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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2022年2月21日〜28日

2月 21「マタイによる福音書135358
 この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
(マタイによる福音書13章55節)
イエス様が故郷のナザレで教えられているときに、人々はイエス様につまずきました。それはイエス様があまりにも身近な存在だったからです。幼い時のイエス様も、またその家族もよく知っているから、イエス様の言葉を素直に受け入れることができなかったのです。
神さまのみ言葉は、語る人の「格」によって変わるわけではありません。しかしわたしたちも知らないうちに、「人」や「場所」、「権威」によって聞き方が変わってしまうことはないでしょうか。
考えてみましょう。なぜイエス様はわたしたちの間に来られたのか。それは喜びも悲しみも共有するからです。わたしたちの叫びに共感してくださるからなのです。
2月 22「マタイによる福音書14112
 ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。
(マタイによる福音書14章5節)
「サロメ」というオペラをご存じでしょうか。ヘロディアの娘サロメ(聖書には名前は出てきません)を主人公とした劇です。彼女は踊りを踊り、母の願い通り洗礼者ヨハネの首を求めます。お盆に乗った首を母の元に持っていくサロメの姿は、想像するだけで非常に怖いものです。
「邪魔な者」、「自分を非難する者」、へロディアはその存在を消したかった。わたしたちにもないでしょうか。「この人さえいなければ」と考えてしまうことが。
実際に手を掛けなくても、その思いが「人を殺す」ことになるのです。聖書が伝える恐ろしい描写は、実はわたしたちの姿なのかもしれません。
2月 23「マタイによる福音書141321
 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。
(マタイによる福音書14章14節)
洗礼者ヨハネが殺されたことを聞いたイエス様は舟に乗り、ひとり人里離れた所に退かれました。自分にもヘロデの手が及ぶのを恐れたからでしょうか。しかし群衆はイエス様を一人にはしませんでした。
もっと話を聞きたい、病気をいやしてほしい、その思いにイエス様は応えられました。その根底にあるものは、イエス様の「憐れみ」です。
イエス様の養いは、パンと魚の奇跡によって目に見えるものとなります。たった5つのパンと2匹の魚で、5000人以上の人々が満腹したのです。神さまの祝福の中、命の糧を与えられ、満たされる。それこそが聖餐式なのです。
2月 24「マタイによる福音書142236
 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
(マタイによる福音書14章30節)
弟子たちだけを乗せた舟が、逆風のために波に悩まされていました。そこにイエス様が湖の上を歩いて来られる物語は、マタイ以外にも、マルコ・ルカ福音書に収められています。
しかしマタイ福音書にしか書かれていない部分があります。それはイエス様の弟子の一人であるペトロが、「わたしも歩きたい」と言い、実際に湖の上を歩こうとしたというものです。彼は少し進みましたが、強い風に気づいた途端怖くなり、沈みかけました。
わたしたちもペトロのような信仰を持ちたいと思います。怖いけど水の上に一歩を踏み出す信仰。イエス様を見つめて、ゆっくりずつ進む信仰。そして強風に気づき沈みかけ、「主よ、助けてください」と叫ぶ信仰。
2月 25「マタイによる福音書15120
 「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」
(マタイによる福音書15章2節)
コロナの時代、外出先から帰ったらしっかり手洗いうがいをし、アルコール消毒をすることが当たり前になっています。しかしここで言われている「食事の前に手を洗う」ことは、それとはまったく違うことでした。
ユダヤ人は何よりも「汚(けが)れ」から身を守ろうとしていました。自分を清く保つために罪人や徴税人とは関わらず、外に行ったときには汚れた人に触れた可能性があるので念入りに手を洗ったのです。
イエス様はそのような考えを、「心から出てくる汚れ」と言われているのかもしれません。イエス様は人々が蔑み、排除していた人たちに触れ、一緒に食事をしました。わたしたちはどうしますか。
2月 26「マタイによる福音書152131
 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
(マタイによる福音書15章28節)
今日の場面は聖書の背景を知らないと、とても冷たい物語に感じてしまいます。「カナンの女」と書かれている女性は異邦人、つまり非ユダヤ人でした。
聖書の中ではユダヤ人は選民とされ、イエス様もまずイスラエルを救うために来られました。異邦人は犬や豚と形容されますが、彼らに恵みを与えるのは後回しになるというのが二人の会話の意味だったのです。
しかしイエス様は、食い下がる女性の信仰を認められます。わたしたちも本来、神さまに恵みをいただくに値しない一人ひとりです。しかし食い下がり、恵みを求め続ける信仰を、イエス様は待っておられます。
2月 27「マタイによる福音書1532164
 食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。
(マタイによる福音書15章38節)
マタイ福音書とマルコ福音書には、「4000人に食べ物を与える」奇跡物語が収められています。5000人と4000人という人数の違い、そして5000人バージョンでは5つのパンと2匹の魚だったのが、4000人バージョンでは7つのパンとわずかな魚、余ったパンを集めると、それぞれ12の籠、7つの籠となっています。
この違いは何なのでしょうか。「カナンの女」の物語から始まる異邦人宣教に結びつける考え方があります。まず4000の「4」は全方位(東西南北)を示し、全世界に向けて恵みが与えられたのだということです。
さらに余ったパン屑の籠の数ですが、5000人バージョンでは弟子の数と同じ12でした。それが7になりましたが、この7という数は使徒言行録6章1〜7節に書かれている7人の奉仕者を指すというのです。すべての人が神の国の食卓に招かれたのです。
2月 28「マタイによる福音書16512
 イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。
(マタイによる福音書16章6節)
ファリサイ派は聖書の中では悪役として描かれているように思います。しかし彼らはとてもまじめに律法と向きあっていました。民衆の間で質素な生活をし、人々からも尊敬を集めていました。
しかし彼らの考えの中に、イエス様の教えとまったく違う部分がありました。「ファリサイ」という言葉には、「分離する者」という意味があります。つまり彼らは、自分たちと他の人たちを区別することで、自分たちの立ち位置を確立していたのです。
人の批判をし、人の弱さを指摘することで自分の正しさを証明する。イエス様はそれを「パン種」と表現しました。それが人々の心に入り込むと、自分も正しい側に立とうとしてしまう。わたしたちも「正しさ」という仮面を被った「パン種」に気づいていきたいものです。

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