
| 12月 11日「詩編140:1〜8」 | ||||
| 主よ、わたしの神よ、救いの力よ わたしが武器を執る日 先頭に立ってわたしを守ってください。 (詩編140編8節) |
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| 「悪人の自業自得を求める祈り」:救いを求める個人の祈りです。この一年、詩編を丁寧に読んできました。23編のように神さまとの関係を歌ったものや、100編のように喜びと感謝を表明するものなど、心が豊かになる詩編が多くありました。 | ||||
| 一方で、「敵」や「悪」を何とかしてほしい(滅ぼしてほしい)という「嘆願」も多くみられます。そのような詩編が出てくるたびに、どのように解説をしたらよいのだろうか、大変悩んだのも事実です。 | ||||
| 今日の箇所には、「わたしが武器を執る日」とあります。何があっても武器は執るべきではない、とわたしたちは考えます。しかしそうせざるを得なかった人たちが当時いたことを、そして今も世界にはそのような人たちがいることを、知るべきなのかもしれません。 | ||||
| 12月 12日「詩編140:9〜14」 | ||||
| わたしは知っています 主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ 乏しい人のために裁きをしてくださることを。 (詩編140編13節) |
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| 詩編140編の作者とされるダビデは、イスラエル最大の王として人々の記憶に残っています。そのダビデは先代の王サウルから命を狙われたり、息子アブサロムに反乱を起こされたりと、とても困難な状況を経験してきました。 | ||||
| その中で彼は、神さまに救いを求めていきます。その言葉が伝えられ、詩編の中に入れられたのでしょう。しかしサムエル記を読むと、ダビデは決して「罪のない潔白な」王ではないことがわかります。 | ||||
| わたしたちも自分の悪いところは棚に上げ、人を非難し、その人に災いが起こるように願ってしまうこともあるかも知れません。神さまはきっと、わたしたちのそのような心も含めて、すべてご存じなのです。 | ||||
| 12月 13日「詩編141:1〜4」 | ||||
| わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし 高く上げた手を 夕べの供え物としてお受けください。 (詩編141編2節) |
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| 「悪の誘(いざな)いに逆らう祈り」:救いを求める個人の祈りです。2節で作者は、祈りを犠牲として受け取ってほしいと願います。旧約聖書の中では、様々な場面で献げるべきいけにえが定められていました。 | ||||
| しかし旧約聖書ホセア書6章6節にはこうあります。「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない」。この言葉をイエス様はご自分の口で、群衆に語られました。 | ||||
| わたしたちは祈りによって、神さまから受けた愛に感謝し、周りの人たちと愛のうちに歩むことを求められています。何かを犠牲にしたり、他人に犠牲を強要したりする必要はないのです。 | ||||
| 12月 14日「詩編141:5〜10」 | ||||
| 主よ、わたしの神よ、わたしの目をあなたに向け あなたを避けどころとします。わたしの魂をうつろにしないでください。 (詩編141編8節) |
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| 「主をさけどころとする」というのは、どういうことでしょうか。旧約の中でのイメージは、神さまが守られている城壁の中に自らを置くという感じかもしれません。しかしそこに行くためには、「正しい者」にならないといけなかったのです。 | ||||
| しかし聖書に「正しいものはいない、一人もいない」と書かれているように、思いと言葉とおこないによって全く罪を犯さない人などいません。このままでは誰一人救われない、だからイエス様が必要なのです。 | ||||
| イエス様が十字架上で広げられた両手は、前から飛んでくる石や槍などをすべて受け止めてくれます。本当であれば罪あるわたしたちに向かってくるそれらの物を、イエス様は身をもって防いでくださるのです。イエス様こそが、わたしたちのさけどころです。 | ||||
| 12月 15日「詩編142編」 | ||||
| わたしの叫びに耳を傾けてください。わたしは甚だしく卑しめられています。迫害する者から助け出してください。彼らはわたしよりも強いのです。 (詩編142編7節) |
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| 「獄舎で悩む人の祈り」:救いを求める個人の祈りです。この詩の表題に、「ダビデが洞窟にいたとき」とあります。ダビデはガトから逃れて洞窟を見つけ、そこに隠れます。神さま以外には助けてくれる者が誰もいない状況でした。 | ||||
| サムエル記上22章1節には「アドラムの洞窟」の話が、またサムエル記上24章3〜4節には「エン・ゲディの洞窟」の話が載せられています。どのような状況でダビデは、友に見捨てられ、敵に取り囲まれた状況になったのでしょう。 | ||||
| 来年の「日ごとの聖書」では、ヨシュア記・士師記・ルツ記・サムエル記上・下を読んでいきます。その中に、ダビデの物語も出てきます。どのようなことがあって彼は神さまに救いを求めたのか、読むのが楽しみですね。 | ||||
