1月 11日「マタイによる福音書5:1〜12」 | ||||
心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 (マタイによる福音書5章3節) |
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今日の箇所は、山上の垂訓(山上の説教)と呼ばれます。マタイによる福音書5章から7章まで、たくさんのイエス様の言葉が記されています。 | ||||
イエス様が最初に語ったのは「心の貧しい人々は、幸いである」という言葉でした。言語通りに訳すと、「幸いだ、あなたがた心の貧しい人たちは」となります。ご自分の周りに集まってきた群衆を目にして、イエス様は「幸いだ」と語られます。 | ||||
心が貧しいとは、もう自分の力ではどうしようもないほどカラカラの状態です。なぜそのときが幸いなのでしょう。それは神さまに頼るしかないからです。神さまにすべてを委ね、歩んでいくことができるから、あなたは幸いなのだとイエス様は語られるのです。 | ||||
1月 12日「マタイによる福音書5:13〜20」 | ||||
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 (マタイによる福音書5章14節) |
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今日の箇所には、「地の塩」、「世の光」という言葉が出てきます。塩も光も、身近にあるものです。 | ||||
塩には味をつけたり腐るのを防いだりする働きがあります。いずれの場合も素材に溶け込んで、目立たなくなってしまいます。反対に塩の存在が目立ちすぎると、素材の良さを壊してしまうことがあります。「地の塩」とは、周りの人の間でどのように生きる人のことでしょうか。イエス様はわたしたちに何を求めておられるのでしょうか。 | ||||
わたしたちは、光の子として歩みます。神さまからの光を浴び、それを周りに照らすのです。自分の力で光を発することはできないかもしれません。しかしわたしたちには、神さまからの眩い光があります。その光を隠さずに、輝かせていきましょう。 | ||||
1月 13日「マタイによる福音書5:21〜30」 | ||||
しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。 (マタイによる福音書5章22節) |
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旧約聖書の中には、「十戒」と呼ばれる決まりがあります。「わたしのほかに神があってはならない」から始まり、「殺してはならない」、「盗んではならない」といった10の戒めを、神さまはモーセを通して人々に与えました。 | ||||
人々はそれらの「律法」を守ることで神さまの前に正しい者とされると信じていました。そして「律法」を守ることができない人を「罪人(つみびと)」と呼び、排除していきました。 | ||||
しかしイエス様は言われます。たとえ人を殺さなかったとしても、人に対して腹を立てたり「ばか」と言ったりすることだけで、裁かれるのです。神さまの前に正しい人など、誰一人いないのです。 | ||||
1月 14日「マタイによる福音書5:31〜37」 | ||||
しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。 (マタイによる福音書5章32節) |
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聖書を読んでいると、胸が苦しくなることがあります。それは「〜してはならない」という「禁止」の内容が多くあるように思えるからです。今日の聖句もその一つです。 | ||||
当時の人々は律法や昔の人の言い伝えを根拠として、自分たちの都合の良いように物事を解釈していきました。「離縁状」も「誓い」もその一つでした。しかし例えば、男性の都合で簡単に離縁される女性の存在は、無視されていました。 | ||||
イエス様の「〜してはならない」という言葉。その言葉の裏には、「自分の解釈や都合で聖書を理解するな。神さまの思いを曲げるな」という思いがあるのかもしれません。神さまのみ心は、すべての人に愛を届けるということです。 | ||||
1月 15日「マタイによる福音書5:38〜42」 | ||||
しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 (マタイによる福音書5章39節) |
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「目には目を、歯には歯を」という言葉は、聞きようによっては随分厳しく感じるかもしれません。「やられた分だけやり返せ!」、そのようにも聞こえます。 | ||||
しかしこの言葉には、「やられた以上の仕返しをするな」という意味があります。暴力の連鎖の中で、被害が増大することを防ぐ役割があったと言われています。 | ||||
ところがイエス様は、「手向かうな」どころか、「右の頬を打たれたら、左の頬を向けろ」とまで言われます。すべての連鎖を、ここで断ち切りなさいという意味なのでしょうか。それともすべてのことは神さまに委ねなさいということなのでしょうか。 | ||||
1月 16日「マタイによる福音書5:43〜6:4」 | ||||
