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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2022年4月1日〜10日

4月 1「マタイによる福音書253146
 そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
(マタイによる福音書25章40節)
王は右側の人たちに、「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」と言います。
ところが右側の人たちには、その自覚がありませんでした。逆に左側にいる人たちは、「わたしたちはそういうことをきちんとやっていた」と主張します。
この違いは何でしょうか。大事なのはどこに心を向けているかではないでしょうか。王(権力者、自分にとって都合の良い相手)に目を向けるのではなく、今、困っている人や悲しんでいる人と共に歩むことができればと思います。
4月 2「マタイによる福音書2615
 イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。
(マタイによる福音書26章1節)
ついにイエス様の、十字架のときが近づいて来ました。過越祭は出エジプト記12章に起源を持つ祭りで、「初子の災い」がイスラエルの人たちのいる場所を「過ぎ越した」ことを記念します。
過越祭には、小羊のいけにえが必要でした。高台にあるエルサレム神殿から排水溝を通って、ものすごい量の羊の血が流れていたそうです。
奈良基督教会の洗礼盤の側面には、十字架を背負った小羊が彫られています。この小羊こそ、イエス様です。イエス様はわたしたちの罪の身代わりの犠牲として、その血を流されました。イエス様の十字架と過越の小羊とが、結び付けられたのです。
4月 3「マタイによる福音書26613
 この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。
(マタイによる福音書26章12節)
マタイ2章には、東方からやって来た占星術の学者たちがイエス様に贈り物をする場面が描かれています。黄金、乳香、没薬というものを献げと聖書は記します。
乳香というのは、油のことです。当時のユダヤでは人が亡くなると、火葬や土葬ではなく、岩山にある横穴などに入れ、入口を石でふさいでいました。そのため遺体は自然に腐敗していたそうです。
その腐敗を遅らせるために、亡くなった人の身体に油を塗っていました。ですからこの女性がおこなったことは、まさに葬りの準備だったのです。彼女は自分ができる最高のことを、イエス様に対しておこないました。
4月 4「マタイによる福音書261425
 弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
(マタイによる福音書26章22節)
イエス様の12弟子の一人であるユダが、イエス様を裏切ることを決意します。彼はどうして裏切ったのでしょうか。イエス様を誰よりも愛していたからとか、サタンの仕業だとかいろいろ言われますが、これも神さまのご計画だったのでしょう。
イエス様は過越の食事をおこないます。これが一般に「最後の晩餐」と言われる食事です。その席上、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と弟子たちに言われます。
彼らは代わる代わる「まさかわたしのことでは」と尋ねます。裏切り者はユダだけではなく、イエス様を見捨てることになるすべての弟子たちだったのかもしれません。そしてわたしたちも、何度もイエス様を裏切ってきたことも忘れてはならないと思います。
4月 5「マタイによる福音書262635
 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
(マタイによる福音書26章29節)
この「最後の晩餐」の場面はイエス様の十字架から2000年経って今でも、世界中の基督教会で記念され、守られています。パンを裂き、同じ杯からいただくということを聖公会では大切にしています。
当時、過越祭のときにはぶどう酒が用いられていました。しかしここでイエス様は「ぶどうの実から作ったもの」と言われています。「ぶどう酒」とは明記されていません。
その後、イエス様はペトロが三度、イエス様を知らないと言うことを予告します。イエス様の前では強がっていても、結局は弱いペトロを見て、少しホッとするのはわたしだけでしょうか。
4月 6「マタイによる福音書263646
 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
(マタイによる福音書26章38節)
今日の箇所には、「悲しむ」イエス様の姿が描かれています。イエス様は何を悲しんでおられるのでしょうか。ご自分が十字架に向かわなければならないことに対してでしょうか。それとも飼い主のいない羊のような群衆から離れなければならないからでしょうか。
悲しみの中で、イエス様は祈られます。それは父である神さまのみ心を知るためでした。「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」というイエス様の祈りが胸に突き刺さります。
またイエス様はゲツセマネに一人では行かれませんでした。三人の弟子を連れて行き、「共に目を覚ましていなさい」と言われます。結局弟子たちは眠ってしまいましたが、イエス様は彼らに一緒にいて欲しかったのです。
4月 7「マタイによる福音書264756
 そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」
(マタイによる福音書26章52節)
イエス様はついに逮捕されます。祭司長たちや民の長老たちは大勢の群衆を遣わします。祭司長や長老は自分たちの手を汚したくなかったのでしょうか。群衆はイエス様を知らなかったのでしょう。ユダがイエス様の元に近寄ります。
ユダがイエス様に言葉をかけ、接吻したとき、イエス様はユダに「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われます。「友よ」という言葉を聞いて、ユダの心にはどのような思いが溢れたのでしょうか。
逮捕されるイエス様を守ろうと、武器で対抗しようとする人がいました。しかしイエス様は、剣をさやに納めるように命じられます。「左の頬を打たれたら右の頬を差し出せ」という言葉が思い起こされます。
4月 8「マタイによる福音書265768
 さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。
(マタイによる福音書26章59節)
イエス様は大祭司カイアファのところに連れて行かれます。そこには律法学者たちや長老たちも集まってきます。彼らはイエス様をどうしても死刑にしたいと考えているようです。
彼らはどうしてイエス様を死刑にしたかったのでしょうか。クーデターをおこされるとローマ帝国は困りますが、彼らはそれほど困らないようにも思います。
彼らは、イエス様が神さまを冒?していると言います。自分たちが大切にしている神殿を打ち倒すという言葉を、彼らは受け入れることができませんでした。しかしわたしたちもまた、神さまに従うときにはこれまでの自分を捨て、新たな自分にならなければならないのです。
4月 9「マタイによる福音書2669272
 そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。
(マタイによる福音書26章74節)
タイトルは忘れましたが、昔映画でこの場面を見た覚えがあります。ペトロの顔は、たき火にあたって真っ赤でした。そんな彼は次々と言われます。「あなたもそこにいた」と。
ペトロは必死になって打ち消しますが、3度否定したそのときに鶏が鳴きます。そのときに大祭司の屋敷で裁判を受けていたイエス様がちょうど出てきてペトロと目が合う、という演出がされていました。
そのときのイエス様の表情はどうだったのでしょうか。怒っていたでしょうか。悲しんでいたでしょうか。「ペトロ、言っただろ。お前はわたしを知らないって言うって。しょうがない奴だなあ」と言って笑っているでしょうか。
4月 10「マタイによる福音書27314
 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。
(マタイによる福音書27章5節)
イエス様を裏切ったユダは、後悔しました。そして銀貨を神殿に投げ込み、首をくくりました。(ユダの最期は使徒言行録1章18節にも書かれていますが、その内容はマタイ福音書とは大きく異なります)。
ユダは地獄に落ちてしまったのでしょうか。イエス様を裏切り、死に渡してしまったのですから、そうかもしれません。でも自分がしてしまったことを心から悔やんでいるのだとすれば、神さまが手を差し伸べて欲しい、そう思います。
イエス様はピラトの尋問に対しても、何も答えませんでした。「屠り場に引かれる小羊のように 毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。」(イザヤ書53章7節)、これはまさしくイエス様の姿でした。

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牧師:司祭マタイ古本靖久
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