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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2022年3月21日〜31日

3月 21「マタイによる福音書223446
 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
(マタイによる福音書22章39節)
「愛する」とはどういうことでしょうか。わたしたちは「愛」と聞くと、限定的な相手に対して与えるものだと考えてしまいます。しかし聖書の「愛」は少し違います。最初に日本語に聖書を訳した人は、この言葉を「御大切」としました。
隣にいる人を、自分と同じようにとっても大切にする。それが、イエス様が最も重要だと考えていたことでした。わたしたちの隣にいるのは、誰でしょうか。
ファリサイ派の人々は律法を守ることに一生懸命で、周りの人たちも掟によってがんじがらめにしていきました。しかしそこに愛(相手のことをおもんばかる心)がなければ、意味がないのです。
3月 22「マタイによる福音書23115
 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
(マタイによる福音書23章13節)
マタイによる福音書23章には、イエス様が律法学者たちとファリサイ派の人々を激しく糾弾する言葉が並びます。わたしたちはこの言葉を、どのように聞けばよいのでしょうか。
律法学者やファリサイ派は聖書の中では悪く言われますが、彼らはいたって真剣に神さまの戒めを守ろうとしていました。しかし「彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」とイエス様に言われます。
彼らは陰で戒めを破ったり、見えないところで罪を犯していたりしたわけではありませんでした。ただその行いや言動に「愛がなかった」のだと思います。どんなに正しく生きようとしても、他者に対する愛がなければ、無に等しいのです。
3月 23「マタイによる福音書231628
 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
(マタイによる福音書23章26節)
イエス様はさらに、律法学者たちやファリサイ派の人たちに対して「ものの見えない」と語られます。表面だけを見て、本当に大切なことに目が行っていないということでしょうか。
いくら外面だけをきれいにしたとしても内側が濁っていたら、それは意味のないことです。イエス様は罪人や徴税人、娼婦たちと一緒に食事をしました。そういう行為は「汚れ」につながると考えられていたにもかかわらずです。
わたしたちもイエス様に倣って生きていくならば、そのイエス様の行いに目を留めましょう。そして心の中にイエス様を迎え入れ、与えられた大きな愛を隣にいる人と分かち合っていきましょう。
3月 24「マタイによる福音書232939
 エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
(マタイによる福音書23章37節)
「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」、イエス様の言葉はどんどん厳しくなっていきます。イエス様の怒りが、それほどまでに大きかったということでしょうか。
それもあるかもしれませんが、「何とかして救いに導きたい」という思いも感じることができます。「あなたたちも見捨てない」という思いの中で、イエス様は言葉を強くされたのかもしれません。
神さまは、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」、わたしたちを導こうとされています。ところが何度言っても、そこから逃げて行ってしまう。でもそのたびに「戻っておいで」と大きなみ腕を広げて待ってくださる神さまがいてくださるのです。
3月 25「マタイによる福音書24114
 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
(マタイによる福音書24章7節)
世界の国々で戦争や紛争が起こったり、大きな地震や災害が起きたりするたびに、「終末」が近づいたのではないかと不安になります。多くの人の愛が冷える中、わたしたちは最後まで耐え忍ぶことができるのだろうかと考えてしまいます。
この箇所を強調し、選ばれた民にならないといけないと説く教派もあります。最後まで耐え忍ぶ者だけが救われ、その他大勢は滅びるのだから、早く悔い改めなさいと。
しかしイエス様の十字架から分かるように、神さまのみ心は、わたしたちを滅ぼすのではなく生きる者とすることです。福音を全世界に宣べ伝え、すべての人と共に生きるのです。
3月 26「マタイによる福音書241528
 神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。
(マタイによる福音書24章22節)
「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら」、この言葉を見るだけで読み飛ばしたくなるのは、わたしだけではないと思います。読者であるには違いありませんが、悟ることができません。