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 (マタイによる福音書5章44節) |
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当時のユダヤの社会において、隣人(同じ共同体にいる人たち)なのか、異邦人(ユダヤ人以外の人)なのかということはとても重要なことでした。ちなみにユダヤ人であっても罪人や徴税人は「隣人」の中から排除されていました。 | ||||
だから彼らは、律法にある「隣人を愛せ」という戒めを守っていると思っていました。自分たちとは違う人たちを、「敵」として遠ざけ、憎んでいたからです。しかしイエス様は「敵を愛せ」と言われ、さらに別の箇所では「敵」と考えていたサマリア人さえも「隣人」だと語られました。 | ||||
わたしたちには、愛する対象から外してしまった人はいないでしょうか。その人のことを思い、祈ることができるでしょうか。 | ||||
1月 17日「マタイによる福音書6:5〜15」 | ||||
彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。 (マタイによる福音書6章8節) |
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「祈るときには」という小見出しに続いて、どのように祈るべきということが書かれています。要は、形式や人の目を気にするような祈りは必要ないということでしょうか。 | ||||
「あなたがたの父(神さま)は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」とはどういうことでしょう。それでは祈りは必要ないのではないかと思ってしまいます。例えば母親が子どもから願いを聞かされたとき、たとえ母親がその願いを前から知っていたとしても、直接子どもの口から聞くとうれしいように、神さまもわたしたちの祈りの言葉を喜んでくださるのではないでしょうか。 | ||||
「祈る言葉がよくわからない」と思われるのであれば、イエス様が教えて下さった「主の祈り(9〜13節)」を祈るようにしましょう。そしてその祈りを元にしながら、ご自分の感謝や願いを加えていきましょう。 | ||||
1月 18日「マタイによる福音書6:16〜24」 | ||||
富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 (マタイによる福音書6章20節) |
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信仰は人に見せるものではありません。また人と比較するものでもありません。そして人に評価されるものでもありません。わたしたちと神さまとの関係であり、徳を積んだり位を上げたりするようなものではありません。 | ||||
自分の心を神さまだけに集中したときに、わたしたちのおこないは変わっていきます。この世的な目はどうでもよくなり、まさに「天に宝を積む」ことになるのだと思います。 | ||||
そのためには、わたしたちの目を澄ませることが大切です。欲望や自分の思いで目が濁っているときには、ついつい周りのことに目が行ってしまうでしょう。そうではなく目を澄まし、神さまを仰ぎ見ることが大事なのではないでしょうか。 | ||||
1月 19日「マタイによる福音書6:25〜34」 | ||||
だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。 (マタイによる福音書6章34節) |
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わたしたちは日々、様々なことに対して思い悩みます。老後の心配、子どもの将来、自分の仕事といった大きなものから、夕食は何を食べよう、どの服を着よう、どの枕がいいか、などの日常的なものまで。 | ||||
空には鳥が飛び、野には花が咲いています。イエス様はその様子を見ながら、人々に語ったのでしょう。でもわたしたちが鳥や花のように、すべて大きな力に身を任せて歩むことはできるのでしょうか。 | ||||
わたしたちは小さな波が来ても叫びます。少し明かりが消えただけでも立ち止まり、うずくまってしまいます。何度も思い悩むわたしたちだからこそ、今日の言葉を心に留めていきましょう。「明日のことは明日に、神さまにお任せしましょう」。 | ||||
1月 20日「マタイによる福音書7:1〜6」 | ||||
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 (マタイによる福音書7章3節) |
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おが屑と丸太、その大きさの違いは相当なものです。聖書協会共同訳では、丸太は梁と訳されています。建物を支える大きくて重たい梁が、自分の目の中に入っていることを想像しましょう。痛くてたまらないと思います。 | ||||
わたしたちはどうしても、人の行動が気になります。自分の価値判断に照らし、人を批判してしまうこともしばしばです。 | ||||
しかし神さまから見ると、わたしたちの誰一人として正しい者はおりません。けれども神さまはわたしたちを裁くのではなく、そのまま受け入れてくださいました。だからわたしたちも、周りの人を裁くのではなく受け入れたいと思うのです。 |