9月 1日「詩編100編」 | ||||
感謝の歌をうたって主の門に進み 賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。 (詩編100編4節) |
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「全地の民よ、主をたたえよ」:賛歌です。この詩編100編は、朝の礼拝(祈り)でも用いられます。解説によれば、この詩編は「礼拝を引き起こす」ものだということです。「感謝のために」という表題も、礼拝を思い起こさせます。 | ||||
この詩編を元にした聖歌は大変多く、3番、21番、200番、305番、314番、318番、324番、333番がそれにあたります。さらにそのうちの5曲が、「賛美と感謝」というカテゴリーに含まれます。 | ||||
2節と4節では、「御前に進み出よ」、「主の門に進み」、「主の庭に入れ」と、神さまの前に出るように促します。わたしたちの礼拝でも、神さまの前に心を開くことが大切です。そして一緒に、神さまのみ名をたたえるのです。 | ||||
9月 2日「詩編101編」 | ||||
朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし 悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。 (詩編101編8節) |
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「若き王の決心」:王の詩編です。エルサレム王の即位式のときに歌われたものだと言われています。またマルティン・ルターはこの詩編を、「ダビデの君主鏡」と呼んでいたそうです。 | ||||
この詩は三部に分かれています。まず1〜4節では王としての生活の基準を語ります。王が理想とすべき、正しい振る舞いを遂行することを宣言するのです。王自身が清廉潔白であることを、民の前で宣言するのです。 | ||||
そして5〜7節では王が臣下を統制する基準について、さらに8節では王が国全体を治める基準について語ります。当時宮廷では、「朝ごとに」裁判がおこなわれていました。日々国を治めるために何をすべきか、王の決意がここに書かれているのです。 | ||||
9月 3日「詩編102:1〜12」 | ||||
打ちひしがれた心は、草のように乾く。わたしはパンを食べることすら忘れた。 (詩編102編5節) |
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「復興のための祈り」:7つある悔い改めの祈りの5つ目です。表題に【祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。】とあります。この独特の表現は何を意味しているのでしょうか。 | ||||
この詩には、苦しみが多く描かれています。当時、人が嘆きの中にあるときには、頭から灰をかぶるという慣習がありました。10節の「パンに代えて灰を食べ」という表現は、頭から落ちた灰が食事にも入っている様子を指しているのかもしれません。 | ||||
神さまが拒絶をされている中で、わたしたちは何に希望を見出せばよいのでしょうか。「食事が喉を通らない」ほど、悲しみ、暗闇の中に落とされたときに、わたしたちは何にすがりつけばよいのでしょうか。 | ||||
9月 4日「詩編102:13〜23」 | ||||
後の世代のために このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」 (詩編102編19節) |
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この詩編は、シオンを再建される主を賛美するものです。しかしこの詩の20〜23節が、ある聖歌に用いられています。その聖歌は422番、「長崎の空は 足もとからはじまっている」です。 | ||||
2006年に発行された日本聖公会聖歌集には、広島(421番)、長崎、沖縄(423番)の歌が収められています。ご存じのようにこの3つの地に共通していることは、戦争により深い傷を負った場所だということです。 | ||||
「長崎の空は 神の国へいざなっている」と3節で歌います。神さまはすべてを喪失した者の祈りを顧み、「新しい時を求めながら 天と地を結ぶイェスに ここで出会うため」にわたしたちを導いてくださるのです。 | ||||
9月 5日「詩編102:24〜29」 | ||||
わたしは言った。「わたしの神よ、生涯の半ばで わたしを取り去らないでください。あなたの歳月は代々に続くのです。 (詩編102編25節) |
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今年は戦後80年にあたり、6月や8月には各地で祈りのときがもたれてきました。また戦争に限らず、阪神淡路大震災や東日本大震災、能登の大地震など、わたしたちの大切なものが一瞬にして取り去られることがなんと多いことでしょう。 | ||||
また世界に目を向けても、軍事衝突や大規模な自然災害によって住まいを失い、明日を生きる意欲を失っている人も多くいます。わたしたちの叫びは、神さまの耳に聞こえているのでしょうか。 | ||||
この詩編102編は、心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩です。わたしたちの祈りの大半は、もしかするとそのような祈りなのかもしれません。貧しいからこそ、主に寄り頼むしかない。そこに希望を持つしかない。そんなわたしたちなのです。 | ||||
