
| 3月 11日「ヨシュア記21:20〜33」 | ||||
| ナフタリ族からは、殺害者の逃れの町であるガリラヤのケデシュ、ハモト・ドル、カルタンとそれぞれの放牧地など三つの町である。 (ヨシュア記21章32節) |
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| その他のケハトの子らの諸氏族、ゲルションの子孫にもそれぞれくじで、町が与えられます。その町の中に、「殺害者の逃れの町(21、27、32節)」が含まれていました。(昨日の13節、明日の36節にもあります) | ||||
| この「逃れの町」については、ヨシュア記20章に書かれています。故意ではない殺人を犯してしまった人が、その報復の手から逃げ込むための場所です。そこにいる限り、復讐することは許されませんでした。 | ||||
| その町が、レビ人に与えられたということは、何を意味しているのでしょうか。祭司やレビ人といういわゆる「宗教者」に求められているのは、「ゆるし」と「いやし」という意味もあるのかもしれません。 | ||||
| 3月 12日「ヨシュア記21:34〜45」 | ||||
| 主が先祖に誓われた土地をことごとくイスラエルに与えられたので、彼らはそこを手に入れ、そこに住んだ。 (ヨシュア記21章43節) |
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| 最後にメラリの人々にも、氏族ごとに町が与えられました。これでレビ人の町は全部で48になりました。彼らレビ人は、祭司職を担ったり、その下働きをしたりしていました。つまり、祭儀に携わっていたのです。 | ||||
| そのために、各氏族に与えられた嗣業の地に彼らは分かれて住むことになります。各地に神社があり、そこに氏子がいるようなイメージでしょうか。これでレビ人にも無事、土地が配分されました。 | ||||
| イエス様の時代、レビ人はどうしていたのでしょうか。彼らはルカによる福音書10章25〜37節の「善いサマリア人」に登場します。そこでレビ人は、強盗に襲われ倒れていた人を見て、道の向こう側を通って行きました。あまりよい描かれ方はしていません。 | ||||
| 3月 13日「ヨシュア記22:1〜8」 | ||||
| 彼らに言った。「多くの財宝、多数の家畜、金、銀、銅、鉄および数多くの衣服を天幕に持ち帰りなさい。敵から分捕った物は、兄弟たちと分け合いなさい。」 (ヨシュア記22章8節) |
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| ルベン人、ガド人、マナセの半部族はヨルダン川を渡らず、その東側の土地に住むことを選んでいました。しかし他の部族が西側の土地を得るまで、一緒に行動していました。自分たちだけが危険な場所から逃れるわけにはいかなかったからです。 | ||||
| 西側の土地の配分が終わったとき、ヨシュアは「あなたたちは主の僕モーセから受けたヨルダン川の東側にある自分の所有地の天幕に帰るがよい」と命じます。ようやく安住の地に戻れるのです。 | ||||
| 家族を東側の地に残し、兵士として西側での戦いに加わった人も多くいたことでしょう。しかし中には命を落とし、家族の元に戻れなかった人もいたと思います。いつの時代も、戦争は嫌なものです。 | ||||
| 3月 14日「ヨシュア記22:9〜14」 | ||||
| イスラエルの人々は、ルベンとガドの人々、およびマナセの半部族がカナンの地境、ヨルダン川のイスラエル側のゲリロトに祭壇を築いたとの知らせを聞いた。 (ヨシュア記22章11節) |
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| ヨルダン川の東側に戻ったルベン人、ガド人、マナセの半部族は、ゲリロトに祭壇を築きます。そのことは西側に土地を持つ人たちとの争いを引き起こします。祭壇くらい、とはならなかったのです。 | ||||
| 出エジプト記20章24節には「あなたは、わたしのために土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上にささげなさい」と定められているので、祭壇は自由に作れそうのも思います。 | ||||
| しかし申命記12章5節には「必ず、あなたたちの神、主がその名を置くために全部族の中から選ばれる場所、すなわち主の住まいを尋ね、そこへ行きなさい」とあるので、祭壇の場所は全部属で定める必要があったのです。 | ||||
| 3月 15日「ヨシュア記22:15〜20」 | ||||
| それなのに、お前たちは今日、主に背こうとしている。今日、主に逆らうなら、明日、イスラエルの共同体全体に御怒りが下るであろう。 (ヨシュア記22章18節) |
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| 申命記12章5節にあるように、ヨルダン川の東側の三部族だけで祭壇を築いたことは主に背いていると、西側の部族の人たちは考えました。そこで軍を差し向けようとしますがその前に、祭司ピネハスとそれぞれの家系の長を遣わします。 | ||||
| 17節にある「ペオルで犯したあの罪」については、民数記25章に書かれています。バアルという異教の神々を拝んでしまったイスラエルの民を、神さまが厳しく罰した出来事です。彼らは、祭壇を築いたことで同じ怒りが下されると指摘します。 | ||||
| そしてその怒りは、祭壇を築いた東側の人たちだけではなく、イスラエル全体に及ぶだろうと言うのです。そのようなことにならないように、軍を差し向けて怒りの原因を消そうというのです。 | ||||
