9月 21日「詩編106:24〜31」 | ||||
これは代々に、そしてとこしえに ピネハスの正しい業と見なされるであろう。 (詩編106編31節) |
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5番目の罪は、24〜27節にある民数記14章の出来事です。エジプトから逃れ、荒れ野で40年近くさまよっていたイスラエルの人々は、ようやく約束の地にたどり着きます。しかしそこに住んでいた屈強な人たちを見て、イスラエルの人々は弱音を吐くのです。 | ||||
「こんなことならエジプトに引き返した方がましだ」と叫ぶ民に対し神さまは、エフネの子カレブとヌンの子ヨシュア以外は約束の地に入ることはできないと伝えられます。神さまの導きを信じられなかった結果というわけです。 | ||||
そして28〜31節には6番目の罪が書かれます。民数記25章の物語ですが、シティムに滞在していたとき、イスラエルの民がモアブの娘たちに従って、自分たちの神々であるペオルのバアルに犠牲をささげたというものです。彼らは繰り返し、何度も罪を犯すのです。 | ||||
9月 22日「詩編106:32〜43」 | ||||
彼らはメリバの水のほとりで主を怒らせた。彼らをかばったモーセは不幸を負った。 (詩編106編32節) |
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32〜33節にあるのが、7番目の罪です。これらは出エジプト記や民数記に書かれていますが、その順番は歴史的なものとは違います。7番目の罪は出エジプト記17:1〜7および民数記20:1〜13にある「メリバの水」の話です。 | ||||
モーセはメリバで水を求める民に対し、岩を打つことによって水を出します。ただそのときに神さまの奇跡を疑ったので、モーセも約束の地に入ることができなくなりました。しかし具体的に何が神さまの癇にさわったのか、よく分かっていませんが。 | ||||
そして最後の8番目の罪が、34〜39節に書かれます。これは士師記1〜3章にある、繰り返されるイスラエルの罪です。「主は幾度も彼らを助け出そうとされたが彼らは反抗し、思うままにふるまい自分たちの罪によって堕落した。(43節)」と書かれている通りです。 | ||||
9月 23日「詩編106:44〜48」 | ||||
わたしたちの神、主よ、わたしたちを救い 諸国の中からわたしたちを集めてください。聖なる御名に感謝をささげ あなたを賛美し、ほめたたえさせてください。 (詩編106編47節) |
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昨日の箇所までに挙げられた8つの罪の後に、こう書かれます。「主はなお、災いにある彼らを顧み その叫びを聞き 彼らに対する契約を思い起こし 豊かな慈しみに従って思いなおし 彼らをとりこにしたすべての者が 彼らを憐れむように計らわれた」。 | ||||
罪を犯しても、犯してもなお、憐れまれる神さまの姿。それはわたしたちに対する愛でもあります。この詩編は悔い改めの礼拝で用いられてきました。わたしたちもまた自分の罪を顧み、それでも愛してくださる神さまを受け入れていきたいと思います。 | ||||
詩編90編から始まった第4巻も、この106巻で終わりです。48節の頌栄を聞きながら、わたしたちは神さまが与えて下さっている恵みを感じていきたいと思います。明日の107編から、いよいよ最後の第5巻に入ります。 | ||||
9月 24日「詩編107:1〜9」 | ||||
主は渇いた魂を飽かせ 飢えた魂を良いもので満たしてくださった。 (詩編107編9節) |
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「救われた者の感謝」:主のいつくしみをほめ讃える歌です。1節の「恵み深い主に感謝せよ 慈しみはとこしえに」という言葉を唱えながら、礼拝でこの詩編を用いていたように考えられています。 | ||||
3節にあるように、礼拝には四方(東西南北)から人が集められました。そこには様々な人がいます。特にこの詩編の中では困難にある人たちを覚えていきます。4〜9節では、飢えと渇きで衰え果てている人たちを覚えています。 | ||||
誰かのために礼拝でお祈りをする。聖公会では代祷に当たることを、この詩編を用いておこなっています。毎週教会に“集められる”わたしたちも、その祈りを大切にしていきたいものです。 | ||||
9月 25日「詩編107:10〜21」 | ||||
彼らは、闇と死の陰に座る者 貧苦と鉄の枷が締めつける捕われ人となった。 (詩編107編10節) |
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今日の箇所では、二つのグループの人たちを覚えてお祈りしています。一つは捕らわれた人たちについて(10〜16節)、もう一つは死の門に近づいている人たちについて(17〜21節)です。 | ||||
昨日の箇所から、同じ言葉が続いていることに気づかされます。「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと 主は彼らの苦しみに救いを与えられた。(6、13、19節)」と、「主に感謝せよ。主は慈しみ深く 人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。(8、15、21節)」です。 | ||||
