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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2022年3月11日〜20日

3月 11「マタイによる福音書20116
 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
(マタイによる福音書20章14節)
聖書という書物は不思議なもので、読むときの心境や周りの状況によってメッセージが違って聞こえることがあります。今日の箇所もそのような物語かもしれません。この物語を聞いて、自分は何時から働き出した者だと感じるでしょうか。
夕方5時にようやく呼ばれた者だと感じるときには、神さまの憐れみに改めて気づかされることでしょう。しかし時には、夜明けからずっと働いていた労働者と共に「それは不公平だ」と叫ぶ自分に気づくこともあります。
「自分に対して正当に評価して欲しい」、誰でも思うことです。しかしわたしたちは、神さまからの一方的なお恵みによって生かされているのです。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか」という言葉を、わたしたちはどのように聞くのでしょうか。
3月 12「マタイによる福音書201728
 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。
(マタイによる福音書20章28節)
イエス様はみたび、十字架と復活の予告をされます。マタイ・マルコ・ルカにはそれぞれ三回の受難予告が収められています。イエス様が神さまに遣わされた意味が、ここに凝縮されています。
この三度目の受難予告は、弟子たちに対してなされました。しかしゼベダイの息子(ヤコブとヨハネ)の母がイエス様に、息子たちを高い身分に置くように願います。(ちなみにマルコ福音書ではヤコブとヨハネ本人が願っています。)
イエス様は仕えるため、自分の命を献げるために来られました。イエス様と共に歩むのであれば、わたしたちの立つ場所も自ずと決まっていくはずです。
3月 13「マタイによる福音書202934
 イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。
(マタイによる福音書20章32節)
聖書の中には、「目の見えない人」が何度か出てきます。イスラエルという土地は乾燥しており、目の病気も多かったようです。そして目が見えなくなった人は、生きることが大変でした。
それと同時に、肉体的だけではなく、「本当のものが見えない」意味での「盲目」という用いられ方もあります。不安の中、暗闇に落とされたような経験をしたことがある方も多いのではないでしょうか。
二人の目の見えない人は、叫びました。弟子たちに叱られ、黙るように言われても、何度も叫びました。イエス様はその声を聞かれます。憐れみの眼差しを、わたしたちにも向けてくださるのです。
3月 14「マタイによる福音書21111
 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。」
(マタイによる福音書21章2節)
いよいよイエス様がエルサレムに入られます。当時のエルサレムには神殿があり、ユダヤの中心地でした。イエス様がエルサレムに入場する姿を、人々は「王の凱旋」と捉えていたことでしょう。
しかしエルサレムに入るのにイエス様が選んだ乗り物は、子ろばでした。屈強で見た目も美しい馬ではなく、小さな子ろばでした。
イエス様は力で悪を押さえつけるのではなく、ご自身の血をもって人々を救うために来られました。子ろばの背に乗っても、イエス様の足は地面についていたかもしれません。子ろばの力だけではイエス様を支えることはできなかったかもしれません。でもそれでよかったのです。
3月 15「マタイによる福音書211222
 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」
(マタイによる福音書21章13節)
エルサレム神殿の境内に入られたイエス様は、両替人や鳩を売り買いしている人を追い出します。神殿の中ではローマ皇帝の像が刻まれた通貨は使えませんでした。だから両替が必要でした。また祈祷に必要ないけにえを家から持ってくることが困難な場合、神殿で鳩などが買えると便利だったでしょう。
しかしそれが「商売」になってしまうのです。どんなに目的や趣旨が素晴らしくても、それが「商売」となったときに、神殿にはふさわしくないこととなるのです。教会でも同じようなことに気をつけないといけないかもしれません。
そして祭司長や律法学者たちは、イエス様を賛美する子どもたちに対して腹を立てます。神殿とは何か、わたしたちにとって教会とは何か、この箇所から大いに考えさせられます。
3月 16「マタイによる福音書212332
 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
(マタイによる福音書21章27節)
エルサレム神殿にずっといた人たちは、イエス様が語る言葉や行為に対して疑問を持っていたようです。それは自分たちが知っている常識とはあまりにもかけ離れていたからだと思います。
彼らは何を恐れていたのでしょうか。イエス様が投げかけられた問いに対しても、彼らは答えることができませんでした。
彼らは神さまに従って歩んできたつもりだったでしょう。しかし実際には、出かけなかったのです。わたしたちはどうでしょうか。神さまの呼びかけを聞いたとき、すぐには応じられなかったとしても、考え直して神さまのみ心に従い出かけているでしょうか。
3月 17「マタイによる福音書213346
 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』
(マタイによる福音書21章38節)
今日のイエス様のたとえ話は、一義的には当時の人たち、祭司長たちとファリサイ派の人々に対して語られています。聖書によると人々は何人もの預言者たちを受け入れることが出来ませんでした。
そして最後に来た神さまの独り子イエス様をも、彼らは拒絶してしまうのです。それは、自分たちの力で収穫を得、財産を築いたと思ったから。そしてぶどう園は自分たちの物だと勘違いしたからなのです。
今日のたとえのぶどう園を「教会」と読み替えてみましょう。神さまから任された教会は、誰のものでしょう。イエス様を追い出してはいないでしょうか。
3月 18「マタイによる福音書22114
 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。
(マタイによる福音書22章11節)
イエス様は神の国の訪れを、婚宴にたとえます。王は息子の婚礼の祝宴に人々を招きます。しかしその招きを人々は無視します。そこで王は、見かけた人は誰でも連れてくるように命じます。
マタイ福音書に書かれているこの「婚礼の祝宴のたとえ」には、マルコ・ルカにはない記述がみられます。それは、「礼服を着ないで入って来た人」の存在です。無理に連れて来られたのに、礼服を用意する時間なんてないじゃないかと思うかもしれません。
一説には大きな婚宴の時には、礼服を貸し出していたとも言われます。もしかしたらこの「礼服を着ずに追い出された人」は、最後の最後に神さまにすべてを委ねきれないわたしたちの姿なのかもしれません。
3月 19「マタイによる福音書221522
 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
(マタイによる福音書22章21節)
ファリサイ派の人々はイエス様の言葉じりをとらえ、罠にかけようとします。彼らは悪意を持ちながら、「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています」と語り掛けます。
彼らが持ち出したのは、「皇帝に税金を納めること」の是非でした。皇帝に税金を納めるためには、皇帝の肖像が刻まれた銀貨を使わなければならず、それは偶像を認めたことになります。しかし納めなくてよいと言えば、反逆者だと捉えられます。
イエス様は「皇帝のものは皇帝に返せ」と語られます。この世的なことはこの世のものでまかなえばよいのです。それよりも大事なのは、「神のものは神に」という言葉です。わたしたちが神さまからいただいたものを、神さまのために用いることも同時に求められているのです。
3月 20「マタイによる福音書222333
 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。
(マタイによる福音書22章32節)
申命記25章5〜10節には、「レビラート婚」と呼ばれる規定が書かれています。たとえば兄夫婦に子どもがない状態で、兄が妻を残して亡くなってしまったら、弟は兄の妻をめとらなければならないというものです。
「これは女性を生かしてあげるために必要な規定だ」、そういう声もあります。夫を亡くした女性が子どもを産んでいないという理由で家の外に出されると、確かに一人で生きていくのは困難です。
しかし今日の聖書の話を聞いて、気分が悪くなるのはわたしだけではないと思います。7人の兄弟の間を、物のようにたらいまわしにされる女性の姿がここにあります。その中で聞く「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」というイエス様の宣言は、どのように聞こえてくるでしょうか。

バナースペース

勤務地:日本聖公会 奈良基督教会
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