| 12月 16日「詩編143:1〜6」 | ||||
| あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は 命あるものの中にはいません。 (詩編143編2節) |
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| 「悔い改める者の祈願」:救いを求める個人の祈りです。この詩編は7つある「悔い改めの詩編」の7つ目のものです。この詩編には、他にはあまり見られない記述があります。2節の「御前に正しいと認められる者は 命あるものの中にはいません」です。 | ||||
| 詩編の中で多いのは、「わたしの正しさによって」という言葉です。「自分は正しいのだから悪を何とかしてください」という願いが、一般的なのです。しかしここでは、正しくない自分を認め、神さまの憐れみを求めていくのです。 | ||||
| 神さまに頼る、そのことを歌った聖歌495番があります。「イェスよわが神よ 主よわがすべてよ 祈りにこたえて み恵みをたまえ 主はわが喜び いよよ主を愛せん」。罪人であるわたしたちの祈りに耳を傾けてくださる神さまに、すべてを任せましょう。 | ||||
| 12月 17日「詩編143:7〜12」 | ||||
| 御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって 安らかな地に導いてください。 (詩編143編10節) |
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| 昨日も書いた通り、この詩編の作者は「正しいと認められる者は命あるものの中にはいません」と言います。「正しさのゆえに」と自分の正当性を誇張する人が多い中で、とても特徴的なものです。 | ||||
| この思いは、わたしたちも大切にしたいものです。神さまは、わたしたちが特別に良いおこないをしたから恵みを与えてくださるのではありません。ただただ一方的に、愛を注いでくださるのです。 | ||||
| その喜びを、「夕日落ちて 夜はおとずれ(聖歌37番)」の4節ではこう歌います。「感謝します 恵みの日を わが旅路の 平和な日を 神の愛に 生かれる 新たな日を 祈ります」。この思いをいつも胸に、眠りにつきたいものですね。 | ||||
| 12月 18日「詩編144:1〜8」 | ||||
| 高い天から御手を遣わしてわたしを解き放ち 大水から、異邦人の手から助け出してください。 (詩編144編7節) |
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| 「王の勝利、民の幸福」:王の詩編です。王の詩編とは、ダビデのような王に関係する祝祭で用いるために作られたと考えられているものです。「ダビデの詩」と書かれていますが、ダビデが直接書いたものではないというのが一般的な考え方です。 | ||||
| この詩をサムエル記上17章に書かれている「ダビデとゴリアト」の物語に重ねることもあります。ペリシテ人のゴリアトは巨人で、イスラエルの人たちに一対一での戦いを挑んでいました。 | ||||
| 当時ダビデは羊飼いであり体も小さかったのですが、投石によりゴリアトを倒します。その時にダビデは、「この戦いは主のものだ」と語ります。神さまにより頼み、敵を退けたのです。 | ||||
| 12月 19日「詩編144:9〜15」 | ||||
| わたしを解き放ち 異邦人の手から助け出してください。彼らの口はむなしいことを語り 彼らの右の手は欺きを行う右の手です。 (詩編144編11節) |
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| 聖歌431番に、「新しいエルサレムは」という歌があります。エルサレムと聞くと争いのイメージが強く、喜びや平和とは程遠いようにも感じます。しかし聖書の描く「新しいエルサレム」とは、地理上の場所とは異なるのです。 | ||||
| その3節に、このようにあります。「愛しきみ国を仰ぎ 生かされる この身をささげ 心からほめたたえよ 父と子と聖霊の主を」。詩編を読んでいていつも心に留めたいのは、神さまは特定の民族や国のものではないということです。 | ||||
| 「異邦人」という言葉に反応して排他的になるのではなく、そのような思いを改めさせるためにイエス様が来られた事実を覚えていきましょう。神さまの本当の思いを受け取ることができればと思います。 | ||||
| 12月 20日「詩編145:1〜9」 | ||||
| 主はすべてのものに恵みを与え 造られたすべてのものを憐れんでくださいます。 (詩編145編9節) |
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| 「主の偉大さと慈しみ」:この詩から「賛美的歌集」が始まります。またこの詩はアルファベットによる詩、いわゆる「いろは歌」の最後のものです。この詩編では全体にわたり、神さまを賛美していきます。 | ||||
| 1節に「あがめ」という言葉があります。その意味は、「非常に尊いものとして敬い、大切に扱うこと」だそうです。神さまを大切に思い、何よりも大切にするということなのでしょう。 | ||||
| ほかの宗教では、供え物をしたり祭壇をつくって祀ったりするなど、目に見える形で大切にすることもあります。ではわたしたちは神さまを、どのようにあがめたらよいのでしょうか。いつも祈りの中で神さまに感謝すること、それが大切なのかもしれません。 |