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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2022年1月21日〜31日

1月 21「マタイによる福音書7712
 求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
(マタイによる福音書7章7節)
わたしのメールアドレスは、「matthew7_7」から始まります。これは「マタイによる福音書7章7節」という意味です。わたしはこの箇所を愛唱聖句として、ずっと大切にしています。
この言葉は、わたしが通っていた中学校の玄関に飾られていました。最初に見たときには、「神さまは何でもかなえてくれる方」だと思っていました。
しかし子どものことを本当に愛する親は、何でも子どもの言いなりにはならないように、神さまもわたしたちのことを大切に思って、わたしたちに必要な物を与えて下さるのだと思います。たとえそれがわたしたちの望みどおりではなかったとしても、神さまの目から見たら、それが「良い物」なのです。
1月 22「マタイによる福音書71323
 狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
(マタイによる福音書7章13節)
日本人の中でキリスト教の割合は1%、さらに礼拝にも行っている人の割合はさらに低くなると言われています。ということは、わたしたちは日本においては“狭い門”を選んでいるということになるのでしょうか。
聖書の中には今日の箇所のように、「裁き」や「滅び」を連想される箇所が多くあります。しかしわたしたちは聖書を読むときに、神さまはこの世の人々を一人残らず救うためにイエス様を遣わされたということを忘れてはなりません。
「道」であるイエス様は、わたしたちが自分の力だけで入ろうとしても無理だった「狭い門」を、こじ開けてくださいます。イエス様を通らなければ、わたしたちは神さまの元へはいけないのです。
1月 23「マタイによる福音書72484
 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
(マタイによる福音書7章25節)
心が震えるとき、どうしたら平安になるでしょう。大きな優しさや愛にふれたとき、少しずつ心が癒されていくという経験をしたことがあるかもしれません。
わたしたちは何を土台とするのでしょうか。何に身を委ねて生きていくのでしょうか。「神さまがいてくれるから大丈夫」、その思いを持つことができればと思います。
後半には、イエス様が「重い皮膚病」を患っている人をいやす物語が載せられています。「重い皮膚病」は新しい聖書では「規定の病」と訳されていますが、「宗教的にけがれている」という意味です。その病気の人に触れたら自分もけがれると人々は定め、遠ざけていました。しかしイエス様は、病気の人に手を差し伸べ触れられます。その思いはわたしたちにも向けられています。
1月 24「マタイによる福音書8513
 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。
(マタイによる福音書8章10節)
イエス様のうわさを聞いて、一人の百人隊長がイエス様に近寄り、懇願します。しもべが中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいますと。
百人隊長はユダヤ人ではありませんでした。いわゆる異邦人です。彼はイエス様がしもべの元に行こうとされるのを止め、ただ言葉だけを求めます。手を置くことも、触れることもなくても、イエス様なら言葉だけでいやしてくださる。その信仰をイエス様は認められました。
わたしたちも本来であれば、救いの中には入れてもらえない“異邦人”でした。しかしイエス様はわたしたちもまた、救いのみ手の内に包み込んでくださいます。そのイエス様のお言葉を、わたしたちも待ちましょう。
1月 25「マタイによる福音書81422
 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」
(マタイによる福音書8章17節)
イエス様がわたしたちの間に来られた大きな目的がここに書かれています。それはわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担うということです。患いは新しい聖書では、「弱さ」と訳されています。
このように書くと、「それでは今のわたしたちには関係ないじゃないか」という声が聞こえてきそうです。確かに肉体を持つイエス様は十字架に死に、墓に葬られました。しかしイエス様は復活されました。わたしたちと共にいて、重荷を負ってくださるためです。
そのイエス様に倣い、生きていくことがわたしたちには求められています。弱く、小さくされ、前を向いて歩くことができない人に寄り添う、わたしたちはそのように歩んでいけるでしょうか。
1月 26「マタイによる福音書82327
 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。
(マタイによる福音書8章26節)
教会は舟にたとえられることがあります。奈良基督教会の礼拝堂も中に入ると、箱舟に乗っているかのようです。
