10月 21日「詩編118:19〜29」 | ||||
主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで 祭りのいけにえを綱でひいて行け。 (詩編118編27節) |
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聖歌391番の1節は、このような歌詞です。「いともとうとき 主はあもりて 血の値もて 民を救い 聖き住まいを 造りたてて そのいしずえと なりたまいき」。とても静かな、心に残る曲です。 | ||||
22〜23節にある「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業わたしたちの目には驚くべきこと」という言葉は、ペトロの手紙一2章4節でも引用されています。詩編では、他から捨てられたイスラエルが世界の中心となるという意味です。 | ||||
しかし神さまは、イエス様をわたしたちのための隅の親石として遣わされます。人々から見棄てられ、十字架につけられたイエス様は、その血によってわたしたちのための住まいを建てられたのです。そのことを喜び、ハレルヤ!と賛美しましょう。 | ||||
10月 22日「詩編119:1〜8」 | ||||
いかに幸いなことでしょう 主の定めを守り 心を尽くしてそれを尋ね求める人は。 (詩編119編2節) |
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「神の教えは命の源」:教育的な詩編です。この詩はヘブライ語のアルファベット22文字の頭文字からスタートした8節ごとに区切られます。全部で176編あるこの詩は、詩編の中で最も長いものです。 | ||||
この詩を通して主に従って歩んで行くことを、学んでいくのです。「主に従い行くは いかに喜ばしき 心の空晴れて 光は照るよ み跡を踏みつつ 共に進まん み跡を踏みつつ 歌いて進まん」という聖歌があります。 | ||||
「従う」というと、わたしたちはあまり良いイメージを抱きません。渋々ついていくという印象を持つ人もおられるでしょう。先ほどの聖歌は457番ですが、身体が飛び跳ねるようなメロディーです。そのような気持ちで、神さまについていきたいものです。 | ||||
10月 23日「詩編119:9〜16」 | ||||
どのようにして、若者は 歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。 (詩編119編9節) |
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「教会に来る若者が少なくなった」とよく聞きます。実際にはおられるのですが、いわゆる団塊の世代の方々が若かったころに比べると、確かに若者の比率は随分減ったように思います。心は若いという方は多いですが。 | ||||
若い世代に、どうやって信仰を伝えていったらよいか、これは永遠の課題のようです。聖書が書かれた時にもすでに、若者に対してどう伝えるべきかが議論されていました。例えば過越の出来事を、家長は毎年子どもたちに伝えなさいなど。 | ||||
昔のように娯楽が少なく、西洋の宗教や語学・音楽が珍しかった時代と違い、今は教会に魅力がないとあきらめてはいないでしょうか。神さまがわたしたちにどう関わってくださるのか、正面から伝えるのも必要なことだと思います。 | ||||
10月 24日「詩編119:17〜24」 | ||||
この地では宿り人にすぎないわたしに あなたの戒めを隠さないでください。 (詩編119編19節) |
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「この地では宿り人にすぎない」と作者は書きます。神さまから見たら、わたしたちの人生はまさに「つかの間」です。またわたしたちは神さまから見たら、本当にちっぽけな存在です。 | ||||
しかしそんなわたしたちに、神さまは目を留めてくださるのです。本当であれば罪深いわたしたちには、滅びの道しかなかったのかもしれません。しかし神さまはわたしたちにみ言葉を与えてくださるのです。 | ||||
聖書のみ言葉は、愛であふれています。ときには厳しく感じる言葉も出てきますが、根底に流れる愛を感じながら読んでいきましょう。そして「あなたの定めはわたしの楽しみです」と心から感謝できるようになれば、本当にうれしいですね。 | ||||
10月 25日「詩編119:25〜32」 | ||||
わたしの魂は塵に着いています。御言葉によって、命を得させてください。 (詩編119編25節) |
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ヘブライ語の4番目の文字は「ダレト」です。英語のDに近いのでしょうか。この詩の冒頭に書かれているのは、「わたしの魂は塵に着いています」という言葉です。塵という言葉を聞いて思い出すのは何でしょうか。 | ||||
日本語のことわざに、「塵も積もれば山となる」というものがあります。小さなものでも大事にしておけば、山のように大きくなるということでしょう。しかし聖書では、塵はあまり良い意味で用いられません。 | ||||
「わたしたちは塵芥(ちりあくた)に過ぎない」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。本来、わたしたちには何の価値もないという意味です。しかしそんなわたしたちに目を向け、歩ませて下さる方を、わたしたちは知っているのです。 | ||||
10月 26日「詩編119:33〜40」 | ||||
御覧ください わたしはあなたの命令を望み続けています。恵みの御業によって 命を得させてください。 (詩編119編40節) |