ダニエル書9章27節、11章31節、12章11節には「憎むべき破壊者」という言葉が出てきます。キリストに反対する者が聖なる場所(神殿や教会のことでしょうか)に立った時には気をつけなさいということなのでしょうか。
神さまは選ばれた人たちのために、苦難の時間を縮めてくださるそうです。選ばれた人とは誰のことでしょうか。その人数は多いのでしょうか。少ないのでしょうか。そしてわたしたちはその中に入っているのでしょうか。
3月 27「マタイによる福音書242935
 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
(マタイによる福音書24章34節)
聖書には「人の子」という言葉がたびたび出てきます。この言葉は、旧約聖書7章13〜14節aに出てきます。「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。」
旧約の預言の中で、メシアは「人の子」として人々を救うためにやって来ると語られていました。人々は「人の子」が来るのを待ちわびていましたし、イエス様はご自分のことを「人の子」と結び付けられました。
いちじくの木から季節を知るように、わたしたちも様々な出来事からイエス様が再び来られることを悟りましょう。戸口にイエス様が立たれたときに、わたしたちはどのようにお迎えできるでしょうか。
3月 28「マタイによる福音書243644
 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。
(マタイによる福音書24章44節)
わたしたちには睡眠が必要です。若い時には二日続けて徹夜をしても元気でしたが、今は夜10時には眠たくなってしまいます。あくまでも個人的なお話です。
しかしお分かりのように、今日のイエス様の言葉は「一睡もするな」ということではありません。肉体的にずっと起きていることは不可能です。(ゲツセマネの園でイエス様がお祈りしているときぐらいは、弟子たちには起きておいて欲しかったですが)
そうではなく、「準備」が必要だということなのでしょう。いつイエス様が来られてもいいように、日々祈り、み言葉に聞きましょう。
3月 29「マタイによる福音書244551
 主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。
(マタイによる福音書24章45節)
聖公会の聖餐式では、司祭は感謝聖別の中でこのように唱えます。「天の父よ、わたしたちはこのパンとこの杯によって、み子がただ一たび献げられた十字架の犠牲を記念し、栄光ある復活、昇天を宣言し、み子が再び来られるまでこの祭りを行います」。
わたしたちの信仰の中には「キリストの再臨」ということが根底にあるはずですが、「み国が来ますように」ということよりも目の前のことを祈っている自分に気付かされることがあります。
「イエス様、いつでも戻ってきてください」という気持ちで、わたしたち一人ひとり、遣わされた場所で歩んでいきましょう。
3月 30「マタイによる福音書25113
 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
(マタイによる福音書25章4節)
イエス様が語られた「10人のおとめのたとえ」も、昨日までの箇所と同様、イエス様が再び来られる時に慌てなくて良いように、きちんと準備をしておきなさいということが語られています。
このたとえを読むと、「自分は賢いおとめに入れるだろうか。愚かなおとめだと嫌だなあ」と思ってしまいます。そして、「自分にとっての油は何だろうか」と考えるわけです。
しかしこんな思いもあります。「どうして賢いおとめは、愚かなおとめの分まで油を用意しなかったのだろう。愚かなおとめに準備するように伝えてあげなかったのだろう」。賢いおとめになって、自分だけが祝宴に行くのも、どうも違うような気もします。
3月 31「マタイによる福音書251430
 主人は言った。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」
(マタイによる福音書25章21節)
今日の箇所には「タラントン」という単位が出てきます。聖書の巻末には「度量衡および通貨」というページがあり、聖書の単位を現在のものに置き換えることができます。1タラントンは6000日分の日当にあたります。考えやすいように日当を1万円としましょう。
ということは、1タラントンは6000万円、16年半分の日当に当たります。彼らは6000万円、1億2000万円、そして3億円という大金を主人から預かったということです。1タラントンの人が隠したくなる気持ちもよくわかります。
わたしたちは賜物(タレント、タラントン)を神さまからたくさんいただいています。その価値は、それぞれ違います。神さまはその賜物を隠さずに用いなさいと言われています。わたしたちは忠実な良い僕でしょうか。

バナースペース

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牧師:司祭マタイ古本靖久
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