4月 11日「マタイによる福音書27:15〜26」 | ||||
ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。 (マタイによる福音書27章22節) |
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聖餐式のときに唱えるニケヤ信経の中に、このような言葉があります。「ポンテオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ」。しかし今日の箇所を読む限り、ピラト一人にイエス様の十字架の責任を負わすのはどうなのかと思います。 | ||||
ピラトは妻が夢で苦しんだという話を聞きます。その話を聞いて、イエス様を裁くことを躊躇したのかもしれません。「バラバかイエスか」という選択を群衆に求めます。群衆は叫びます。「イエスを十字架につけろ!」と。ピラトはその叫びに屈したにすぎないのです。 | ||||
この場面に自分がいたとしたら、どうしていたでしょうか。何も言うことができずにじっと佇んでいるのか、それとも周りの群衆と一緒に「十字架につけろ!」と叫んでしまうのでしょうか。 | ||||
4月 12日「マタイによる福音書27:27〜31」 | ||||
そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。 (マタイによる福音書27章28〜29節) |
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このイエス様の姿から、わたしたちは何を感じるでしょうか。メル・ギブソンが制作した「パッション」という映画では、これらの光景がとてもリアルに描かれており、直視することができなかったのを思い出します。 | ||||
イエス様は立派な着物をまとい、黄金の冠をかぶり、金の笏を持った王とはなりませんでした。人々から馬鹿にされ、蔑まれ、唾を吐かれ、侮辱される、そのような王となられたのです。 | ||||
しかし一番低いところに立たれるイエス様だから、わたしたちを支え、わたしたちが生きる者となるように導いてくださるのです。そしてそれこそが、神さまのみ心なのです。 | ||||
4月 13日「マタイによる福音書27:32〜44」 | ||||
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 (マタイによる福音書27章39〜40節) |
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「十字架の道行き」をご存じでしょうか。カトリックの教会で大切にされ、修道院や黙想の家などに設けられていることもあります。奈良基督教会でも、2018年に井田司祭が祈りと黙想の時間をもたれました。 | ||||
十字架の道行きの中で、十字架を担ぐイエス様は何度も倒れます。そしてイエス様の代わりに、たまたま通りかかったキレネ人のシモンが十字架を担ぐことになります。 | ||||
聖書ではイエス様が倒れたとは書かれていません。しかしご自分を支える十字架は大変重たく、肩にずっしりと食い込んでいたことでしょう。できることならその重荷を共に担いたい、心からそう思います。 | ||||
4月 14日「マタイによる福音書27:45〜56」 | ||||
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 (マタイによる福音書27章46節) |
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イエス様のこの叫びは、何を意味しているのでしょうか。この言葉は詩編22編の冒頭部分と同じものです。詩編22編を最後まで読んでみると、そこには神さまへの賛美が綴られています。 | ||||
詩編の冒頭を叫べば、周りの人たちは続きを覚えているはずだから、言いたいことが伝わるだろう。そう思われたのでしょうか。そうではないと思います。イエス様はこのとき、神さまに対する嘆きしか語ることが出来なかったのではないでしょうか。 | ||||
しかしイエス様は同時に知っておられるのです。その嘆きは、必ず賛美に変えられることを。明日15日は受苦日(聖金曜日)です。教会では13時より礼拝をおささげします。イエス様の十字架を思い、お祈りいたしましょう。 | ||||
4月 15日「マタイによる福音書27:57〜66」 | ||||
マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。 (マタイによる福音書27章61節) |
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今日4月15日は受苦日(聖金曜日)です。イエス様が十字架につけられたことを覚える日です。そしてその夕方には、アリマタヤのヨセフがピラトからイエス様のご遺体を引き取ります。 | ||||
わたしたちは次の日曜日には喜びの朝が待っていることを知っています。しかし2000年前は違っていたでしょう。イエス様が収められたお墓を向いて座る二人のマリアの心の中は、悲しみが支配していました。 | ||||
