを捨てて従ったとありますが、家族との完全な決別をしているわけではありませんでした。伝説によるとペトロの妻は、後にカファルナウムの自宅を会堂(教会)にしたそうです。
そこにペトロのしゅうとめがいました。彼女は熱を出していました。しかしイエス様が手を取って起こされます。この「起きる」という語は、「復活する」に通じる言葉です。
イエス様はその後もたくさんの人を起こし、その結果、町中の人が集まってきます。その中でイエス様は、悪霊にものを言わせませんでした。それはご自分の正体を人々に知らせたくなかったからかもしれません。イエス様の本当の姿がわかるのは、十字架のときなのです。
4月 23マルコによる福音書13545
 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
(マルコによる福音書1章35節)
イエス様は祈ります。ここで「人里離れた所」と訳されている言葉は、イエス様が誘惑を受けられた「荒れ野」と同じ語です。イエス様は「荒れ野」で神さまのみ心を聞くために、祈られます。
しかし弟子たちはイエス様を捜します。この「捜す」に当たる原語には、「悪意をもって捜す」というニュアンスが含まれます。「イエス様、もっと奇跡を起こしてください。そうしたらみんなあなたの言うことを聞きますよ」、そんな誘惑も聞こえてきそうです。
続いてイエス様は、重い皮膚病の人をいやされます。彼はいやされた後、「誰にも何も話さないように」命じられますが、人々に大いに言い広めます。イエス様の福音に出会ったら、その喜びを伝えずにはおられないとも言えます。
4月 24マルコによる福音書2112
 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
(マルコによる福音書2章5節)
今日の物語は4人の人が中風の人(新しい翻訳では体の麻痺した人)をイエス様の元に連れてくるというものです。体が麻痺した人は床ごと連れて来られましたが、人が一杯でイエス様の近くに行くことはできませんでした。
彼らは家の屋根をはがします。わたしたちの感覚だととんでもないことですが、イスラエルにはあまり雨が降らず、屋根は角材の上を木の枝を編んだものや粘土で覆うような簡単な物でした。
だとしても4人は待っていればいいのに、とは思わないでしょうか。彼らはしかし「すぐにイエス様に会わせたい」と願ったのです。イエス様はその信仰を見られたのです。
4月 25マルコによる福音書21322
 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
(マルコによる福音書2章16節)
イエス様はアルファイの子レビに声を掛けます。(マタイ福音書では「マタイ」という名になっていました)。彼は徴税人でした。ローマの手先として同胞のユダヤ人から高額の税を取り立てる彼らは、ユダヤ人の中から排除されていました。
イエス様はあえて、徴税人や罪人、娼婦たちと共に歩まれます。一緒に食事をされます。それは、本当に神さまを必要としているのは、そのような人たちだからです。
「ファリサイ」とは「分離する」という意味です。わたしたちの教会は、どこに向かっているでしょうか。神さまを必要としている人と共に食卓を囲み、歩んでいるでしょうか。
4月 26マルコによる福音書22328
 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
(マルコによる福音書2章27節)
新型コロナウイルス感染症が猛威を振るう中、「マスク警察」という言葉が一時期流行しました。マスクをしていない人を罵倒する人までいたそうです。
安息日は神さまから与えられたお恵みでした。7日目に奴隷も家畜も労働から解放され、休息が与えられるというものでした。しかしいつの間にか、何もしてはいけない日に変わっていきます。そして人の行動を監視する人も出てきたのです。
安息日を含む神さまからのお恵みは、わたしたちが生きる者となるために与えられています。人を裁き、人を枠の中に押し込めるためにあるのではありません。教会の働きも同じです。人を裁くことは、神さまのみ心ではないのです。
4月 27マルコによる福音書316
 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
(マルコによる福音書3章5節)
今日も安息日に起こった物語でした。安息日にはやってはいけないことが細かく決められ、その数は613にものぼったそうです。語呂合わせで、「むいみ」と覚えるといいと教えられたこともあります。
すぐさま死に至らないような病気を治療することも、医療行為として安息日にはしてはならないことでした。しかしイエス様は、そのかたくなな心に怒りを覚え、悲しまれたのです。
イエス様のこの思いは、ファリサイ派やヘロデ派の人々の怒りを買いました。彼らはイエス様を殺そうと考えます。イエス様の十字架への道がスタートするのです。
4月 28マルコによる福音書3712
 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。
(マルコによる福音書3章9節)
「ガリラヤの風かおる丘で 人びとに話された 恵みのみ言葉を わたしにも聞かせてください」。日本聖公会聖歌集363番の1節です。イエス様の宣教活動の中心は、ガリラヤのカファルナウムでした。
エレサレムのような大都市ではなく、カファルナウムという田舎町で、イエス様は人々の間におられました。そして喜びや悲しみ、痛み、苦しみを共感されながら、神さまの愛を伝えていかれたのです。
イエス様が小舟に乗ったのは、一人でも多くの人に声を届けたいからなのかもしれません。イエス様の声はユダヤだけではなく、ティルスやシドンといった異邦人の地にまで伝わっていきました。
4月 29マルコによる福音書31319
 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
(マルコによる福音書3章13節)
わたしたちが弟子を選ぶとしたら、何を基準にするでしょうか。その人の職業でしょうか、地位でしょうか。学歴でしょうか。イエス様は「これと思う」12人を選びます。
イエス様が彼らを弟子にした目的は何だったのでしょうか。聖書に最初に書かれているのは「自分のそばに置くため」です。新しいイスラエルを象徴する12人に、イエス様はご自分がなさることを伝えられました。
12人の名前は、福音書によって少しずつ違います。誰が、ということが問題なのではありません。12人がイエス様の思い、すなわち神さまのみ心を伝えて行くということが重要なのです。
4月 30「マルコによる福音書32030
 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
(マルコによる福音書3章21節)
イエス様の宣教は、身内の人たちにとって好ましいものではなかったようです。彼らはイエス様の子ども時代や青年時代をよく知っていました。同じような環境で同じように育ったのに、どうして突然変わってしまったのか。
「気が変になった」、そう彼らは思います。しかしその根底には、妬みややっかみがあったのかもしれません。「自分たちを差し置いて」という心もあったでしょう。
律法学者にとっても、名もなき大工のせがれが神さまを冒?しているとしか思えなかったことでしょう。日々真面目に過ごしている自分たちこそが正しいものなのに、と考えたに違いありません。わたしたちにも同じような思いはないでしょうか。

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勤務地:日本聖公会 奈良基督教会
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