10月 1日「詩編109:1〜5」 | ||||
神に逆らう者の口が 欺いて語る口が、わたしに向かって開き 偽りを言う舌がわたしに語りかけます。 (詩編109編2節) |
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「敵に呪われた義人の祈り」:救いを求める祈りです。わたしたちは生きている中で、理解することができないようなひどい攻撃を受けることがあります。特にSNSが発達した現代においては、匿名で簡単に自分の意見を発信することができるようになりました。 | ||||
悪意があろうとなかろうと、時にそれらの言葉はわたしたちの心を突き刺します。そして今日の言葉にあるように、「愛しても敵意を返し わたしが祈りをささげても その善意に対して悪意を返します。愛しても、憎みます」となるのです。 | ||||
そのようなときに、わたしたちはどのような行動を起こすのでしょうか。この詩編の中で作者は、攻撃をしてくる人を呪ってしまいます。その行為は決して良いものではありません。しかしその状況を想像すると、その気持ちも分かる気がします。 | ||||
10月 2日「詩編109:6〜19」 | ||||
彼は呪うことを好んだのだから 呪いは彼自身に返るように。祝福することを望まなかったのだから 祝福は彼を遠ざかるように。 (詩編109編17節) |
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この詩編109編はすべての詩編の中で、最も非キリスト教的だと言われています。特に6〜19節の内容の大半を呪いが占めており、とても激しいものとなっています。「呪い」はキリスト教にふさわしくないということなのでしょう。 | ||||
というのもイエス様が「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。(マタイによる福音書5章39節)」と言われているからです。あなたは復讐をしてはいけない。すべて神さまに任せなさいと言われるのです。 | ||||
ただよく考えると、この詩編の作者も自分で手を下そうとはしていません。ただあまりにも具体的に、敵対者やその家族がひどい目に遭うことを願いすぎているから、わたしたちに違和感を与えるのかもしれません。 | ||||
10月 3日「詩編109:20〜25」 | ||||
主よ、わたしの神よ 御名のために、わたしに計らい 恵み深く、慈しみによって わたしを助けてください。 (詩編109編21節) |
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今日の箇所で作者は、「第二の願い」を神さまに対して祈ります。彼は自分を、「貧しく乏しい」と表現します。神さまの前に弱く小さい自分を知り、その上で救いのみ手を差し伸べて欲しいと願うのです。 | ||||
当時神さまの祝福は、目に見える形で与えられるものだと考えられていました。裕福で、健康で、家族にも恵まれた人を見て人々は、「神さまに祝福された人」だと思います。しかし逆に貧しく、乏しい人は、「神さまから罰を受けた人」と考えていました。 | ||||
詩編の作者は、「わたしは人間の恥」とまで言います。他人から見たらボロボロの状態である自分は、神さまの救いから一番離れた者なのかもしれません。しかしだからこそ、神さまの助けが必要なのです。 | ||||
10月 4日「詩編109:26〜31」 | ||||
彼らは呪いますが あなたは祝福してくださいます。彼らは反逆し、恥に落とされますが あなたの僕は喜び祝います。 (詩編109編28節) |
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26〜29節に、「第三の願い」が語られます。ここでも作者は、敵対者の不幸を願っています。この詩編109編は、すべての詩編の中で最も非キリスト教的だと言われていると前回書きました。 | ||||
敵対している人がひどい目に遭うと、「ざまあみろ」と思うでしょうか。それとも「ちょっとかわいそうだな」と思うでしょうか。旧約の時代には、ひどいことをした人が罰を受けるのは当たり前。だから「ざまあみろ」で済んでいました。 | ||||
しかしわたしたち自身も罪人であることを考えると、自分たちもいずれひどい目に遭うことになります。そうなると簡単に、人を呪ってばかりいられないようにも思います。「悲しむ人と共に泣く」ことができればいいですね。 | ||||
10月 5日「詩編110編」 | ||||
あなたの民は進んであなたを迎える 聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ 曙の胎から若さの露があなたに降るとき。 (詩編110編3節) |
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「王であり祭司であるメシア」:メシア詩編です。この詩は、王の即位式のときに用いられたようです。また教会では、昇天日にも読まれてきました。「イエス・キリストはどこにおられるのか」という問いに答える詩編だからです。 | ||||
わたしたちが聖餐式の中で唱えるニケヤ信経には、「主は…三日目によみがえり、天に昇り、父の右に座しておられます」とあります。神さまはイエス様を、メシアや王、祭司として遣わされたのです。 | ||||
