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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2022年2月11日〜20日

2月 11「マタイによる福音書121521
 正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。
(マタイによる福音書12章20節)
新共同訳聖書を見ると今日の箇所の小見出しは「神が選んだ僕」となっていますが、新しい聖書協会共同訳では「傷ついた葦を折ることはない」となっています。「葦を折らない方」ということが、強調されているようです。
当時、裁判のときには裁判官は一本の木を持って来ていたそうです。そして死刑判決を下す際には、その木を折っていました。「傷ついた葦」は、わたしたちに下される判決に使われる棒です。しかしイエス様は、決してその葦を折ることはありません。
イエス様は単なる「ヒーラー」ではありません。わたしたちを救いに導くために神さまから遣わされた「神さまの心が喜びとする、神さまの愛する者」なのです。
2月 12「マタイによる福音書122232
 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
(マタイによる福音書12章28節)
ベルゼブルとはヘブライ語で「ハエの王」を意味します。キリスト教における悪魔の一人ですが、ハエの王であれば殺虫剤で追い払えそうな気もします。
当時、病気や目が見えないことや口が利けないということは、悪霊の仕業だと考えられていました。ファリサイ派は簡単に悪霊を追い出すイエス様を見て、悪霊の頭ベルゼブルの力を借りないとそんなことはできないと言いました。
イエス様はそうではなく、神の霊で悪霊を追い出しています。神さまの思いはわたしたちを解放し、神さまの愛の中に招き入れることだからです。
2月 13「マタイによる福音書123342
 あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。
(マタイによる福音書12章37節)
「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか」とイエス様は言われます。自分の心の中を覗いてみると、たしかによこしまな考えや不純な思いなどが渦巻き、とても「良い人間」であるとはいえません。
イエス様は「悪い」にも関わらず、「良い」と思い込んでいる(あるいは「良い」フリをする)人々に問いかけます。「あなたの言葉は義とされるのか、それともその言葉によって罪ある者とされるのか」と。
ではわたしたちは「自分の努力」で義とされるのでしょうか。たとえば今日一日だけでも、神さまの前に正しい人間になれるでしょうか。わたしは無理です。神さまもそのことをよくご存じです。だからわたしたちのためにイエス様を遣わされ、十字架へと向かわせられたのです。
2月 14「マタイによる福音書124350
 それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。
(マタイによる福音書12章44節)
汚れた霊の話は、わたしたちに複雑な思いを抱かせます。「それなら心をきれいにしない方がいいのではないか」、そう思わせます。イエス様は一体何を言われたいのでしょうか。
心をきれいに片づけることは、何もない状態を示すのかもしれません。空き家のようになっているのです。そうではなく、神さまを迎え入れるのです。神さまで心を満たすことを、イエス様は求められています。
そのことによって、わたしたちはイエス様の家族として迎え入れられ、神さまのみ心をおこなう者とされるのではないでしょうか。
2月 15「マタイによる福音書1319
 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
(マタイによる福音書13章4節)
わたしたちはこのたとえを聞くと、「自分はどの土地だろうか」と考えます。道端なのか、石だらけの土地なのか、茨の中なのか。あるいは「良い土地」なのでしょうか。
しかしこのたとえの小見出しを見てみると、「『種を蒔く人』のたとえ」となっています。つまりこの種を蒔いている人は、一体どういう方なのだろうかということが大切なのです。
「種を蒔く人」は「良い土地」以外にも種をバラマキます。そこがどんな土地であろうとも構わないのです。「きっといつかこの種は受け入れられる」、そう信じてみ言葉を蒔き続ける神さまの姿がそこには感じられます。
2月 16「マタイによる福音書131017
 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
(マタイによる福音書13章13節)
聖書を読んでいると、「もう少し分かりやすく書いてくれたらいいのに」と思うことがあります。その中で今日の箇所を読むと、「そうか、それで自分にはなかなか理解できないのか」と妙に納得してしまいます。
しかし「天の国の秘密」とは、それほどまでに隠さないといけないものなのでしょうか。神さまは選ばれた人たちだけを、ご自分の元に迎え入れようとされているのでしょうか。
そうではありません。人間は誰一人として、正しい者にはなれませんでした。そこで神さまは、イエス様を遣わし、十字架へと向かわせたのです。罪という壁を取り除くことによって、「天の国の秘密」はすべての人に明らかにされたのです。
2月 17「マタイによる福音書131823
 だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
(マタイによる福音書13章18節)
この「たとえの説明」は、イエス様が語ったのではなく、後の時代の人によって書き加えられた解説なのだという説があります。事の真偽はわかりませんが。
ただ聖書のたとえを読むときに、色々な角度から考えてみるということは大事なのかもしれません。この説明通りに考えることもあれば、そのときの心の状態を思い起こしてみることもいいかもしれません。あるいは種を蒔く人の立場になってみてもいいでしょう。
聖書を読むたびに、いろいろな気づきが与えられます。「前に読んだときにはこんなこと考えなかったのに」と思うこともあるでしょう。それが大事なのです。なぜなら聖書は、神さまからの手紙なのですから。
2月 18「マタイによる福音書132433
 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
(マタイによる福音書13章33節)
イエス様は植物を用いて天の国のたとえを語ります。最初は毒麦のたとえです。このたとえを聞くと、わたしたちは誰かを毒麦に見立て、「神さまが裁かれるまで我慢しよう」と考えるかもしれません。
しかし覚えておきたいのは、わたしたちはもしかしたら「良い種」ではないかもしれないということです。「毒麦」をも神さまは辛抱強く育てられます。刈り入れまでに良いものに変えられることを期待されているのでしょうか。
からし種とパン種は、本当にわずかなものが大きなものに変えられるたとえです。わたしたち一人ひとりも小さな者です。しかしその働きが神さまの力で大きなものとなる、そのことを求めていきましょう。
2月 19「マタイによる福音書133443
 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。
(マタイによる福音書13章39節)
ここでもイエス様の口から「なぜたとえを用いるのか」という説明が語られます。この箇所を読む限り、ずっと隠されてきたことがイエス様によって明らかにされたという意味にとれます。
続いて毒麦のたとえの説明に入ります。ここも後の時代の人による加筆だという説があります。聖書の中では二元論といって、善か悪か、白か黒かとはっきり二分させる考え方が多くみられます。
しかし実際はどうでしょうか。あるとき子どもに「神さまはどこにいる?」と聞いたところ、胸のあたりを指しました。続いて、「じゃあ悪魔は?」と聞いたら、同じように胸のあたりを指して、「悪魔も一緒にいるよ」と答えました。わたしたち人間は、白にも黒にもなれないのです。
2月 20「マタイによる福音書134452
 天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
(マタイによる福音書13章44節)
マタイによる福音書は、ユダヤ人を対象に書かれたと考えられています。そのため、「預言者たちを通して言われていたことが実現した」といった表現が多くみられます。
今日の箇所はマタイによる福音書にしか出てきません。「隠された宝」、「悪いものが捨てられる」といった表現は、選ばれた民とそうでない人々との対比と読み取ることもできそうです。
わたしたちは「選ばれた民」ではありません。しかし神さまはわたしたちに宝を示し、良い真珠を与えて下さいます。大切なのはそれをどうするかではないでしょうか。その宝や真珠を自分の懐に隠し、自分のためだけに用いることを、神さまは望んでおられるでしょうか。

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牧師:司祭マタイ古本靖久
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