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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2026年3月21日〜31日

3月 21「ヨシュア記24110
わたしはモーセとアロンを遣わし、エジプトに災いをくだしたが、それはわたしが彼らの中にくだしたことである。その後、わたしはあなたたちを導き出した。
(ヨシュア記24章5節)
いよいよヨシュア記の最後の章に入ります。まずヨシュアは、イスラエルの全部族をシケムに集めます。カナンのシケムという地は、アブラハムが神さまから語りかけられた場所です(創世記12章6〜7節)。
またヤコブはこのシケムの近くの土地を購入し、後にヨセフの骨を埋葬する場所とします(創世記33章18〜20節)。さらにヤコブはこのシケムでそれまで民が持っていた外国の神々(偶像)を埋め、自分の家族を導きます(創世記35章2〜4節)。
このように、シケムはイスラエルにとって大きな意味を持つ場所でした。そこで今回ヨシュアは、イスラエルの人々を集めます。まず彼が語ったのは、アブラハムから始まった神さまの導きでした。
3月 22ヨシュア記241118
 わたしは更に、あなたたちが自分で労せずして得た土地、自分で建てたのではない町を与えた。あなたたちはそこに住み、自分で植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑の果実を食べている。』
(ヨシュア記24章13節)
ヨシュアはイスラエルの全部族の長老、長、裁判人、役人に対して語ります。それは「約束の地」に与えられた土地は、労せずして与えられた物だということ。そのことを、「自分で植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑の果実を食べている」と表現します。
わたしたちは奉献のときに、「すべてのものは神の賜物」と言います。しかしどうでしょう。「でも本当は自分で稼いだんだけどね」とは思っていないでしょうか。献金も「出してあげる」となってはいないでしょうか。
ヨシュアはその上で、イスラエルの人々に対して問いかけます。「あなたがたは誰に仕えるのか」と。ただ16〜18節の民の言葉をみると、「〜してもらったから、主に仕えます」という言い方に聞こえます。御利益宗教のようです。
3月 23ヨシュア記241928
ヨシュアはしかし、民に言った。「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにならないからである。
(ヨシュア記24章19節)
たとえば子どもたちに、「みんなであの山、登ろうか」と言ったとします。しかし「うん、登る〜!」、「頑張るぞ〜!」という子どもたちに向かって、「いや、多分みんなは途中で諦めると思うよ」とか、「蛇や熊なんかが出たらどうするの」とか言うでしょうか。
今日のヨシュアの言葉ですが、イスラエルの人々に対してかなり厳しい言葉を告げます。それはモーセやアロンが彼らを導いていたときも、イスラエルの人々は何度も神さまに背いたのを知っていたからです。
民はヨシュアに対し、「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います」と宣言しますが、その後の物語を見ると、やはり、案の定、主に背いてしまいます。何だか自分の姿を見るようです。
3月 24ヨシュア記242931
ヨシュアの在世中はもとより、ヨシュアの死後も生き永らえて、主がイスラエルに行われた御業をことごとく体験した長老たちの存命中、イスラエルは主に仕えた。
(ヨシュア記24章31節)
ヨシュアは110年の生涯を終えました。彼とエフネの子カレブだけが、出エジプトからカナンの地定住を経験しました。いわゆる「生き証人」だったわけですが、ついに彼の命は尽きました。
奈良基督教会は、来年創立140周年を迎えます。また2030年には礼拝堂聖別から100年になります。それまであった様々なことを後世に伝えるために、「記録」というものがとても重要になります。
ヨシュアの在世中、そして死後も生きながらえた長老たちは、神さまのみ業を身をもって経験していました。神さまの愛も、そして怖さもよく知っていたのでしょう。彼らが生きている間は、民はきちんと神さまに仕えていたようです。
3月 25ヨシュア記243233
 イスラエルの人々がエジプトから携えてきたヨセフの骨は、その昔、ヤコブが百ケシタで、シケムの父ハモルの息子たちから買い取ったシケムの野の一画に埋葬された。それは、ヨセフの子孫の嗣業の土地となった。
(ヨシュア記24章32節)
創世記33章18〜20節によると、ヤコブ(アブラハムの孫、ヨセフの父)はシケムの土地の一部を100ケシタで買い取っていました。100ケシタがどれくらいの金額だったかは、よくわかっていないようです。
ヤコブはそこに祭壇を建て、エル・エロヘ・イスラエルと呼びました。ヤコブはその直前の創世記32章29節で格闘をした神さまから、「お前の名はイスラエルと呼ばれる」と告げられたばかりでした。
その場所に、ヨセフの骨は葬られます。ヨセフが死んで、どれくらい経っていたのでしょうか。しかし何年経っても、ヨセフの父ヤコブが買い取った場所にヨセフの骨を納め、そこをヨセフの嗣業の地としたかったのです。彼はそれほど、偉大だったのです。
3月 26士師記1111
