
| 11月 11日「詩編119:161〜168」 | ||||
| 日に七たび、わたしはあなたを賛美します あなたの正しい裁きのゆえに。 (詩編119編164節) |
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| 長かった詩編119編も、いよいよあと二日になりました。繰り返しになりますが、この詩編は教育的な目的でつくられています。アルファベットが頭文字となる8節からなる文が、22個あるわけです。 | ||||
| 人々はそれらを教訓として学びます。そして何度も繰り返し唱えていくのです。164節に「日に七たび、わたしはあなたを賛美します」とあります。「七たび」というのは、何回もという意味です。 | ||||
| これらの教えを何度も何度も繰り返しながら、神さまの愛に気づかされる。そしていつの間にか、それらの言葉が神さまへの賛美に変わっていくのです。聖書は神さまからのラブレター、そして詩編は神さまへの応答なのです。 | ||||
| 11月 12日「詩編119:169〜176」 | ||||
| わたしが小羊のように失われ、迷うとき どうかあなたの僕を探してください。あなたの戒めをわたしは決して忘れません。 (詩編119編176節) |
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| 119編も今日で終わりです。わたしたちはこの詩編を通して、神さまからの戒めを学び、神さまがどのようにわたしたちに関わって下さっているかを知ることができました。しかし「喉元過ぎれば」の言葉通り、わたしたちはすぐに大切なことを忘れてしまいます。 | ||||
| ルカによる福音書15章3〜7節に、「見失った羊のたとえ」が書かれています。群れからはぐれる羊というのは、弱いことが多いです。そのため羊飼いは、その羊を見捨てることがほとんどでした。 | ||||
| しかし神さまは、ちっぽけで弱々しい一匹の羊に目を留め、捜し回ってくださいます。わたしたちがたとえ神さまから離れてしまったとしても、神さまは必ずわたしたちを見出してくださるのです。 | ||||
| 11月 13日「詩編120編」 | ||||
| 主はお前に何を与え お前に何を加えられるであろうか 欺いて語る舌よ (詩編120編3節) |
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| 「平和の敵」:巡礼者の歌です。長かった119編の後には、短い詩が続きます。ここから134編までには、【都に上る歌。】という表題がつけられています。エルサレムに巡礼をする人たちが、その道中で歌った歌です。 | ||||
| 1〜2節には、祈りが答えられたという報告があります。これが巡礼者を祈りへと駆り立てた要因です。主に頼ることで様々な苦難を乗り越えることができた、その感謝を神さまにおささげするのです。 | ||||
| 7節には「平和こそ、わたしは語るのに 彼らはただ、戦いを語る」とあります。134編までの共通のテーマは、「わたしは平和を願う」ということです。今日からしばらくの間、神さまの願う平和について考えてみましょう。 | ||||
| 11月 14日「詩編121編」 | ||||
| わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。 (詩編121編2節) |
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| 「主は巡礼者を守られる」:巡礼者の歌です。この詩編121編をもとにして作られた聖歌があります。聖歌444番です。「山辺に向かいて われ目を上ぐ 助けは いずかたより来たるか 天地の み神より 助けぞ われに来たる」。 | ||||
| この詩は、神さまが人生を支えてくださっていることに感謝をささげるものです。聖歌の2節では神さまはわたしたちの足を強くすること、3節では神さまはわたしたちの盾となってくださることを歌います。 | ||||
| そして4節はこのような歌詞です。「み神は 災いをも避けしめ 疲れし魂をも休ます 出るおり入るおりも たえせずなれを守らん」。いつまでもわたしたちを守り、天に召されたのちも守って下さる。とてもうれしいことです。 | ||||
| 11月 15日「詩編122編」 | ||||
| わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」 (詩編122編8節) |
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| 「巡礼者のエルサレムへの挨拶」:巡礼者の歌です。「シャローム」という言葉があります。これはヘブライ語で、「平和」をあらわす言葉です。ユダヤの人たちは挨拶として、「シャローム」という言葉を用います。 | ||||
| シャロームがサレムと変化し、さらに神さまを表す「エル」が付けられた場所、それがエルサレムです。「神の平和」という意味になるのでしょう。作者は「エルサレムの平和を求めよう」と書きます。 | ||||
| このエルサレムは今のエルサレムではなく、天のエルサレム、新しいエルサレムです。神さまの望まれることは、すべての人に平安が与えられることです。その思いを心に留めながら、「主の平和」と挨拶をしたいものです。 | ||||
| 11月 16日「詩編123編」 | ||||
| 平然と生きる者らの嘲笑に 傲然と生きる者らの侮りに わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。 (詩編123編4節) |
