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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2026年1月21日〜31日

1月 21「ヨシュア記818
町を取ったらこれに火を放ち、主の言葉どおり行いなさい。見よ、わたしはこう、あなたたちに命じている。
(ヨシュア記8章8節)
ヨシュア記7章でイスラエルの民は、アイに攻め込むのに失敗しました。その大きな原因は、神さまによって禁じられていた「分捕り物を自分の物にする」ということをアカンがしたために、神さまが怒ったためです。
その怒りは、アカンとその家族が罰を受けることでおさまったようです。しかしもう一つ、失敗の原因がありました。それはアイに攻め込むときに、自分たちだけで作戦を立てて実行したことです。
今回はどのように攻め上ると良いのか、神さまはヨシュアに伝えます。神さまは敵をおびき寄せるという方法を伝え、ヨシュアはイスラエルの人たちにそれを実行させるのです。神さまの導きを信じたということです。
1月 22ヨシュア記8917
 町の全軍も追撃のために呼び集められ、ヨシュアの後を追い、彼らはこうして、町からおびき出された。
(ヨシュア記8章16節)
アイの町は、固い門に閉ざされた要塞のような場所だったようです。正面から攻め上ってもなかなかうまくいかないことは、7章でも証明されています。そこでヨシュアは神さまが教えたとおりに行動するよう、兵に伝えます。
まるで神さまが、「軍師」になったかのようです。この背景には、旧約の時代にイスラエルの人たちと異教の神々に仕える異邦人とが対立し、争いが日常的に起こっていたこともあります。
アイの人たちは一度勝利した相手なので、油断していたのでしょう。イスラエルの人たちを完膚なきまでやっつけようと思ったのかもしれません。そのために町の門を開けたままで、みんな外に出てしまいます。「ありえない」状況が起こるのです。
1月 23ヨシュア記81823
アイの王は生け捕りにされ、ヨシュアのもとに引き出された。
(ヨシュア記8章23節)
イスラエルの人たちは、アイを占領しました。争いが嫌いなわたしにとって、この物語をどう理解したらよいか、悩むところです。神さまの導かれるままに行動したら、結果がついてきた、という感じでしょうか。
旧約聖書が伝えようとしているのは、神さまに信頼を置く民とそうでない人たちとの違いです。アイの人たちが信じる神々よりも、イスラエルの神の方が素晴らしいということもまた伝えているように感じます。
結果的にアイの王は生け捕りにされ、ヨシュアの元に引き出されます。この出来事を見て、イスラエルの人々はさらに神さまに忠誠心を抱くのです。わたしたちの信仰とは、ちょっと違うようにも思えますが。
1月 24ヨシュア記82429
ただし、この町の家畜と分捕り品は、主がヨシュアに命じた言葉どおり、イスラエルが自分たちのために奪い取った。
(ヨシュア記8章27節)
イスラエルの人たちは、アイの全住民を滅ぼし尽くします。旧約聖書にはこのような記述が多く、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教は同じ旧約聖書を土台としているため、争いが尽きないのでしょう。
特に今回は、アイの町の家畜や分捕り品は自分たちのために奪い取ってよいとされていました。こうなると、人間の欲望など汚い部分も見えていきます。しかしなぜ、アカンのときは禁止して今回はいいと言ったのでしょうか。
何だか、神さまの気まぐれのようにも感じます。アイの人たちは、何か悪いことをしたのでしょうか。ただ「約束の地」と呼ばれる場所に住んでいただけです。現在のパレスチナの人たちのようです。
1月 25ヨシュア記83035
 その後ヨシュアは、律法の言葉すなわち祝福と呪いをことごとく、すべて律法の書に記されているとおりに読み上げた。
(ヨシュア記8章34節)
アイを焼き払ったヨシュアは、エバル山に祭壇を築きます。それまでイスラエルの人たちは、契約の箱を中心に幕屋で礼拝をしていました。いわば「移動式の礼拝堂」です。しかし「約束の地」に入った今、祭壇を築くという決断に至ったようです。
ヨシュアが、「律法を読み上げる」という場面が出てきます。これは契約の更新と捉えることができます。モーセを通して命じられた律法を、もう一度民の前で朗読することによって、その言葉を確認するのです。
そう考えると、新約聖書の中でイエス様がおこなった「山上の説教」は、新たな契約の更新だと考えることもできます。幸いな人とは誰か。敵は憎むのではなく愛しなさい。人を裁いてはならない。そのような「新しい契約」が語られていくのです。
1月 26ヨシュア記917
イスラエル人はそのヒビ人に言った。「お前たちは、我々と共にここに住んでいるのだろう。どうして協定を結べようか。」
(ヨシュア記9章7節)
イスラエルの人たちがアイを滅ぼしたことは、周りの他の民族に恐れを抱かせます。ただ打ち破るだけではなく「一人残らず」、「ことごとく」という表現が示す通り、とても残酷な状況を生み出していったのでしょう。
