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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2022年1月1日〜10日

1月 1「マタイによる福音書1117
 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
(マタイによる福音書1章16節)
新約聖書の初めにはイエス様の系図が書かれています。聞き慣れない名前の羅列なので、読む気が少し薄れてしまうという方もおられるでしょう。
この系図には、マリア以外にタマル、ラハブ、ルツ、ウリアの妻という4人の女性が出てきます。タマルはしゅうとの子を産みました。ラハブは遊女、ルツは異邦人です。そしてウリアの妻であるバト・シェバはふたりの男の妻となりました。女性の名前が系図に載せられるだけでも異例なのに、いわゆる「罪人」や「異邦人」と呼ばれていた人がイエス様の系図に登場するのです。
そこには神さまの思いがあふれているように思います。4人の女性だけが罪深かったわけではなく、それを取り巻く人々や社会、そして人類が罪にまみれていました。その罪を贖うために、イエス様は遣わされました。「罪の系図」の中に、イエス様は誕生されるのです。
1月 2「マタイによる福音書11825
 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
(マタイによる福音書1章19節)
「聖霊によって身ごもった」マリアと、ヨセフはひそかに縁を切る決心をしました。それは彼が「正しい人」であったからです。
「正しい人」とはどういう人のことでしょう。もし律法をきちんと守る人を「正しい人」と呼ぶのであれば、ヨセフはマリアの姦淫の罪を認め、引き渡さなければならなかったでしょう。そしてマリアは石打の刑に処されることになったはずです。しかしヨセフは、神さまの前に「正しい人」でした。神さまを畏れるヨセフが下した決断は、マリアの身を守るということだったのかもしれません。
そして生まれてくる子は、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と呼ばれるようになります。この一連の出来事を通して神さまが伝えたかったこと、それは「わたしは共にいる」ということなのです。
1月 3「マタイによる福音書2112
 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
(マタイによる福音書2章10節)
マタイによる福音書に描かれるイエス様の誕生物語は、ルカ福音書と比べると少し寂しいかもしれません。マリアにみ告げを伝える天使ガブリエルも、羊飼いも、宿屋も、飼い葉おけも、何も出てこないからです。
救い主の誕生は、ユダヤの王様でも、祭司や律法学者でもなく、東方の占星術の学者(新しい聖書では博士と翻訳されています)に伝えられました。これはイエス様はユダヤという小さな世界のためだけでなく、世界中の人のためにお生まれになったということなのではないでしょうか。
占星術の学者たちは、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。幼稚園などでのクリスマス劇では「三人の博士」が登場し、それぞれ歌いながらお金、油、お薬を持ってくる場面があります。そのあとみんなで「心をおささげします」という4番を歌います。わたしたちはイエス様に、何をおささげするのでしょうか。
1月 4「マタイによる福音書21318
 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。
(マタイによる福音書2章16節)
日本聖公会では「祝日」という日を設けています。使徒聖アンデレ日(11月30日)や聖ミカエルおよび諸天使の日(9月29日)などがそうです。その中に「聖なる幼子の日」という日が12月28日にあります。
今日の聖書には、悲しい出来事が書かれています。イエス様の誕生を快く思わないヘロデ王が、そのあたり一帯の二歳以下の男の子を一人残らず殺したというのです。「聖なる幼子の日」は、その子どもたちのことを覚えてお祈りする日です。
イエス様が来られたことで、悲しみがもたらされた人たちもいたのです。そのことを、わたしたちはどのように捉えたらよいのでしょうか。
1月 5「マタイによる福音書21923
 ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
(マタイによる福音書2章22b〜23節)
ヘロデ王の手を逃れ、エジプトに避難していたヨセフ、マリア、そして赤ちゃんイエス様は、夢のお告げ通りにイスラエルに帰ります。主の天使はイエス様の誕生予告の時と同様に、ヨセフの夢に現れます。
夢のお告げとは、神さまのみ心のことです。彼らは神さまの思いに従い、歩んで行きます。そして彼らが向かった場所は、ガリラヤ地方のナザレという小さな村でした。
エルサレムのような大きな都市ではなく、貧しい村ナザレで暮らすことが、神さまのみ心だったのです。イエス様はそこで少年時代を暮らしたことで、わたしたちの気持ちにも寄り添ってくださることができるのです。
1月 6「マタイによる福音書3112
 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
(マタイによる福音書3章11節)
イエス様が活動を開始される前に、洗礼者ヨハネが荒れ野で叫んでいました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。彼は道を備えるために来ました。
「悔い改め」とは簡単な反省や思い直しではなく、心の向きを180度変えることです。神さまの方ではなくそっぽを向いていた心の向きをグリンと変え、神さまに向き直ることを言います。
洗礼者ヨハネは水で洗礼を授けますが、後から来る人は聖霊と火で洗礼を授けるといいます。後から来る人とはイエス様のことです。イエス様はわたしたちにどのように関わってくださるのでしょうか。
1月 7「マタイによる福音書31317
 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
(マタイによる福音書3章16節)
イエス様はご自分の活動の前に、洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けることを決断されます。洗礼者ヨハネは「罪の赦しのための洗礼」を宣べ伝えていました。それではイエス様は、ご自分の罪が赦されるように、洗礼を受けられたのでしょうか。
洗礼には他にも大きな意味があります。それは「神さまが共にいてくださる」しるしです。聖公会の洗礼の中で、司祭は神さまが共にいてくださるように祈りながら、志願者の額に水で十字を切ります。
イエス様が洗礼を受けられたとき、神さまの霊がイエス様の元に降りました。イエス様はこれから、神さまのみ心のままに歩んでいかれます。
1月 8「マタイによる福音書4111
 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
(マタイによる福音書4章1節)
イエス様は荒れ野で悪魔の誘惑を受けます。40日40夜の「40」という数字は、出エジプトの際にイスラエルの民が荒れ野をさまよった「40年」を思い起こさせます。とてつもなく長い期間という意味を持ちます。
イエス様を荒れ野に導いたのは“霊”でした。新共同訳聖書で“霊”と書かれている場合は「聖霊」あるいは「神の霊」「主の霊」が意味されていると思われます(凡例より)。つまりイエス様が荒れ野に行って誘惑を受けたのは、神さまのご意思だったのです。
イエス様は3つの誘惑を、聖書の言葉を用いて退けました。聖書はわたしたちに大切なことを教えてくれるのです。
1月 9「マタイによる福音書41217
 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
(マタイによる福音書4章13節)
イエス様は活動の場所として、ガリラヤ湖畔にある町カファルナウムを選ばれました。多くの人々が漁で生計を立てる、そのような場所でした。
多くの人に手っ取り早く福音を宣べ伝えるなら、大勢の人が暮らし、政治や宗教の中心であったエルサレムの方がよかったでしょう。しかしイエス様はそのような場所を選ばれませんでした。
イエス様は人々の生活の場に行かれたのです。人々の喜びや楽しみ、悲しみや苦しみ、涙や痛みを共に担うことが、イエス様の宣教だったのです。
1月 10「マタイによる福音書41825
 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
(マタイによる福音書4章18節)
イエス様はまず、弟子たちを招きます。最初に弟子にしたのは漁師の兄弟、ペトロとアンデレでした。
彼らは自分から弟子になりたいと志願したわけではありませんでした。イエス様が一方的に見つけられ、声をかけられました。また彼らは特別な能力を持っていたわけでもなさそうです。イエス様は湖のほとりで、ただ見いだされたのです。
わたしたちも同じです。たとえ秀でたところがなくても、神さまの前に正しくなくても、イエス様はわたしたちをも招いてくださいます。

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