| 3月 16日「ヨシュア記22:21〜29」 | ||||
| ルベンとガドの人々よ。主はヨルダン川をわたしたちとあなたたちとの境とされた。あなたたちには、主の割り当てはない』と言って、あなたたちの子供がわたしたちの子供に主を畏れることをやめさせるかもしれません。 (ヨシュア記22章25節) |
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| 22節の「神よ、主なる神よ。神よ、主なる神よ。神はご存じです。イスラエルも分かってください」という叫びが、ルベン人、ガド人、マナセの半部族の人々の思いをあらわしています。 | ||||
| 彼らの心には、決して主に背こうという思いはありませんでした。ただ「カナンの地」に住むことになった自分たちがアイデンティティを保つために、祭壇が必要だったということを訴えるのです。 | ||||
| その祭壇は主の祭壇とは違い、そこで焼き尽くす献げ物などをすることはないと彼らは宣言します。それは模型であり、西側の人との間柄を示すに過ぎないということです。それほど川を隔てることに、恐れがあったということでしょう。 | ||||
| 3月 17日「ヨシュア記22:30〜34」 | ||||
| イスラエルの人々は、このことを良しとし、神をたたえ、もはやルベンとガドの人々の住む地方に攻め上り、これを滅ぼそうと言う者はなかった。 (ヨシュア記22章33節) |
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| ヨルダン川の東側に祭壇を築いた問題は、軍や兵士を使うことなく解決したようです。何かのためになると思って行動しても、その目的などを誤解されてしまい、トラブルになることがあります。 | ||||
| あとで聞いてみると、「あれ、同じこと考えていたんだ」と気づくこともあるわけです。やはり話し合いって、とても必要なことですね。争いの多い旧約聖書の中で、平和の内に解決する出来事があるとホッとします。 | ||||
| ルベンとガドの人々は、この祭壇を「わたしたちの間では主が神であることの証人」(新しい翻訳の聖書では「私たちの間で、主こそが神であることの証し」)と名付けました。今もこれはどこかにあるのでしょうか。 | ||||
| 3月 18日「ヨシュア記23:1〜5」 | ||||
| 見よ、わたしはヨルダン川から、太陽の沈む大海に至る全域、すなわち未征服の国々も、既に征服した国々もことごとく、くじによってあなたたち各部族の嗣業の土地として分け与えた。 (ヨシュア記23章4節) |
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| ヨシュア記も、あと2章となりました。イスラエルの各部族に土地が配分されてから、長い年月が流れたそうです。ここから、ヨシュアの告別の言葉が始まります。死期が迫ったことを感じているのです。 | ||||
| ヨシュアはまず、すべての出来事は「あなたたちの神、主があなたたちのために」おこなったことだと語ります。わたしたち人間は何かを手に入れたときに、自分の力で得たのだと考えがちです。 | ||||
| しかし、そうではないとヨシュアは語るのです。イスラエルの人たちの安住の地は、神さまの導きによって与えられたものだということです。わたしたちもこの考え方は、大切にしたいものです。 | ||||
| 3月 19日「ヨシュア記23:6〜13」 | ||||
| あなたたちのうちに今なお残っているこれらの国民と交わり、その神々の名を唱えたり、誓ったりしてはならない。それらにひれ伏し拝んではならない。 (ヨシュア記23章7節) |
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| 続いてヨシュアは、モーセの教えの書、つまり律法を忠実に守るように伝えます。「今日までしてきたように、ただあなたたちの神、主を固く信頼せよ」という言葉はわたしたちにも理解できます。 | ||||
| しかしその前にある「あなたたちのうちに今なお残っているこれらの国民と交わり、その神々の名を唱えたり、誓ったりしてはならない。それらにひれ伏し拝んではならない」という命令はどう聞こえるでしょうか。 | ||||
| 日本においてキリスト教は、マイノリティです。それでも排他的に、他の宗教と一切交わらない教派もあります。わたしたちはどうでしょうか。他宗教でのお葬式やひな祭り、七五三など、どのように考えていくべきでしょうか。 | ||||
| 3月 20日「ヨシュア記23:14〜16」 | ||||
| もし、あなたたちの神、主が命じられた契約を破り、他の神々に従い、仕え、これにひれ伏すなら、主の怒りが燃え上がり、あなたたちは与えられた良い土地から、速やかに滅び去る。 (ヨシュア記23章16節) |
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| ヨシュアが最後に語ったのは、因果応報ということです。因果応報とは仏教用語で、「過去の行いの善悪に応じて、必ずその報いがある」という意味があります。とても分かりやすい考え方です。 | ||||
| ヨシュアのこの言葉にも見られるように、イスラエルの人々は良いことをしたら祝福(財産、長寿、子孫を得るなど)され、悪いことをしたら罰(病気、子どもができないなど)を受けるとされていました。 | ||||
| しかしその考え方は、イエス様のよって覆されます。あるときイエス様は、生まれつき目の見えない人に対して、それは罪の結果ではないと明言されました。人々を罪の呪縛から解放されたのです。 |