3月 1日「マタイによる福音書16:13~20」 | ||||
イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 (マタイによる福音書16章15節) |
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イエス様はわたしたちに、「あなたはわたしを何者だと言うのか」と問われます。人のうわさや評価は関係ないのです。「あなたはどう言うのか」、それが大切なことです。 | ||||
マタイのこの箇所にだけ、ペトロがイエス様から「天の国の鍵」を授けられる描写が載せられています。(マルコ・ルカの並行箇所にはありません)。このことからペトロは、初代教会の指導者とされました。 | ||||
この「鍵」は、原語のギリシア語では複数形になっています。ペトロだけが持つ唯一の鍵ではなく、たくさんの人に受け渡していくみんなの鍵です。わたしたちにもきっと、この鍵は受け継がれているのでしょう。 | ||||
3月 2日「マタイによる福音書16:21~28」 | ||||
それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 (マタイによる福音書16章24節) |
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イエス様はご自分の死と復活を予告されます。マタイ・マルコ・ルカ福音書にはそれぞれ三度の予告が書かれています。弟子たちはこのイエス様の言葉を聞いて、どのように思ったのでしょうか。 | ||||
口を開いたのは、少し前にイエス様から「天の国の鍵」を授かったばかりのペトロでした。彼はイエス様が苦しみを受けることなど、あってはならないことだと言いました。彼にとってイエス様とは、どのような救い主だったのでしょう。 | ||||
イエス様はペトロに対し、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく言います。わたしたちはどうでしょう。自分の思いではなく、神さまのみ心を求めているでしょうか。 | ||||
3月 3日「マタイによる福音書17:1~13」 | ||||
六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 (マタイによる福音書17章1節) |
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イエス様は時折、ペトロ、ヤコブ、ヨハネという三人の弟子たちだけを連れて行動していました。この三人は全員漁師で、イエス様の活動の初期に弟子になった人たちです。ペトロの兄弟アンデレはお留守番です。 | ||||
彼らは山に登り、特別な光景を見せられます。モーセは律法、エリヤは預言者を示す旧約聖書の人物です。その二人とイエス様が語っているのです。 | ||||
しかしイエス様はそこにとどまらず、山を下りていかれます。イエス様は人々の間に向かいます。そして十字架へと進むのです。もしイエス様が山に居続けたとしたら、わたしたちはイエス様に出会うことができなかったでしょう。 | ||||
3月 4日「マタイによる福音書17:14~23」 | ||||
お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。 (マタイによる福音書17章16節) |
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イエス様と3人の弟子たちが山に登っていた頃、残り9人の弟子たちは平地にいました。そこに息子の発作を治して欲しいと父親がやってきます。 | ||||
弟子たちはその頼みを引き受けます。イエス様がいつもやっているように自分たちもやれば、病気はいやされると思ったのでしょうか。山には連れて行ってもらえなかったけれども、自分たちだってできるのだということをアピールしたかったのでしょうか。 | ||||
彼らには、できませんでした。イエス様は「信仰が薄いからだ」と言われました。必要なのは、からし種一粒ほどの信仰です。自分の力に頼らずに、神さまに信頼を置くことがとても大切なのです。 | ||||
3月 5日「マタイによる福音書17:24~18:5」 | ||||
しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。 (マタイによる福音書17章27節) |
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わたしたちはこの世界で生きていく中で、様々な人と関わっていきます。関わる多くの人が、ほとんどクリスチャンではないという方もおられるでしょう。 | ||||
時折、「宗教的」なことで戸惑いを覚えることがあります。信仰に生きることとこの世界で生きることが、何か相反することのようにも思えます。しかしイエス様は、「彼らをつまずかせないようにしよう」と言われました。この言葉を心に留めたいと思います。 | ||||
イエス様は、「わたしたちだけ」が救われるために来られたのではありません。すべての人を救うために来られ、十字架へと向かわれました。たとえ周りの人がクリスチャンでなかったとしても、共に生きることが大切なのです。 | ||||
3月 6日「マタイによる福音書18:6~14」 | ||||
あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。 (マタイによる福音書18章12節) |
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聖書には、「小さな者」という表現が出てきます。「小さな者」と聞いたときに、あなたはどのような人のことを思い浮かべるでしょうか。 | ||||
イエス様は羊の話をされます。100匹の羊を持っている人がいて1匹が迷い出たとき、普通はその1匹を見捨てるでしょう。その1匹は弱っているから仲間から置いていかれたのかもしれません。またその1匹を捜している途中で、他の99匹が襲われる可能性もあります。 | ||||
しかし神さまは、その1匹を捜すお方です。どんなに弱く小さな羊でも、滅びてほしくない。同じように「小さな者」の一人も迎え入れたいのです。わたしたちは「小さな者」と共に歩んでいるでしょうか。 | ||||
3月 7日「マタイによる福音書18:15~20」 | ||||
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。 (マタイによる福音書18章20節) |
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わたしたちは「忠告」好きです。しかしその「忠告」は、罪を犯した相手に直接おこなうことよりも、第三者に「密告」あるいは「告げ口」することの方が多いかもしれません。 | ||||
ネットでの誹謗中傷や匿名による個人攻撃は、書く側にとってはスカッとすることなのでしょう。しかしその言葉を後で目にする人にとっては、とてもつらいものです。そこには和解など、望めません。 | ||||
そうではなく、まず直接話しをすること。そしてお互いに祈りあうことが大切なのです。なぜならそこには、イエス様が共にいてくださるからです。 | ||||
3月 8日「マタイによる福音書18:21~35」 | ||||
イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。 (マタイによる福音書18章22節) |
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「仏の顔も三度」ということわざがあります。これは、「どんなに穏やかな人でも、面と向かって顔をなでるような失礼なことを三度も繰り返されては怒りだす」という意味です。ところがイエス様は、7の70倍(無限にという意味)赦せと命じられます。 | ||||
その先に出てくるたとえは、わたしたちと神さまとのことです。わたしたちは神さまから1万タラントン(日本円で6000億円!)の借金を帳消しにしてもらいました。それは神さまがわたしたちを「憐れに」思ったからです。 | ||||
ところがわたしたちは100デナリオン(日本円で100万円)を貸している人を赦すことができません。確かに100万円は高額です。しかし6000億円に比べたらどうでしょうか。わたしたちは神さまから大きな愛を受けています。その愛に気付きましょう。 | ||||
3月 9日「マタイによる福音書19:1~15」 | ||||
ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。 (マタイによる福音書19章3節) |
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「試す」という言葉が出てきます。ファリサイ派の人々は、自分たちの疑問を解消するためでも、新しいことを学びたいわけでもなく、イエス様を試みるために質問を投げかけます。 | ||||
すると、「律法に適っているでしょうか」という問いも、真理が知りたいのではなく、上げ足を取ろうとしているだけのように聞こえます。わたしたちも聖書を読むときには、真理を求めることに目を注ぎたいものです。 | ||||
そしてイエス様は、自分の元に子どもたちを連れてくる人々を叱る弟子たちに対して言われました。「わたしのところに来るのを妨げてはならない」と。教会は静けさのために、自分たちの心地よさのために、子どもたちを排除してはいないでしょうか。教会は彼ら子どもたちのものなのです。 | ||||
3月 10日「マタイによる福音書19:16~30」 | ||||
青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。 (マタイによる福音書19章22節) |
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ユダヤの人たちは、神さまからの祝福は長寿・子孫・財産によって示されると考えていました。だから金持ちの青年は、自分は戒めを守る正しい者だから神さまはたくさんの財産を与えたのだと考えていたことでしょう。 | ||||
しかし天に宝を積むには、貧しい人に財産を与えなさいと言われ、悲しみ、立ち去ります。新しい聖書では、彼は「悩みつつ立ち去った」となっています。彼はその後、どうしたのでしょうか。 | ||||
「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」とのイエス様の言葉を心に留めたいと思います。針の穴をらくだが通ることなど考えられません。しかし神さまにすべてをお任せして自分が固執している物から手を離すとき、神さまの救いの手は差し伸べられるのです。 |