
| 11月 1日「詩編119:81〜88」 | ||||
| わたしの魂は あなたの救いを求めて絶え入りそうです。あなたの御言葉を待ち望みます。 (詩編119編81節) |
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| 今日読まれた8節の中には、「御言葉(81節)」、「仰せ(82節)」、「掟(83節)」、「律法(85節)」、「戒め(86節)」、「命令(87節)」、「定め(88節)」とそれぞれ違った言葉で神さまから与えられるものが書かれています。 | ||||
| 「御言葉」以外のこれらの言葉をみると、どちらかというとわたしたちを縛るようなイメージがあります。上から「こうしなさい」と言われたり、「こうすることが正しいのだ」と枠に入れられたりする感じでしょうか。 | ||||
| ではイエス様のみ言葉はどうでしょう。実はその中にも、「こうするべき」という言葉は多いのです。しかしイエス様は愛をもって接して下さることをわたしたちは知っているので、耳に心地よいものとなるのかもしれません。そのみ言葉を待ち望みましょう。 | ||||
| 11月 2日「詩編119:89〜96」 | ||||
| あなたへの信仰は代々に続き あなたが固く立てられた地は堪えます。 (詩編119編90節) |
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| キリスト教は家族宗教でしょうか。あるいは個人的なものでしょうか。カトリックや聖公会では、「先祖代々」とか「〜代目クリスチャン」といった言葉を聞くことがあります。それに対してプロテスタント教会では、個人の信仰を大切にする傾向があるようです。 | ||||
| ユダヤ教はもともと、民族の宗教でした。また日本聖公会は英国国教会の流れを汲みますが、もともとはその名の通り国の宗教でした。また日本に宣教師が入って来たときには、村ごと宗教を変えるという例も多かったようです。 | ||||
| 「信仰の伝承」ということを、わたしたちも大切にすべきではないでしょうか。お墓が云々ということではなく、本当に「良い」ものを子どもたちに伝えていく。信仰を代々に続かせていくことがわたしたちには求められているのかもしれません。 | ||||
| 11月 3日「詩編119:97〜104」 | ||||
| わたしはあなたの律法を どれほど愛していることでしょう。わたしは絶え間なくそれに心を砕いています。 (詩編119編97節) |
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| 「律法を愛している」と作者は書きます。イメージで言うと、毎日六法全書を隅から隅まで読み、暗記し、実践しているという感じでしょうか。以前、「聖書男」という本が話題になったことがあります。 | ||||
| 聖書が書いてあることをそのまま実行していったらどうなるのか、著者が一年間実践していく日記のような本です。十戒のような有名な戒律だけでなく、「罪人には石を投げよ」、「月の初めには角笛を吹きなさい」ということを文字通りにおこなっていくのです。 | ||||
| 作者はその中で実行不可能な「律法」に苦しみながらも、神聖な部分に触れていきます。神さまから頂いた掟は自分たちを縛り付けるのではなく、生きる道を与えるものです。そのことを感じ、わたしたちは「聖書」を愛していきましょう。 | ||||
| 11月 4日「詩編119:105〜112」 | ||||
| あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。 (詩編119編105節) |
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| この詩編119編105〜112節は、昼の祈り(祈祷書81頁)で用いられる詩編です。み言葉であるイエス様に照らされているから、わたしたちは歩むことが出来るということを感謝するのです。 | ||||
| 聖歌475番にこのような歌詞があります。「光の子どもらしく 主を慕い歩む 全地を照らす光 主イェスこそわが星 暗闇は過ぎ去り 夜も昼も輝く み座より来たる小羊は わが光イェス」。 | ||||
| 「暗闇は」以降が全節の繰り返し部分ですが、イエス様が来られることでわたしたちに光が与えられるという「希望」を歌っています。神さまはわたしたちを裁くのではなく、良い方向に導くためにイエス様を遣わされたのです。 | ||||
| 11月 5日「詩編119:113〜120」 | ||||
| 心の分かれている者をわたしは憎みます。あなたの律法を愛します。 (詩編119編113節) |
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| 二心(ふたごころ)という言葉をご存じでしょうか。辞書で調べると、「@味方や主君にそむく心。裏切りの心。Aふたりの人に同時に思いを寄せること。浮気心。」と書いてありました。 | ||||
| 今日の箇所にある「心の分かれている者」とは、二心を持つ人なのかもしれません。神さまは十戒の中で、「わたしのほかに神があってはならない」と定められました。そしてご自分のことを、「妬む神」だと語られました。 | ||||
| 日本に住んでいると、一神教の考え方が排他的に映ることもあります。しかし大切なものは何なのか、それをしっかり考えているのか、問われているようにも思います。あなたにとってイエス様は、そのようなお方でしょうか。 | ||||