1節の言葉は、マタイ22:41〜45を始め、新約聖書の中で引用されています。メルキゼデクとは創世記14:18〜20に出てくる神さまと人々の間をとりなす祭司でした。イエス様は本当の王として、わたしたちに関わって下さるのです。 | ||||
10月 6日「詩編111:1〜5」 | ||||
主の成し遂げられることは栄え輝き 恵みの御業は永遠に続く。 (詩編111編3節) |
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「神の大いなる業」:個人の賛美をもって導入される賛歌です。この詩編111編と次の詩編112編とは、一つのものと考えられています。その詩の様式も、使われている言語も対応しているからです。 | ||||
「アルファベットによる詩」とは、ヘブライ語のアルファベット22文字がそれぞれの行の最初くる形式です。いろは歌やあいうえお作文のようなものです。教育的な目的でも、このような詩編が用いられていました。 | ||||
イスラエルの人たちは、「驚くべき御業を記念するよう定められた(4節)」ことによって、過越祭、七週祭、仮庵祭といった祭りをおこなうようになりました。そしてわたしたちはイエス様の定められたように、洗礼と聖餐を守っていくのです。 | ||||
10月 7日「詩編111:6〜10」 | ||||
主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。 (詩編111編10節) |
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「主を畏れることは知恵の初め」という言葉があります。こわがる気持ちや恐怖、不安をあらわす「恐れ」ではなく、「畏れ」には敬い、かしこまる気持ちという意味があります。「畏敬の念を抱く」といった使い方もある漢字です。 | ||||
この詩編は、主を畏れる人たちによってなされる神さまのみ業への賛美です。神さまはみ業の力を示し、そして諸国の嗣業(神さまによって与えられた土地のこと)を与えられるのです。 | ||||
詩編ではその与える相手を、「ご自分の民」と書きます。旧約の時代にはそれはイスラエル民族のことでした。しかしイエス様がわたしたちの贖いとして遣わされた今、「ご自分の民」とはわたしたち一人ひとりでもあるのです。 | ||||
10月 8日「詩編112:1〜4」 | ||||
ハレルヤ。いかに幸いなことか 主を畏れる人 主の戒めを深く愛する人は。 (詩編112編1節) |
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「義人の豊かな恵み」:111編に続く賛歌です。主を畏れる人のあり方を称賛し、その生き方を「いろは歌」で書き記します。聖歌集の「希望」というカテゴリーに、「暗闇行くときには(聖歌476番)」という歌があります。 | ||||
「暗闇行くときには 主イェスが示された 輝く星をもとめ 光に顔むけよう 光は闇を照らし 昼は夜をつつむ とりまく影をぬぐいて 光を仰ぎ見よう」。東日本大震災のあと東北の地を訪れこの歌を聞いたときに、涙があふれた記憶があります。 | ||||
神さまを畏れ、神さまの前にまっすぐでいたいと願う人の元に、必ず光は昇ります。どんなに暗闇が深くても、明けない夜はありません。神さまが必ず、救いの火を灯してくださる。そのことをいつも信じていたいと思います。 | ||||
10月 9日「詩編112:5〜10」 | ||||
主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。彼はとこしえに記憶される。 (詩編112編6節) |
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6節に「とこしえに」という言葉が二度でてきます。とこしえとは漢字では永久が使われ、「ながく変わらないさま、永久不変であるさま、いつまでも同じ状態で続くさま」だと辞書には書かれていました。 | ||||
聖公会の礼拝では詩編などの後に、「栄光は 父と子と聖霊に 初めのように、今も 世々に限りなく アーメン」という唱和を唱えることがあります。初めも、今も、そしてこれからも同じように、という意味でしょう。 | ||||
神さまを畏れる人に与えられる平安は、これからもずっと約束されているということを、この詩編では唱えているようです。神さまの前にへりくだり、神さまにのみ救いを求めることは、それほど大切なことなのです。 | ||||
10月 10日「詩編113編」 | ||||
日の昇るところから日の沈むところまで 主の御名が賛美されるように。 (詩編113編3節) |
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「いと高き主の慈愛」:賛歌です。この113編から118編は、ハレルと呼ばれる詩編歌集です。これらは特に出エジプト記の出来事について書かれているので、「エジプトのハレル」と呼ばれることもあります。 | ||||
この詩編は特に、過越祭の際に歌われたと言われます。「ハレル」とは「たたえる」という意味で、神さまが働かれるときに何が起こるのか述べながら、神さまを賛美します。7〜9節が、神さまがなさることです。 | ||||
「弱い者」、「乏しい者」、「子のない女」を引き上げるという記述は、ハンナの祈り(サムエル記上2:1〜)やマリアの賛歌(ルカ1:46〜)を思い起こします。イエス様のナザレでの最初の説教(ルカ4:18〜19)も、同じような視点で語られています。 |