多くの王は結託して、イスラエルの人たちに立ち向かおうとします。戦わないと家族もろとも殺されてしまう。そうであれば戦うしかない。その思いはよくわかります。自分がその場にいても、そうしたかもしれません。
ところがギブオンの住民だけは、何とか生き延びようと策を練ります。自分たちは遠い国から来たことにして協定を結ぼうというのが、彼らの策です。そのために彼らは、賢く立ちまわるのです。
1月 27ヨシュア記9815
 ヨシュアは彼らと和を講じ、命を保障する協定を結び、共同体の指導者たちもその誓いに加わった。
(ヨシュア記9章15節)
ギブオンの人たちはイスラエルと協定を結ぶために、パンやぶどう酒の革袋、自分たちの外套や靴にも細工をしました。その姿を見て、ヨシュアはギブオンの人たちと協定を結びます。だまされたと言ってもいいかもしれません。
このときヨシュアは、神さまの指示を求めませんでした。本来であればすべてを滅ぼすようにというのが、神さまの命令だったはずです。(とても怖いことですが)。その中でギブオンの人たちは賢いおこないによってその命をつなぎます。
この出来事はヨ、シュア記2章に出てきたラハブのおこないにも通じるものがあります。ラハブもその賢さによって、自分たちの命を守ります。「長いものに巻かれる」ことも、大事だということなのでしょうか。
1月 28ヨシュア記91621
イスラエルの人々は、共同体の指導者たちがイスラエルの神、主にかけて誓いを立てていたので、彼らを攻撃はしなかったが、共同体全体は指導者たちに不平を鳴らした。
(ヨシュア記9章18節)
三日後に、ギブオンの人たちは実は近くに住んでいたということが判明します。普通であればだまして結んだ協定です、反故にされてもおかしくはありません。しかしヨシュアはそうすることをしませんでした。
それはすでに、「誓った」からです。誓うという行為は、神さまが介入している契約です。マタイによる福音書5章33〜37節には、「誓ってはならない」というイエス様の言葉が載せられています。
神さまの名をみだりに用いたり、軽々しく誓いを立てたりすることはよくないということを、イエス様は後に言われています。ヨシュアはギブオンの人たちと、神さまのみ心を確かめずに協定を結んでしまいました。「覆水盆に返らず」です。
1月 29ヨシュア記92227
 御覧ください。わたしたちは今はあなたの手の中にあります。あなたが良いと見なし、正しいと見なされることをなさってください。
(ヨシュア記9章25節)
この9章の一連の流れをみると、ギブオンの人たちが賢く、ヨシュアは失敗したという構図になっています。しかし結果的にギブオンの人たちはイスラエルの奴隷になり、芝刈りや水くみをして暮らします。
少し納得いかない部分もありますが、ギブオンの人たちのこの言葉にも思いを馳せたいと思います。「わたしたちは今はあなたの手の中にあります」。彼らは自分たちの弱さを認め、そこで生かされることだけを求めたのです。
大きく考えると、神さまとわたしたちの関係も同じようなものかもしれません。わたしたちは神さまの憐れみによって生かされ、神さまに与えられた賜物を用いて生かされていく。でもやっぱり、ギブオンの人たちはかわいそうですね。
1月 30ヨシュア記1016
 アモリ人の五人の王、すなわちエルサレム、ヘブロン、ヤルムト、ラキシュ、エグロンの王たちとその全軍勢は連合して攻め上り、ギブオンに向かって陣を敷き、戦いを仕掛けた。
(ヨシュア記10章5節)
ヨルダン川を渡り「約束の地」に入ったイスラエルの民はまず、エリコを手に入れます。さらにアイを滅ぼし、ギブオンの人たちと協定を結びます。この物語は「大河ドラマ」のように、人々に伝えられていったのでしょう。
ギブオンの人たちはヨシュアたちをだまして服従するのですが、決して戦力が劣っているわけではありませんでした。アイよりも大きかったので、「反イスラエル軍」を作るならば、その主力となっていたことでしょう。
しかしそのギブオンの人たちですら協定を結んだことを知り、エルサレム、ヘブロン、ヤルムト、ラキシュ、エグロンの王たちは連合軍を作ります。力を合わせて「外敵」に立ち向かうのです。そしてまず「裏切者」であるギブオンを攻め込むのです。
1月 31ヨシュア記10715
 主はヨシュアに言われた。「彼らを恐れてはならない。わたしは既に彼らをあなたの手に渡した。あなたの行く手に立ちはだかる者は一人もいない。」
(ヨシュア記10章8節)
ヨシュア率いるイスラエル軍は、ギルガルから出て「連合軍」を攻撃します。ただしここで実際に戦ったのは、ギブオン軍だけでもイスラエル軍だけでもありませんでした。神さまの力が大きく現されていました。
神さまは天から大石を降らせます。それは雹となり、その雹によって剣で殺された人たちよりも多くの人が亡くなったそうです。「主はイスラエルのために戦われた」と書かれている通りです。
「聖戦」や「神風」など、神さまの力が自分たちに味方し、戦いを後押しするという考え方はよく見られます。しかしそれは、「正義」と「悪」とをはっきり区別することにもつながります。このような聖書の言葉を、文字通り捉えるのは危険なように思います。

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