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ここに出てくる8つの節には、すべて「〜してください」という願いが込められています。ここでの神さまとの関係は、教師と生徒という形のようです。生徒は先生に、道を示し、教えを理解させてくださいと願います。 | ||||
ユダヤ教の指導者を「ラビ」と呼びます。彼らは人々に、正しい道を教えていました。彼らはいつも、過去の人が言ったことを踏襲していきました。例えば「ラビ○○はこう言った」という言葉を語ることによって、その内容に権威を与えていました。 | ||||
それに対してイエス様は、「わたしはあなたがたにこう言う」と、ご自分の権威で語られました。わたしたちは誰を教師として、誰から学ぶべきでしょうか。誰が示す道を、歩んで行くべきでしょうか。 | ||||
10月 27日「詩編119:41〜48」 | ||||
わたしはあなたの戒めを愛し それに向かって手を高く上げます。わたしはあなたの掟を歌います。 (詩編119編48節) |
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「戒め」という言葉を辞書で引いてみました。「前もって注意すること。また、その言葉。訓戒」と書かれていました。注意をされることが好きな人はいるでしょうか。大抵嫌いなのではないでしょうか。 | ||||
7ところが作者は、「わたしはあなたの戒めを愛し」と二度繰り返します。この言葉を聞いたときに、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」というイエス様の言葉が心に響きました。/td> | ||||
神さまはわたしたちを縛るために、戒めを与えられたわけではありません。わたしたちが自由に、自分らしく生きていくことができるために、戒めを与えられたのです。そのことを改めて心に留めましょう。 | ||||
10月 28日「詩編119:49〜56」 | ||||
傲慢な者はわたしを甚だしく見下しますが わたしはあなたの律法から離れません。 (詩編119編51節) |
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チャールズ・ウェスレーという人物をご存じでしょうか。彼はイングランド国教会における信仰覚醒運動であるメソジスト運動の指導者でした。また数千曲に及ぶ賛美歌の作詞家としても知られています。 | ||||
彼が手掛けた曲には、信仰をテーマにしたものが多くあります。その一つが聖歌集449番です。「われは堅く 胸にきざむ 守るべきつとめ 身に負えるを」という言葉の中には、「堅固な信仰」というイメージがあります。 | ||||
そして4節では、このように歌います。「絶えず祈り ただ主にのみ 寄り頼むことを 得させたまえ」。この歌は、詩編119編54〜56編を引用したと考えられています。神さまから離れずに歩むこと、その信仰を持ちたいものです。 | ||||
10月 29日「詩編119:57〜64」 | ||||
御顔が和らぐのを心を尽くして願い求めます。仰せのとおり、わたしを憐れんでください。 (詩編119編58節) |
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作者はここで、「御顔が和らぐのを心を尽くして願い求めます」と書きます。この当時、神さまの顔を見ると死んでしまうと考えられていました。神さまは、とても恐ろしい存在だったということです。 | ||||
わたしが子どもの頃、親から神さまは怖いんだよと教えられていたように思います。家には仏壇と神棚が置かれ、神さまの怒りが自分たちに及ばないように、きちんと「おつとめ」をしていました。 | ||||
しかし神さまが愛のお方だと知ったときに、わたしの思い描く神さまの表情は、いつも柔らかいものになっていきました。神さまはわたしたちを裁くのではなく、愛されます。イエス様も一緒です。そのことをいつも心に覚えましょう。 | ||||
10月 30日「詩編119:65〜72」 | ||||
彼らの心は脂肪に閉ざされています。わたしはあなたの律法を楽しみとします。 (詩編119編70節) |
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わたしたちは牛肉を食べるときに、「霜降りが美味しいわぁ」と言います。アメリカなどでは逆で、赤身の堅い肉が好まれるようです。ところで聖書の中では、脂肪は口にしてはいけないとされていました。 | ||||
たとえば献げ物の規定が多く書かれているレビ記4章19節にはこうあります。「脂肪はすべて切り取って、祭壇で燃やして煙にする」と。脂肪は体の中で余分なものなので、神さまに献げなさいということでしょうか。 | ||||
「彼らの心は脂肪に閉ざされています(70節)」とありますが、その脂肪とは、わたしたちの心にある悪い部分のようにも思えます。プライドや虚栄心が心を閉ざすこともあると思います。それを神さまに献げ、燃やしてもらうのです。 | ||||
10月 31日「詩編119:73〜80」 | ||||
あなたを畏れる人、あなたの定めを知る人が わたしのもとに立ち帰りますように。 (詩編119編79節) |
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ようやく10番目の文字、「ヨド」に入りました。この詩編119編は最初に書いた通り、教育的な目的で書かれたものです。ヘブライ語の22文字をそれぞれ頭文字とする単語を最初に用い、読んでいるうちにアルファベットを覚える仕組みになっています。 | ||||
また内容も、教育的だと言えるでしょう。77節の「御憐れみがわたしに届き 命を得させてくださいますように。あなたの律法はわたしの楽しみです」という言葉を、生徒は何度も繰り返したのでしょう。 | ||||
教会にも、年間聖句というものがあります。また幼稚園などでは、今月の聖書の言葉を暗唱します。そのようにみ言葉に触れ、何度も唱えることで自分の心に刻み込む。そしてその中から「愛唱聖句」を作っていきましょう。 |