聖公会の礼拝においても、代祷のときには司式者の呼びかけに対して、会衆が同じ言葉を繰り返す場面が出てきます。その際に大切なことは、機械的ではなく心を込めて唱えることです。一つ一つの言葉を大切にしましょう。 | ||||
9月 26日「詩編107:22〜32」 | ||||
主は嵐に働きかけて沈黙させられたので 波はおさまった。 (詩編107編29節) |
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今日の23〜32節では、海の荒波の中にいる人たちのために歌います。日本聖公会では7月の一つの日曜日を「海の主日」と定め、祈っています。この主日には、ミッション・ツー・シーフェラーズの働きを覚えています。 | ||||
わたしたちの暮らしを守るために厳しい環境で働く船員たちを思い、支援を続けられるよう心を一つにしていくのです。聖歌342番は、そのような海で働く人たちを覚えて歌う聖歌です。 | ||||
「とこしえの父は荒波を治め 大海の境 深みに定める 海路行く人を 支えてください」。海だけではなく、様々なインフラ設備で働く方々を覚え、お祈りしていくことが出来ればと思います。 | ||||
9月 27日「詩編107:33〜38」 | ||||
主が祝福されたので彼らは限りなく増え 家畜も減らされることはなかった。 (詩編107編38節) |
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この詩編107編は、礼拝で用いられてきました。ここからは、神さまの驚くべきみ業が語られていきます。「人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる(8、15、21、31節)」神さまに、感謝をささげているのです。 | ||||
聖歌318番「いざやともに」は、この詩編107編を歌にしたものだと考えられています。(聖歌集の聖句索引には、なぜか入れられていませんが)。「いざやともに 声うち上げて くしきみわざ たたえて歌わん」。 | ||||
「造りましし 天地(あめつち)みな 神によりて 喜びあり」。つい口ずさんでしまいそうな、軽快なメロディーです。「主が祝福された」喜びを、わたしたちも礼拝の中で分かち合っていけたらと思います。 | ||||
9月 28日「詩編107:39〜43」 | ||||
知恵ある人は皆、これらのことを心に納め 主の慈しみに目を注ぐがよい。 (詩編107編43節) |
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わたしたちは礼拝の中で 神さまを賛美します。それはわたしたちが神さまによって生かされている喜びを知っているからです。この詩編の中では、「飢えと渇きで衰え果てている人」、「捕らわれた人」、「死の門に近づいた人」、「海の荒波の中にいる人」を覚えます。 | ||||
わたしたちはその人たちのために祈るとともに、自分がそのような状態になっていることも覚えて祈ります。誰かのために祈ることは、誰かから祈られていることも意味しているのです。 | ||||
聖歌2番「風に目をさまして」の2節に、このような言葉があります。「風に向きあうとき聞こえてくる ささやきと叫び 試みにもがく中に 共に立つ仲間を知る 長い夜にも朝は訪れる 希望とともに朝は訪れる」。わたしたちは決して一人ではありません。 | ||||
9月 29日「詩編108:1〜7」 | ||||
あなたの愛する人々が助け出されるように 右の御手でお救いください。それを我らへの答えとしてください。 (詩編108編7節) |
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「託宣に基づく救いの確信」:救いを求める共同体の祈りです。この詩編108編の2節から6節は詩編57編8〜12節と、また7節から14節は詩編60編7〜14節とほぼ似た内容となっています。 | ||||
2節に「わたしは賛美の歌をうたいます」とあるように、最初に出てくるのは個人の賛歌です。しかしその個人的な祈りが共同体を代表した、共同体のための祈りと変わっていくのです。 | ||||
わたしたちが用いている聖歌集には、共同体の歌が多く載せられています。その反面、以前使っていた古今和歌集にあった個人的な信仰の歌が減ったようにも思います。個人の祈りが基本にあることを思うと、そのような聖歌も大切にしたいと思います。 | ||||
9月 30日「詩編108:8〜14」 | ||||
包囲された町に 誰がわたしを導いてくれるのか。エドムに、誰がわたしを先導してくれるのか。 (詩編108編11節) |
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シケムやスコト、ギレアドはダビデ王のころ、イスラエルの支配下にありました。またマナセやエフライム、ユダも地名ですが、もともとはヤコブの子や孫の名前で、それぞれの民族に与えられた地でした。 | ||||
さらにモアブやエドムやペリシテは、旧約聖書の中ではイスラエル民族に敵対する者として描かれています。どうしてもこのような地名や民族が書かれると、わたしたちは違う感情を持ってこの詩編を読んでしまいがちです。 | ||||
この詩編は「敵を滅ぼす」という視点ではなく、ただ神さまのみがこの世界を支配されるのにふさわしいお方だということを賛美していると捉えたほうがよさそうです。聖書の時代の「敵」という考え方は、イエス様によって否定されたのですから。 |