本文へスキップ


日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2025年10月11日〜20日

10月 11「詩編114
 山々よ、雄羊のように 丘よ、群れの羊のように踊るとは。
(詩編114編6節)
「エジプト脱出の時の主の業」:ハレル詩編の第2のものになります。この詩編はイスラエルの定礎詩編と呼ばれ、神さまがどのようにしてイスラエルにとって聖なる方となられたのかが語られます。
1〜2節ではイスラエルがエジプトを出て、ユダが聖所(神の聖なるもの)となった様子が書かれます。そのことによって、海や山々、丘が震撼する様子も伝えられます。その描写は「雄羊のように、群れの羊のように踊る」と描かれます。
羊が躍る場面をあまり見たことはありません。聖書では人間と神さまの関係を、羊と羊飼いの関係にたとえることがあります。神さまがイスラエルの民に希望を与えられたので、民は大いに喜び踊った。そういうことを言っているのでしょうか。
10月 12詩編11518
 国々の偶像は金銀にすぎず 人間の手が造ったもの。
(詩編115編4節)
「まことの神、主に対する信頼と賛美」:異教の神々を信仰する人々に取り囲まれた会衆のための詩です。旧約聖書では「偶像」を忌み嫌います。十戒の中にも、「あなたは自分のために、偶像を造ってはならない」という戒めがあります。
4〜8節では、偶像は所詮人間の造ったものであるから、何もできない。だから神さまにのみ寄り頼みなさいと命じます。そうではなくあなたがたの神に願い、嘆き、そして信頼しなさいと促すのです。
聖歌557番は頌栄としてよく用いられます。「父 み子 聖霊 ひとつの神 ときわにたえせず み栄えあれ み栄えあれ アーメン」。わたしが学生の時は「父み子みたまのおおみかみに〜」でしたが、神さまを賛美し、神さまに信頼を置くことが大切なのです。
10月 13詩編115913
 主を畏れる人よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。
(詩編115編11節)
9節から11節で、作者は「主は助け、主は盾」と三回繰り返します。この詩編は異教徒に囲まれた状況の中で読まれていました。その人たちの悪いおこないや偶像崇拝などが自分たちの中に入り込まないように、神さま、盾になってくださいということでしょう。
ただこの考え方をそのまま引き継いでしまうと、神社の鳥居は決してくぐらない、仏壇なんてとんでもない、ひな人形なんて燃やしてしまえ!という過激な思想にもつながりそうです。(実際、そういう方たちに会ったことがあります)。
周りにいる自分とは考え方の違う人たちを“悪”と決めつけずに、自分と同じように救いを求める“仲間”だと考えることができればと思います。自分自身の悪い心に身体が犯されていかないように、盾として守ってもらう。そして祝福を願うのです。
10月 14詩編1151418
 わたしたちこそ、主をたたえよう 今も、そしてとこしえに。ハレルヤ。
(詩編115編18節)
この詩編115編は、礼拝式文として用いられてきました。礼拝の中でわたしたちは、主をほめたたえます。この詩編でも18節で、「わたしたちこそ、主をたたえよう 今も、そしてとこしえに。ハレルヤ」と歌います。
日本聖公会聖歌集の中には、「頌栄」というカテゴリーがあります。頌栄とは、「神の栄光をほめたたえよ」という意味です。「栄光あれ」ということですが、ラテン語では「グローリア」という言葉になります。
聖歌560番を歌ったことはあるでしょうか。「グロリア グロリア グロリア 父とみ子に グロリア グロリア グロリア 聖なる霊に」という簡単なフレーズの繰り返しです。歌いながら神さまが下さったたくさんの恵みを思い起こす。そして栄光を主に帰すのです。
10月 15詩編11617
 哀れな人を守ってくださる主は 弱り果てたわたしを救ってくださる。
(詩編116編6節)
「救いの感謝」:個人的感謝の歌です。救いを求める祈りが聞かれたことに対して、感謝をささげます。1節に、いきなり「わたしは主を愛する」という言葉が出てきます。この詩は、神さまへの愛の告白からスタートするのです。
「主われを愛す」という歌は良く知られていますが、こちらから神さまを愛するということを歌った歌があるのをご存じでしょうか。聖歌集の533番にあります。この聖歌集にたくさんの歌が収められているジョン・ベルが作詞・作曲したものです。
「主を愛そうこころこめて 深い思いを見つめ 主に愛されて生かされる この命を尽くして 見つけようまことのやさしさを いつくしみあふれるイェスの中に 主を愛そうこころこめて 深い思いを見つめ」。歌詞を見ただけで、温かい気持ちになりませんか。
10月 16詩編116814
 主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。