9月 6日「詩編103:1〜5」 | ||||
わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。 (詩編103編2節) |
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「神の大いなる愛をたたえよ」:個人的な感謝の詩です。聖歌566番「わが心 たたえよ主を」という歌があります。この曲の左下に、para. of Psalm 103:1-2と書かれています。詩編103編1〜2節を元に詩にしたということです。 | ||||
さらに、「テゼ コミュニティー」とも書かれています。これはテゼ共同体という、キリスト教のエキュメニカルな(教派を超えた)男子の修道会で用いられている歌なのです。「わが心 たたえよ主を いのちの主 聖なる み名」。 | ||||
魂の叫びのように、この共同体の礼拝では何度も同じ歌詞を歌い続けます。「Bless the Lord, my soul」、神さまはわたしたちに大いなる愛を注いでくださいます。そのことを思い、わたしたちは魂の底から主をほめたたえるのです。 | ||||
9月 7日「詩編103:6〜10」 | ||||
7 (詩編103編8節) |
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この詩編103編には、憐れみと慈しみという言葉が多く出てきます。この言葉は、神さまの性格をあらわしていると言われます。そしてその思いは、「虐げられている人」に向けられています。 | ||||
ただわたしたちは、自分が虐げられているかと問われると、「そうではない」と思うのかもしれません。昼ドラでお姑さんから意地悪をされるお嫁さんのように、目に見えて虐げられている人は、それほどいないでしょう。 | ||||
しかし少し視野を広げてみれば、戦争や紛争、弾圧、あるいは差別などによって抑圧されている人たちがたくさんおられることにも気づかされます。神さまはそれらの人々にも目を向け、憐れみと慈しみを与えておられるのです。 | ||||
9月 8日「詩編103:11〜22」 | ||||
主はわたしたちを どのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを 御心に留めておられる。 (詩編103編14節) |
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お葬式で用いられることの多い聖歌に、512番があります。「み使いのたたえ歌は 海 山に満ちあふれ あまつ国のさきわいを 夜も日も絶えずしめす なぐさめの声こそ 旅路行く人の力」。 | ||||
この歌は「召命と旅」というカテゴリーに属していて、葬送式のためだけに用いる歌ではありません。しかしこの世の旅路を終え、新たなスタートを迎える人を送り出すときに、み使いが神さまをたたえる声に合わせてわたしたちも歌うことが多いようです。 | ||||
わたしたちは塵にすぎない者でありながらも、神さまはわたしたちを憐れみ、慈しんでくださる。人間ははかないものです。しかしそれでも神さまはわたしたちを愛してくださいます。だからわたしたちは、魂を込めて主をたたえるのです。 | ||||
9月 9日「詩編104:1〜9」 | ||||
主は地をその基の上に据えられた。地は、世々限りなく、揺らぐことがない。 (詩編104編5節) |
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「創造主への賛美」:救いを求める祈り、および救いに対する感謝です。この詩編の最初に「わたしの魂よ、主をたたえよ」とあります。これは103編にも見られていた言葉で、104編でも最初と最後に書かれています。 | ||||
103編では、あふれるばかりの神さまの憐れみと慈しみに対してほめたたえました。そしてこの104節では、たくさんの生き物が造られ、養われていることに対してほめたたえています。 | ||||
この9節までの出来事は、古代近東で古くから知られていた神話だそうです。その流れに従って、神さまの働きを描き出しています。わたしたちは被造物の一つとして、神さまの業を賛美するのです。 | ||||
9月 10日「詩編104:10〜23」 | ||||
ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ パンは人の心を支える。 (詩編104編15節) |
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神さまはあらゆるものを、この世界に造られました。この詩編ではそれらのものを、驚きをもって回顧しています。野の獣、野ろば、空の鳥、家畜、こうのとり、野山羊、岩狸、若獅子。当時、これらの動物が身近にいたのでしょう。 | ||||
創世記の1〜2章には、神さまが天地創造をおこなわれた様子が書かれています。神さまは最初の人アダムに動物の名前をつけるように命じられ、また世界の管理も同時に命じられました。 | ||||
しかしわたしたち人間は、世界を「支配」してよいものだと勘違いしてきました。自由に搾取、破壊し、取り返しのつかないことを繰り返してきました。もう一度自分たちも、神さまの被造物の一つだということに目を向けたいと思います。 |