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| 「さげすまれた民の祈り」:巡礼者の歌であり、救いを求める個人の祈りです。この詩は巡礼者が直接、神さまに語りかけています。1〜2節では自分の信仰を表明して、憐れみを与えてくれるように願います。 | ||||
| 聖書の「憐れみ」という言葉は、わたしたちが思う「かわいそうに」とか「気の毒に」という感情よりも深いものです。「はらわたが震える、締め付けられる」というニュアンスでしょうか。 | ||||
| イエス様はその活動の中で、何度も「深く憐れんだ」と報告されます。ただかわいそうに思うだけではなく、一緒に苦しみ、涙を流される。そのような感情が、聖書の「憐れみ」です。神さまはわたしたちを、いつも憐れんでくださるのです。 | ||||
| 11月 17日「詩編124編」 | ||||
| わたしたちの助けは 天地を造られた主の御名にある。 (詩編124編8節) |
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| 「イスラエルの救いである主」:巡礼者の歌です。1、2節に「主がわたしたちの味方でなかったなら」という言葉が繰り返されています。作者はエルサレムに向かう中で、神さまの助けを思い起こしているようです。 | ||||
| わたしたちは祈りのときにたくさんのことを願うものの、「こういうことをしてくださってありがとうございました」という感謝を忘れてしまうことがあります。もし子どもから次々に願いを要求されるものの、「ありがとう」の一言がなかったらどうでしょうか。 | ||||
| わたしたちはその歩みの中で、何度も神さまのみ手に支えられ、また神さまの言葉に励まされ、そして神さまに起き上がらされてきたのではないでしょうか。そのことを思い返しながら、新たな歩みを進めることが大事なのです。 | ||||
| 11月 18日「詩編125編」 | ||||
| よこしまな自分の道にそれて行く者を 主よ、悪を行う者と共に追い払ってください。イスラエルの上に平和がありますように。 (詩編125編5節) |
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| 「主への不動の信頼」:巡礼者の歌です。詩の中に「シオンの山」が出てきます。「シオン」とは旧約聖書のエルサレムの別名であり、「神が住まわれる主の山」とも呼ばれます。そしてやがて来る、新しい神の都の象徴としての意味も持ちます。 | ||||
| 奈良基督教会には、「シオンホール」という集会が出来る建物があります。教会の宣教100周年のときに建てられたもので、教会だけではなく幼稚園でも使用しています。この「シオン」には、心と思いを一つにし,義のうちにともにとどまる主の民のことも指します。 | ||||
| 神さまへの信頼をしっかりと置いて、神さまのみ心に聞きながらともに集う。そのような思いで「シオンホール」という名は付けられたのではないでしょうか。その思いを汲み、わたしたちも「シオン」で神さまを賛美しましょう。 | ||||
| 11月 19日「詩編126編」 | ||||
| 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 束ねた穂を背負い 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。 (詩編126編6節) |
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| 「涙は喜びに変わる」:巡礼者の歌です。ルカによる福音書6章21節に、このような言葉があります。「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」。イエス様が語られた言葉です。 | ||||
| わたしたちは作物の種を蒔くとき、期待に胸をふくらませます。しかし当時の人は、自分たちの食べる分から一部を取って、未来への希望として蒔いていました。そこには不安と悲しみがあったことでしょう。 | ||||
| しかし作物が豊かに育ち、収穫することができたときに、人々は喜びの歌を歌うのです。悲しみは必ず喜びに変えられる。まもなくアドベントを迎える今だからこそ、心に留めておきたい言葉です。 | ||||
| 11月 20日「詩編127編」 | ||||
| いかに幸いなことか 矢筒をこの矢で満たす人は。町の門で敵と論争するときも 恥をこうむることはない。 (詩編127編5節) |
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| 「主の祝福がなければ」:巡礼者の歌です。「はしごを外される」という言葉があります。その意味は、仲間や味方から裏切られ孤立してしまうということ。 一緒に何かに取り組んでいたのに、急に手を引かれて仲間から取り残されるというような状態を表します。 | ||||
| 神さまのみ心と思って何かをしていたのに、そうでないことは多くあります。また神さまが共にいてくれていると信じていたのに、いつのまにか孤独を感じてしまうことだってあります。 | ||||
| そのときには、「主御自身が建ててくださるのでなければ 家を建てる人の労苦はむなしい。(1節)」と書かれた言葉を思い出しましょう。神さまはどこにいるのか、何を求めておられるのか、いつも祈りの中で尋ね求めていきたいものです。 |