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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2025年12月1日〜10日

12月 1「詩編1351521
 偶像を造り、それに依り頼む者は 皆、偶像と同じようになる。
(詩編135編18節)
レビ記26章1節に、このようにあります。「あなたたちは偶像を造ってはならない。彫像、石柱、あるいは石像を国内に建てて、それを拝んではならない」。これは出エジプト記20章にあるモーセが神さまから受け取った十戒の一つです。
古代から多くの世界の宗教は、神々の像を刻んでそれを拝んできました。大仏などの仏像やお地蔵さんなどもそれに当たるかも知れません。確かに目の前に拝む対象があった方が、祈りやすいのも事実です。
しかし聖書は、偶像を否定します。「偶像」を祈りの対象とし、その「偶像」を神聖化することに対して、警鐘を鳴らすのです。ただ、だからといって、「偶像」と思えるものを全部廃棄してしまうのは、やりすぎのようにも思いますが。
12月 2詩編13619
 ただひとり 驚くべき大きな御業を行う方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
(詩編136編4節)
「主の慈しみは永遠」:賛歌です。1節にある「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」という言葉は、礼拝定式でした。イスラエルの人たちはことあるごとに、この詩編を唱えていたと思われます。
「神の中の神」、「主の中の主」という言葉があります。キリスト教(ユダヤ教)は一神教だと言われます。しかし聖書を読んでいると、「異教の神々」という言い方も見られます。わたしたちにとってはただ一人のお方、という意味で捉えるべきなのでしょう。
そして9節まで、「創造主」である神さまに対する感謝が続きます。自然の中に身を置いたときに、その見事さに圧倒されることがあります。そのときにこそ、神さまのみ業を思い起こしたいものです。
12月 3詩編1361016
 イスラエルの民に荒れ野を行かせた方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
(詩編136編16節)
10〜16節には。出エジプトの出来事が書かれます。この詩編は共同体や家庭の中で、幾度となく唱えられてきました。その中で神さまがイスラエルの人々を救い出した出来事を、繰り返し想起していたのでしょう。
昨日の1節には、「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」という言葉がありました。その箇所や118編1節を用いて、聖歌567番ができました。「歌え主に感謝 恵み深い主に 歌え主に感謝 アレルヤ」という、テゼ共同体で用いられている歌です。
わたしたちは聖餐式の中で、「感謝と賛美はわたしたちの務めです」と唱えます。ふとしたときに、この聖歌の言葉が鼻歌で出てくるようになればいいですね。ちなみにアレルヤとは、ハレルヤ(ヘブライ語)のラテン語での言い方です。
12月 4詩編1361726
 低くされたわたしたちを 御心に留めた方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
(詩編136編23節)
詩編136編には1節から26節まで、「慈しみはとこしえに」という繰り返しがあります。「慈しみ」という言葉を聞くと、「いつくしみ深き 友なるイェスは」(聖歌482番)を思い出す人も多いでしょう。
この詩の作者スクライヴェンは、結婚を約束した女性が亡くなってしまうという悲劇を二度も経験しました。しかしその失意の中、離れて暮らす母親に、「イェス様は友としてあなたを慈しんでくださる」と手紙を書いたのです。
その詩が、世界中で愛される賛美歌の一つとなりました。自分たちが低くされ、弱くされたときにこそ、神さまはわたしたちをみ心に留めてくださいます。その慈しみにわたしたちも気づかされ、感謝していきましょう。
12月 5詩編137
 わたしの舌は上顎にはり付くがよい もしも、あなたを思わぬときがあるなら もしも、エルサレムを わたしの最大の喜びとしないなら。
(詩編137編6節)
「バビロンでのシオンの思い出」:共同体の嘆きの歌です。紀元前597年に始まったいわゆる「バビロン捕囚」は、イスラエルの人たちにとって屈辱的な出来事でした。心の拠り所だったエルサレム神殿も破壊されました。
そして異邦人が住むバビロニアに連れていかれ、そこに住まわされました。この詩はバビロニアから帰還したものの、再建されないエルサレムを嘆き、歌ったものです。特定の時と場所、出来事に言及した詩編は、他にはあまり見られないものです。
作者はバビロニアで受けた、「歌って聞かせよ、シオンの歌を」という嘲りを忘れることができませんでした。彼らにとって神殿での歌は、神さまにささげる大切なものでした。だからこそ、それをあざ笑う人々を許すことができなかったようです。
