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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2022年2月1日〜10日

2月 1「マタイによる福音書935104
 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
(マタイによる福音書9章36節)
イエス様は福音(グッドニュース)を伝え、病気や患いをいやされました。人々に希望を与え、そして目の前の苦難を取り除かれたのです。しかしそれができるのは、イエス様が直接関わった人たちに対してだけでした。
イエス様はそこで、働き手を送ってもらうように弟子たちに祈るよう、求めます。羊には羊飼いが必要だからです。
聖書にはその後に、12人の弟子が選ばれたことが書かれています。それから2000年経った今も、わたしたちは「キリストの祭司職」(祈祷書282頁、洗礼堅信式式文より)としてイエス様の働きに参与しています。その根底には、イエス様が群衆を深く憐れまれたという思いがあるのです。
2月 2「マタイによる福音書10515
 その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。
(マタイによる福音書10章12節)
「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」という言葉が胸に刺さります。わたしたちはこの12人の弟子と同じように、神さまの恵みを無償で受けました。神さまはあふれる愛を、わたしたちに一方的に注がれました。
だからわたしたちがおこなう奉仕の業もまた、見返りを求めてはならないのです。この地に宝を積むのではなく、天の国に貯えるのです。
そして平和(平安とも訳せます)がすべての人々に広がることを願いましょう。わたしたちの手に何もなくても大丈夫です。神さまが共に歩んでくださいます。
2月 3「マタイによる福音書101625
 実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。
(マタイによる福音書10章20節)
日本のキリスト教人口は1%、実際に教会に連なっている人はもっと少ないと言われています。わたしたちは日々の暮らしの中で、信仰について語るのをためらってしまうことがあります。家族の中でもそうでしょう。
わたしたちは日常の中で“迫害”を受けているとまでは言いませんが、言葉を選び、おこないに気を使う場面は結構あります。そのときにどうしたらいいのだろうと悩むこともあるでしょう。
しかし神さまがわたしたちの代わりに語ってくださるのだとしたら、こんなに心強いことはありません。わたしたちはただ身を委ね、歩んでいきましょう。
2月 4「マタイによる福音書102633
 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。
(マタイによる福音書10章27節)
「これ、絶対にナイショよ。あなたにしか言わないから、他の人には言わないでね」。そう言われると、しゃべりたくなるものです。でも「今から言うことをどんどん広めて欲しい」と言われると、何故か面倒くさくなってしまう。わたしだけでしょうか。
神さまはわたしたちに、イエス様という最高の秘密を与えてくださいました。そしてそのことを多くの人に伝えて欲しいと望まれています。
わたしたちはその恵みを自分の胸に隠してしまうのでしょうか。それとも恐れず、明るみで語るのでしょうか。
2月 5「マタイによる福音書1034111
 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
(マタイによる福音書10章34節)
「平和ではなく剣」、この言葉を聞くと、「逆じゃないの?」と思ってしまいます。戦争などの争いはない方がいい、それはほとんどの人が思うことではないでしょうか。
イエス様はなにも戦いを推奨しているのではありません。イエス様を受け入れ、イエス様に倣って生きていくことには大きな決断がいるということです。そしてその決断は時に軋轢を生み、大切な人と敵対することも出てくるかもしれません。
ただ、わたしは信じています。たとえ今、イエス様のために誰かと離れることになったとしても、神さまはその人をも大切にし、受け入れてくださることを。小さな者一人を大切にしてくださるのが神さまですから。
2月 6「マタイによる福音書11219
 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
(マタイによる福音書11章5節)
人々は救い主が来るのを待っていました。洗礼者ヨハネは救い主が来る前に「悔い改めよ」と、ヨルダン川のほとりで叫んでいました。
洗礼者ヨハネは最後の預言者と呼ばれます。預言者は、人々が神さまの前に正しく生きるように導いていました。時には怒りを持って、人々に接していました。その厳しさからすると、イエス様の行動に対して疑問を感じても不思議ではありません。
しかしイエス様は、「神さまの前に正しくなれない」人々のために来られたのです。目が見えず、歩くことができず、人々から遠ざけられ、耳も聞こえず、生きることもできず、何かにすがらないと歩めないそんな人と共に食卓を囲むため、来てくださったのです。
2月 7「マタイによる福音書112024
 それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。
(マタイによる福音書11章20節)
「叱る」と「怒る」の違いをネットで調べてみると、このように書いてありました。「『怒る』が、何の目的もなくただ相手に自分の感情をぶつけるだけであることに対し、『叱る』は『相手の成長を促す』『次の改善に繋げる』という、教育的な目的があります」。
イエス様の「叱る」が教育的な目的なのかはわかりませんが、ご自分の言葉に反応しなかった人々に対して思うところがあったのでしょう。(町ごとに叱るのはどうかとも思いますが)
わたしたちの耳にはイエス様の言葉は届いているでしょうか。わたしたちの心にはイエス様の言葉は響いているでしょうか。「ボーっと生きてんじゃねーよ」と叱られないようにしたいものです。
2月 8「マタイによる福音書112530
 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
(マタイによる福音書11章28節)
イエス様は話の最後に、神さまをほめたたえます。それは「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しに」なったからだそうです。福音は頭ではなく、幼子のような純粋な心で受け入れることが大切なようです。
「疲れた者〜」という言葉を玄関に貼っている教会がたくさんあります。わたしたちが日常生活で負っている重荷は、非常に重たいものです。教会はそれをすべて取り去らせてくれるのでしょうか。
そのあとに、「わたしの軛は負いやすく」と書かれています。軛とは牛などが作業をするときに首につける木の枠で、そのサイズや形状で首への負担は大きく変わるそうです。また軛は2頭をつなげる役割もあります。あなたにあった軛をあなたと共に負うのは、そうです、イエス様です。
2月 9「マタイによる福音書1218
 人の子は安息日の主なのである。
(マタイによる福音書12章8節)
出エジプト記の中で、モーセは荒れ野で神さまから「十戒」をいただきました。そこには、このような戒めがありました。「安息日を心に留め、これを聖別せよ」。
神さまは天地創造のとき、6日でその業を終え、7日目に休まれました。そのことを覚えて、1週間のうちの一日、安息日(ユダヤ教では土曜日)には神さまのことを覚え、休みなさいと決められました。
最初は奴隷も家畜も休んでよいという恵みの日でしたが、次第に「これはしてはダメ」、「あれもダメ」となっていきます。人を生かすためのものが、人を殺すためのものに変わっていったのです。神さまの憐れみを、わたしたちも大切にしていきましょう。
2月 10「マタイによる福音書12914
 すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。
(マタイによる福音書12章10節)
病気の人をいやすことは医療行為とみなされ、安息日にはしてはいけないことでした。(ただし、生死に関わることは許されていたようです)。従って律法違反と取られても仕方がありませんでした。
多くの人はこの会話を聞きながら、「明日、安息日ではない日にいやしたらいい」と思っていたかもしれません。ところがイエス様はそうなさいませんでした。人々のみている前で、片手の萎えた人の手を伸ばしたのです。
イエス様にとって、彼の手をいやすことは、何よりも大切な事でした。手をいやすことが、彼を生かすことだからです。そして神さまの思いもわたしたちを生かすことであり、そのためにイエス様は遣わされたのです。

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牧師:司祭マタイ古本靖久
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