波が穏やかで目的地も明確に示されていると、舟の中はとても快適です。気の合った仲間と一緒に世間話でもしながら進んでいく。それが教会かと思ったら、実は大間違いです。教会だからこそ嵐に遭い、教会の中にいるからこそ逆風に悩まされる。もっと言えば、順風の中で漂っているのは教会ではありません。
わたしたちの間には、恐れや戸惑い、不安がたくさんあります。その中を、わたしたちの舟は進んでいくのです。でも大丈夫。イエス様が一緒に乗ってくださっています。
1月 27「マタイによる福音書82834
 すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。
(マタイによる福音書8章34節)
聖書には時折、とても残酷に思える物語が出てきます。今日の箇所にも、悪霊が入ったことで崖から湖になだれこみ、溺れ死んだ豚の群れがでてきます。豚も、豚飼いも、とんだ災難です。
聖書の中で「豚肉」は「けがれた」ものとされ、食べてはならず、死体に触れてもいけないとされていました。だからといって湖で溺れ死ぬのはかわいそうな気もします。
ただこの箇所で大事なのは、悪霊が墓に縛り付けていた二人の人を、イエス様が解放されたということです。死の淵から彼らが解き放たれたことが、大事なのです。そして悪霊は、豚と共に湖に沈んだということです。(やっぱりちょっとかわいそうです)
1月 28「マタイによる福音書91 8
 その人は起き上がり、家に帰って行った。
(マタイによる福音書9章7節)
イエス様の元に、中風の人が床に寝かされたまま運ばれてきました。「中風の人」は新しい聖書では「体の麻痺した人」と訳されていますが、この人は歩くことができなかったようです。
この時代、歩くことができないと生活するのも大変でした。しかし彼を苦しめていたのはそれだけではありません。「中風の人」のような病気になる人は、神さまに対して何かとんでもないことをしていたと思われていたのです。つまり彼は「罪」を犯したからそうなったのだと考えられていました。
イエス様はまず、「あなたの罪は赦される」と告げます。それは何よりも、社会から排除され、共同体からつまはじきされていた彼が、元の場所に戻ることを意味します。そのことによって、彼は起き上がることができるのです。
1月 29「マタイによる福音書9917
 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」
(マタイによる福音書9章12節)
イエス様は徴税人マタイに声を掛けました。徴税人はローマ帝国に命じられユダヤ人から税金を集めていましたが、彼ら自身もユダヤ人でした。彼らは決められた額以上に取り立てていましたので、ユダヤ人からは「裏切り者」扱いされていました。
罪人と徴税人、ユダヤ人が決して関わろうとしなかったその人たちと、イエス様は食事をします。これはユダヤ人にとっては考えられない事でした。しかし神さまの思いは、丈夫な人ではなく病人に向けられているのだとイエス様は伝えるのです。
断食や古い戒めを守ることが、神さまの目にかなったことではないのです。憐れみや慈しみの心を向け、すべての人を受け入れる。そのためにイエス様はわたしたちの間に来られたのです。
1月 30「マタイによる福音書91826
 イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
(マタイによる福音書9章22節)
今日の物語に最初に出てくるのは、一人の指導者です。彼は自分の娘を助けてほしいと、イエス様に願い求めました。イエス様はその指導者の願いを聞き入れ、彼の家へと向かいます。
一行が進んでいると、一人の女性がイエス様に近づいてきました。彼女は12年間も患っており、出血が続いていました。血は不浄なものと考えられていたこともあり、彼女は後ろから近づいたのでしょう。そしてそっとイエス様の服の房に触れました。
彼女は癒されました。「イエス様なら何とかしてくださる」という信仰を、イエス様は認められました。ただ指導者のこのときの気持ちは、どうだったのでしょうか。結果的に彼の娘も起き上がりましたが、すぐに願いが叶えられない。そのいら立ちをわたしたちも感じたことはないでしょうか。
1月 30「マタイによる福音書92734
 イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。
(マタイによる福音書9章27節)
礼拝の中で、「キリエ」を唱える場面があります。「キリエ エレイソン クリステ エレイソン キリエ エレイソン」という言葉を直訳すると、「主よ、わたしを憐れめ キリストよ、わたしを憐れめ 主よ、わたしを憐れめ」となります。
イエス様は二人の目の見えない人をいやされます。それは彼らの叫びを聞いたからでした。「わたしにできると信じるのか」と聞かれるイエス様に対して、彼らは「はい、主よ」と答えます。
イエス様はわたしたちの叫びを聞いてくださいます。祈りを通してわたしたちが願い求めることに耳を傾け、「わたしにできると信じるのか」と聞かれるのです。その問いに対して、わたしたちはどのように答えることができるでしょうか。

バナースペース

勤務地:日本聖公会 奈良基督教会
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牧師:司祭マタイ古本靖久
副牧師:司祭エレナ古本みさ