12月 6詩編138
 わたしが苦難の中を歩いているときにも 敵の怒りに遭っているときにも わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。
(詩編138編7節)
「心からの感謝」:個人の感謝の歌です。この詩編は、大きな悩みから救われたことに対する感謝が歌われています。旧約聖書のレビ記では、神さまに感謝を伝えるときには犠牲をささげるように定められていました。
しかしここで作者は、「心を尽くして感謝し、神の御前でほめ歌をうたいます」と賛美をするのです。わたしたちは礼拝で賛美をささげますが、その根拠がここにあると言えるでしょう。
そして7〜8節では、神さまの「み手」の働きを求めます。聖歌325番に「み手の中で すべては変わる賛美に わがゆく道を導きたまえ あなたのみ手の中で」という歌があります。神さまの温かいみ手に包まれて、感謝の賛美をささげましょう。
12月 7詩編13916
 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに 主よ、あなたはすべてを知っておられる。
(詩編139編4節)
「常に人と共におられる主」:救いを求める個人的嘆願です。わたしたちは生きている中で神さまを捜し求め、神さまに出会い、神さまを受け入れます。そしてそれらのことは、自分の力でやれていると思いがちです。
しかしこの139編では、神さまの方がまず人間を捜し求めておられるのだと言います。そして人の考えることやおこなうことを、神さまは何でもご存じであると言うのです。さらに座る、立つ、歩く、伏すということすらも知っていると書きます。
聖歌350番に「すみわたる大空に 星影はひかり」という歌があります。神さまが創造されたものを大切にされていることを賛美する歌です。3節後半のこの歌詞を心に留めましょう。「数知れぬ世の子らを 神さまはみな愛し ひとりずつ目をとめて 守られるいつも」。
12月 8詩編139712
 闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち 闇も、光も、変わるところがない。
(詩編139編12節)
作者は続けて、どこにいても神さまが共におられると書きます。7節を読むと、どうしても神さまから逃げることのできないというネガティブな表現にも見えます。しかし後半にいくにつれ、神さまがいつも自分をとらえてくださるという喜びがあふれていきます。
聖歌487番は、希望の歌です。「重荷背負う人に 安らぎ与える主よ あなたは闇に光を放ち その荷を共に担われる」。この歌詞にあるように、わたしたちが闇にうずくまっているときにも光を与え、導いてくださるのです。
今、教会は降臨節です。紫の祭色の下、お花も飾られない礼拝堂には、どこか寂しさを感じます。しかしわたしたちは知っています。夜は必ず明けて朝が来ることを。闇には光が与えられることを。神さまはそのように、わたしたちを守ってくださいます。
12月 9詩編1391318
 胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている まだその一日も造られないうちから。
(詩編139編16節)
作者はさらに、自分が存在し始めた時点から神さまが共にいたと書きます。お母さんのお腹の中にいたときから神さまが関わっておられたと考えると、何だが不思議な思いを持ってしまいます。
16節に「わたしの日々はあなたの書にすべて記されている」とありますが、一体どのようなことが書かれているのでしょう。誇らしく「どうぞご覧ください!」と言えるページは少ないのではないでしょうか。
神さまは、わたしたちのすべてをご存じです。欠けた所や醜い部分も、全部わかっておられます。それにもかかわらず、わたしたちに関わり続けてくださる。そこに作者は恐れと驚きを感じずにはおられなかったのです。
12月 10詩編1391924
 神よ、わたしを究め わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。
(詩編139編23節)
この詩編139編では、神さまがいつも共にいてくださることを語り続けていました。しかし今日の箇所になって突然、逆らう者や憎む物に対する激しい感情をぶつけます。「逆らう者を打ち滅ぼしてください」と語るのです。
この言葉に違和感を覚えるかもしれませんが、作者がここで本当に願っているのは23〜24節に書かれていることです。すなわち悪に対して、自分も同じように過ちを犯していないかということです。
わたしたちは自分に敵対する(あるいは意見が異なる)相手を見つけたときに、ときに攻撃的になります。その姿を、いつも共におられる神さまはどう見ておられるのか。そのことを少し、想像してみてはいかがでしょうか。

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