| 11月 6日「詩編119:121〜128」 | ||||
| それゆえ、金にまさり純金にまさって わたしはあなたの戒めを愛します。 (詩編119編127節) |
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| 「金言(きんげん)」という言葉があります。処世上の手本とすべき内容を持つすぐれた言葉という意味です。これが仏教用語になると、読み方が「こんげん」となり、仏の口から出た、不滅の真理を表す言葉になるそうです。 | ||||
| わたしたちは聖書の言葉を、どのように捉えているでしょうか。みなさんの中には愛唱聖句があり、ことあるごとにそれを唱えているという方もおられることでしょう。ちなみにわたしの愛唱聖句は、「求めよ、さらば与えられん(マタイ7:7)」です。 | ||||
| その言葉が、金よりも、どんな純金よりも素晴らしいものになればと思います。目に見えるものではなく目に見えないものに支えられて歩んで行く、そのようなわたしたちでありますように。 | ||||
| 11月 7日「詩編119:129〜136」 | ||||
| 御言葉が開かれると光が射し出で 無知な者にも理解を与えます。 (詩編119編130節) |
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| 「恐れにとらわれ さまよう闇路に(聖歌477番)」という歌をご存じでしょうか。作詞者は宮崎光さん、作曲者は鳥井仁呈となっています。この鳥井仁呈というのはペンネームで、宮崎尚志さん、光さん、道さんという親子三人のことです。 | ||||
| 鳥井仁呈(とりいにてい)は三位一体という意味のある「トリニティ」をもじってつけられたそうですが、この聖歌477番の3節は今日の箇所である詩編119編129〜136節をベースに作られました。 | ||||
| 「心は開かれ み言葉かがやく 黒雲過ぎ去り 日だまりに向かう 旅路をふみだす あなたを見つめ 神よ光を 生きる希望を」。わたしたち一人ひとりに希望が与えられますように、祈り続けていきましょう。 | ||||
| 11月 8日「詩編119:137〜144」 | ||||
| わたしの熱情はわたしを滅ぼすほどです 敵があなたの御言葉を忘れ去ったからです。 (詩編119編139節) |
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| ヨハネによる福音書2章には、イエス様が神殿から商人を追い出した記事が載せられています。マタイ・マルコ・ルカ福音書ではそれぞれ物語の後半、イエス様のエルサレム入城の後にこの出来事があるのですが、ヨハネ福音書では物語の序盤に書かれています。 | ||||
| イエス様はそのとき、「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」と叫びます。それを聞いて弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出したそうです。 | ||||
| 正しいことをしているつもりでも、いつの間にかみ言葉(神さまの思い)から離れてしまうことがあります。そのようなときに“熱く”わたしたちを引き戻してくださる方がおられます。それがイエス様なのです。 | ||||
| 11月 9日「詩編119:145〜152」 | ||||
| あなたの定めを見てわたしは悟ります。それがいにしえからのものであり あなたによってとこしえに立てられたのだ、と。 (詩編119編152節) |
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| 聖公会の教会では、祭色ごとに替えられるチャリスベールや司祭のストールなどに刺繍を施すことが多いです。そしてその中に、「α(アルファ)」と「Ω(オメガ)」がデザインされていることもあります。 | ||||
| ヨハネの黙示録22章13節には、「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」というイエス様の言葉があります。まさに「いにしえからとこしえまで」です。 | ||||
| イエス様は決して2000年前の人たちだけに関わった方ではありません。わたしたちが生きる現代も、そしてわたしたちの子どもや孫たちが生きるときにも、いつも関わって下さいます。わたしたちはその光を求め続けるのです。 | ||||
| 11月 10日「詩編119:153〜160」 | ||||
| 御言葉の頭はまことです。あなたはとこしえに正しく裁かれます。 (詩編119編160節) |
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| 今日の箇所の154節に、このような言葉があります。「わたしに代わって争い、わたしを贖い 仰せによって命を得させてください」。しかし「わたしに代わって」ではなく、「神さまに代わってわたしが争い」となっている場合も多いようです。 | ||||
| 政治的な問題について、一方的な視点から「これが正義で、あれは悪だ」と論じる方がいます。その考え方に同調している人は気持ちいいかもしれませんが、否定をされて傷ついている方にも目を向けないといけないのではないでしょうか。 | ||||
| 「正しい人は一人もいない」からこそ、すべての裁きは神さまにお任せすべきなのです。「正義」は神さまが決めることであって、わたしたちがこうだと決めつけることはできないのです。 |