わたしたちも今日、明日と、お墓のイエス様を思い起こしましょう。わたしたちのためにどうぞ復活のお姿をお示しください、そのお祈りを共におささげしましょう。 | ||||
4月 16日「マタイによる福音書28:1〜10」 | ||||
すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 (マタイによる福音書28章9節) |
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「日ごとの聖書」では、一日早く「復活のイエス様」に出会います。復活日は明日17日、みなさんとご一緒にイエス様のご復活を喜びたいと思います。 | ||||
イエス様のお墓に向かったのは、女性たちでした。安息日は土曜日の日暮れに終わります。それから夜が明けるのを今か今かと待っていたことでしょう。しかし彼女たちはまさか復活のイエス様にお会いできるとは思ってもいませんでした。 | ||||
天使に喜びの知らせを聞かされた彼女たちは、大急ぎで弟子たちの元に向かいます。そこにイエス様が立っていました。イエス様は「おはよう」と言われます。新たな日常が始まるのです。「おはよう」という何気ない言葉が、彼女たちの目から涙をぬぐったのです。 | ||||
4月 17日「マタイによる福音書28:11〜20」 | ||||
あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。 (マタイによる福音書28章20節) |
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イースターおめでとうございます。今日の箇所の後半には「弟子たちを派遣する」という内容が書かれています。マタイ福音書の特徴として、ガリラヤで復活のイエス様と弟子たちが出会うということがあります。 | ||||
20節7節で天使は「(イエス様は)あなたがたより先にガリラヤに行かれる」と女性たちに告げます。そして弟子たちはガリラヤの山の上で復活のイエス様に出会うのです。 | ||||
ガリラヤの民衆の間で宣教を開始されたイエス様は、また民衆の間に戻られます。そしてそこから、弟子たちは遣わされるのです。わたしたちのところにも復活のイエス様は来られます。そしてイエス様と共に歩むのです。 | ||||
4月 18日「マルコによる福音書1:1〜8」 | ||||
神の子イエス・キリストの福音の初め。 (マルコによる福音書1章1節) |
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本日からマルコによる福音書を読んでいきます。マタイやルカ福音書にはイエス様の降誕物語が描かれていましたが、マルコ福音書にはそれがありません。 | ||||
マルコは福音書の中で最初に書かれたと考えられています。それはイエス様の十字架から30年ほど経った頃でした。マルコの著者が書き残したかったのは、イエス様がどのように人々の間で働かれ、福音(グッドニュース)を伝えていったかということです。 | ||||
「神の子」であるイエス様がどのように人々に、そしてわたしたちに関わっていかれるのか、その生き生きとした姿を今日からご一緒に感じていきましょう。 | ||||
4月 19日「マルコによる福音書1:9〜15」 | ||||
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 (マルコによる福音書1章15節) |
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マタイ福音書では3章13節〜4章17節に書かれていた「イエス、洗礼を受ける」、「誘惑を受ける」、「ガリラヤで伝道を始める」という三つの単元が、マルコ福音書ではたった7節にまとめられています。「荒れ野の誘惑」はわずか2節です。 | ||||
誘惑の場面で、イエス様は野獣と共におられたと書かれています。野獣は悪の力と結び付けられますが、その野獣が手なずけられているとも考えられるこの記述は、何を意味しているのでしょうか。 | ||||
14、15節の小見出しは、新共同訳では「伝道」という言葉が用いられていましたが、新しい協会共同訳では「宣教」に変わっています。「伝道」と「宣教」について、分かち合いたいですね。 | ||||
4月 20日「マルコによる福音書1:16〜20」 | ||||
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 (マルコによる福音書1章17節) |
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これから宣教活動を開始されるイエス様が弟子として選んだのは、4人の漁師でした。宣教活動に漁師は役に立つのでしょうか。舟で離島をまわるのであれば必要かもしれませんが、イエス様はほとんど舟を使われませんでした。 | ||||
また祭司のように神殿にいたわけでも、律法学者のように学んでいたわけでも、ファリサイ派のように敬虔な生活をしていたわけでもありませんでした。彼らはガリラヤにいる、普通の漁師だったと思います。 | ||||
イエス様は彼らの日常生活を御覧になり、「人間をとる漁師」となるように招かれます。わたしたちも日々の生活の中でイエス様に招かれるとき、すべてを捨てて従いたいものです。 |