ヨシュアの死後、イスラエルの人々は主に問うて言った。「わたしたちのうち、誰が最初に上って行って、カナン人を攻撃すべきでしょうか。」
(士師記1章1節)
今日から士師記に入ります。士師記は英語で「Judges」と訳され、ジャッジする人、つまり裁き主という意味合いを持ちます。ただ同時にイスラエルの民を正しい方向へ導く人や治める人でもあります。
この士師記もヨシュア記同様、戦争の場面が多く出てきますし、神さまがお怒りになることも多々あります。そのためにどうしても、敬遠されがちな箇所になります。ただ現代のイスラエルの状況を理解する上で、読んでおくのも大事なことでしょう。
物語はヨシュアが死んだ後から始まります。ヨシュアはイスラエルのそれぞれの民族に土地を配分したものの、実際にはその土地には入っていなかったようです。まず2章5節までのところで、いわゆる「入植」の様子が描かれます。
3月 27士師記11221
 ユダはガザとその領土、アシュケロンとその領土、エクロンとその領土をも占領した。
(士師記1章18節)
12節に出てくるカレブは、「エフネの子」と呼ばれていた人物でした。彼は出エジプトのときからいる二人のうちの一人です。もう一人はヨシュアでした。カレブはヨシュアよりも長生きだったのですね。
カレブは自分が与えられた土地を占領した者に、娘アクサを与えると約束します。今このようなことを言うと、娘の人権はどこに?という話になるでしょう。ただこの時代には、「娘を強い男性に与える」ことは正しいとされていました。
その土地を占領し、アクサを妻としたのはオトニエルという人物でした。彼はアクサを促し、ネゲブの地をもらいます。彼は後に士師として活躍していくことになりますが、その様子は3章7節以降に描かれていきます。
3月 28士師記12228
その人はヘト人の地に行って町を築き、それをルズと名付けた。この町の名は今日に至るまでそう呼ばれている。
(士師記1章26節)
22節にある「ヨセフの一族」というのは、聖書地図には出てきません。ベテルはエフライム族に与えられた場所ですので、マナセとエフライムを合わせて「ヨセフ族」と表現しているのかもしれません。
聖書の記述の中に、「カナン人は住み続けた」、「カナン人を追い出さなかった」、「カナン人はその中にとどまり」というものがあります。ユダヤ人がこれを読むと、苦々しい歴史になってしまうのでしょう。
しかしわたしたちから見たら、「後から来ておいて、それは当然だ」、「もっと仲良く共生すればいいのに」と思います。「民族主義」という旧約聖書の一面が、ここに色濃くあらわれているようです。
3月 29士師記12936
 アシェルはこれらの地の住民であるカナン人を追い出さず、彼らの中に住み続けた。
(士師記1章32節)
「強制労働」という言葉が目につきます。昔エジプトのピラミッドは奴隷が強制労働させられて造られたという説が一般的でした。しかし現代では、建設に携わる職業の人の手によって建てられたという説が有力です。
それはともかく、イスラエルの人々はエジプトの地で、強制労働によって苦しめられてきたという歴史があったはずです。その労苦に耐えられなくなって神さまに対して叫び、モーセによってエジプトから脱出したはずなのですが。
イエス様が語った言葉、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。(マタイによる福音書7章12節)」を思い出します。奴隷から解放された喜びを、他の民族とも分かち合ってほしいところです。
3月 30士師記215
 こうしてこの場所の名をボキム(泣く者)と呼び、彼らはここで主にいけにえをささげた。
(士師記2章5節)
イスラエルのそれぞれの民族が与えられた土地に入ったところで、主のみ使いから驚きの言葉が告げられます。「しかしあなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった」と。具体的にはこういうことのようです。
「あなたたちはこの地の住民と契約を結んだ、住民の祭壇を取り壊さなかった」というのが、神さまの怒りの原因です。わたしたちにとっては違和感のある考え方ですが、この言葉を今も忠実に守っているキリスト教の教派があるのも事実です。
仏壇やひな人形さえも、捨ててしまいなさいと言われているのを聞いたときには、耳を疑ってしまいました。奈良基督教会の玄関横にはお地蔵さんがいます。その教派の人たちがそれを知ると、ひっくり返るかもしれませんね。
3月 31士師記2615
 その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。
(士師記2章10節)
ヨシュアや、彼と共に神さまの不思議な業を見た長老たちは、みな亡くなっていきます。その中でイスラエルの人たちは、神さまの目に悪とされることをするようになってしまいます。「主のみ業」が伝承されていかなかったのです。
イスラエルの人たちは、バアルとアシュトレトという異教の神々に仕えるようになってしまいます。この仕えるというのがどのレベルのことを言っているのかはわかりません。積極的にお供えをするのか、そこに像が立っているのを見て見ぬふりをしたのか。
ただここで神さまは、怒ります。「わたしだけを見て!」と、まるで異性に対して束縛を求めているようにも感じます。旧約聖書では神さまが自分のことを「妬む」と言ったこともあります。それほどまでに民を愛しているということなのでしょうか。

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