(詩編116編12節)
この詩編は、個人が「感謝の献げ物」をしたときに歌われたそうです。旧約聖書のレビ記を見てみると、どのようなときにどのような献げ物をするべきかが、細かく決められていました。
イエス様がお生まれになったときも、マリアとヨセフは神殿に行き、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げました。しかしわたしたちは、赤ちゃんが生まれても教会に鳩を持ってきたりはしません。そのようないけにえはもう必要ないのです。
ではわたしたちは、どのように神さまの恵みに応えるべきなのでしょうか。神さまに何を返すのでしょうか。奉献のときに「すべてのものは主の賜物、わたしたちは主から受けて主にささげたのです」と唱えるたびに、そのことを思います。
10月 17詩編1161519
 どうか主よ、わたしの縄目を解いてください。わたしはあなたの僕。わたしはあなたの僕、母もあなたに仕える者。
(詩編116編16節)
この詩編はもともと、個人的な感謝の歌でした。どのような個人的祈りが聞かれたのかは、ここには書かれていません。しかしだからこそ、わたしたちはこれらの言葉に共感をし、祈りの言葉に合わせて歌うことができるのかもしれません。
今日の詩編の言葉は、降臨節の聖歌の歌詞にも反映されています。降臨節とはクリスマスの前、イエス様のご降誕を待ち望む紫の期節です。カトリック教会では待降節と呼びます。暗闇の中、光がやって来るのを待ちわびるのです。
「あの人の祈りが聞かれたのだから、わたしの声も聞いてくださるに違いない」。人々はそこに希望を置きました。そしてこの詩編は共同体の喜びの歌となっていくのです。わたしたちも周りの人の「救いの体験」を聞きながら、感謝の歌を歌えたらと思います。
10月 18詩編117
 すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。
(詩編117編1節)
「世界よ、主をたたえよ」:ハレル詩編です。この詩編は2節しかなく、最も短いものとなっています。しかし日本聖公会聖歌集には、311番、478番、565番という3曲の歌詞の元になっています。
311番「あまつみ使いよ」の5節、「よろずの民らよ み前に伏し 栄のみ神を 主とあがめよ 主とあがめよ」、478番「聞けや愛の言葉を もろくに人らの 罪とがを除く 主のみ言葉を 主のみ言葉を やがて時は来たらん 神のみ光の あまねく世を照らす あしたは来たらん」。
どちらもとても元気になる曲です。そして565番はテゼ共同体で歌われる歌です。「すべての人よ 主をたたえよ」と何度も繰り返すこの歌は、わたしたちに神さまへの賛美を思い起こさせます。
10月 19詩編11819
 主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。
(詩編118編6節)
「感謝の行列の歌」:個人の感謝の歌です。当時ユダヤの人が神殿で感謝の献げ物をささげるとき、神殿の入り口から列を作って行進したそうです。その中で1〜4節の交互唱歌が用いられたのだと思われます。
聖公会の礼拝では、司式者と会衆が交互に唱える場面が多く見られます。たとえばお葬式に初めて出席された方は最初こそ戸惑うようですが、「何をしているのかがよく分かった」という感想をいただくことも多くあります。
そして後半では、神さまに頼ることと人に頼ることとを比較していきます。ここでは「人間」と書かれていますが、お金や名誉、プライドなどと置き換えてもいいでしょう。わたしは何に頼るのか、誰を避けどころとするのか、とても大切なことです。
10月 20詩編1181018
 蜂のようにわたしを包囲するが 茨が燃えるように彼らは燃え尽きる。主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。
(詩編118編12節)
10〜12節には、「主の御名によって」という言葉が繰り返されています。ただこの言葉が正しく使われていればいいのですが、そうではない場面もたびたび見受けられます。十字軍などもそうでしょう。
「主の御名によって」と言えば、自分が神さまになり代われると思ったら大間違いです。神さまのみ心を、わたしたち人間が完全に理解することなどできるのでしょうか。神さまの名前を使って人を裁くなど、もってのほかなのです。
わたしたちはただただ、神さまのみ救いを喜ぶ者でありたいと思います。「主こそまことの救い 永遠の喜び わが力わが歌 主のみを信じて 決して恐れない(聖歌570番)」と歌い続けましょう。

バナースペース

勤務地:日本聖公会 奈良基督教会
 教会HPはこちら

〒630-8213
奈良市登大路町45

TEL 0742-22-3818

牧師:司祭マタイ古本靖久
副牧師:司祭エレナ古本みさ