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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2025年8月21日〜31日

8月 21「詩編9417
 主よ、逆らう者はいつまで 逆らう者はいつまで、勝ち誇るのでしょうか。
(詩編94編3節)
「悪は悪人に返される」:救いを求める祈りです。1節に「報復の神」という表現が繰り返し出てきます。報復という言葉には、あまり良いイメージがありません。テロへの報復や報復関税など、あまりよい言葉ではないようです。
しかし元々この言葉は、預言者たちの間で使われていたものです。そしてその意味は、法的な範疇で正義を回復することなのだそうです。「目には目を」という言葉がありますが、その本来の意味は「受けた以上にやり返すな」ということです。
聖歌323番の3節に、このような歌詞があります。「この世はみな神の世界 悪の勢いが世に満ちても わが心に迷いはなし 主こそがこの世を治められる」。わたしたちは神さまにすべてを委ね、主の平和を求めていきたいものです。
8月 22詩編94815
 いかに幸いなことでしょう 主よ、あなたに諭され あなたの律法を教えていただく人は。
(詩編94編12節)
8〜11節には、「愚か者」への叱責が続きます。なかなか厳しい言葉です。わたしたちはそのような言葉は、自分ではなく他の人に向けられていると考えることが多くあります。しかし果たしてそうでしょうか。
わたしたちの「計らい」が、神さまの目に正しくないことはないでしょうか。自分の正しさに立って、わたしたち自身が「愚か者」になってはいないでしょうか。そうならないためにも、わたしたちは聖書を読み、祈ることが大事です。
神さまに諭され、その教えに忠実な人を、神さまは決しておろそかにはされません。わたしたちが「愚か者」ではなく「祝福される者」になるために、神さまのみ声に聞き、歩んでいきましょう。
8月 23詩編941623
 主は必ずわたしのために砦の塔となり わたしの神は避けどころとなり 岩となってくださいます。
(詩編94編22節)
16〜23節には、信仰の告白が書かれていきます。聖歌451番「千歳の岩よ」という歌をご存じでしょうか。この歌はイギリスの四大賛美歌の一つだと言われています。英語では「Rock of ages」、永年の岩とも訳せます。
「千歳の岩よ わが身を囲め」という言葉が、1節の最初と3節の最後に出てきます。その中で、「罪のけがれを洗いきよめよ」、「(わたしには)罪をあがなう力はあらず」、「み救いなくば生くるすべなし」と歌うのです。
そして「世にあるうちも世を去るときも」、砦の塔、避けどころ、岩となって下さる神さまを頼るのです。「彼らを滅ぼし尽くしてください」という言葉には、抵抗を感じます。しかしわたしたちの弱さや不信仰を「敵」とするなら、受け入れることができるかもしれません。
8月 24詩編9517
 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民 主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。
(詩編95編7節)
「賛美と従順への誘い」:賛歌と神からの言葉です。この詩は、神殿に行って神さまを礼拝しようという誘いの行列の中で歌われてきました。救い主であり、偉大な王であり、牧者である神さまを賛美するのです。
この詩編95編は、聖公会では朝の礼拝および朝の祈りの中で唱えられます。礼拝共同体として、「主はわたしたちの神」と宣言します。朝に神さまを賛美し、一日を始めていくのです。
また聖歌集4番「けさもわたしの」の2節は、この95編7節からとられています。「けさもわたしのちいさい耳よ 主のみ言葉に聴き従え」と歌いながら、牧者である神さまの声を日々求めていきましょう。
8月 25詩編95811
 四十年の間、わたしはその世代をいとい 心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。
(詩編95編10節)
昨日の箇所で、詩編95編は朝の礼拝で用いられていると書きました。しかし正確には、普段の朝の礼拝で用いられているのは1〜7節だけで、今日読んでいる8〜11節は特別なときだけ用いられています。
祈祷書20頁にも書かれていますが、8〜11節は、@灰の水曜日、A大斎節中の金曜日、B聖土曜日、この@〜Bにあてはまる日にのみ読まれます。そして今日の箇所では、神さまが一人称形式で警告されています。
「荒れ野のメリバやマサ」でしたこととは、出エジプト記17章1〜7節に書かれている出来事です。彼らは神さまを試みました。わたしたちは大斎節の中で、神さまを試みるという過ちを犯してはいないか、いつも振り返るように促されているのです。
8月 26詩編96110
 国々にふれて言え、主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。主は諸国の民を公平に裁かれる。
(詩編96編10節)
「主は宇宙の王」:主の王権をたたえる賛歌です。聖歌311番にこのような歌があります。「天(あま)つ み使いよ イェスのみ名の 力をあおぎて主とあがめよ 力をあおぎて主とあがめよ」。
これが1節ですが、詩編96編の1〜2節と通じるところがあります。主がわたしたちの王となり、わたしたちを治めてくれる。そのことを賛美するのです。御救いの良い知らせ(福音)を、国々に語り伝えるのです。
7〜8節には「帰せよ」という言葉が3回出てきます。ルカによる福音書15章11〜32節の「放蕩息子のたとえ」を思い起こします。わたしたちは神さまに立ち帰り、「主こそ王」だと宣言することが大切なのです。
8月 27詩編961113
 主を迎えて。主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き 真実をもって諸国の民を裁かれる。
(詩編96編13節)
この詩編96編を題材とした聖歌に、303番があります。「賛美と感謝」のカテゴリーの最初に出てくる歌ですが、礼拝で用いられることは少ないように思います。その理由はこの曲が、短調で暗めだからなのかもしれません。
「わが心は賛美に満ちる 驚くべき主の賜物 み力受け感謝ささげ 尊き主の愛たたえよ」という言葉は明るさに満ちていますが、13節に「裁き」という言葉が三度出てくるように、そこには畏れもあるようです。
ただこの「裁き」という言葉は、「地を治める」という意味で使われています。この詩編96編がクリスマスやそのイブに用いられていることを思うと、暗闇の中に光を与え、この地を愛で満たそうとする神さまの思いを感じることができます。
8月 28詩編9716
 主こそ王。全地よ、喜び躍れ。多くの島々よ、喜び祝え。
(詩編97編1節)
「王である主の正しい裁き」:主を讃美する賛歌です。1節で作者は「主こそ王」と宣言し、「喜び踊れ」、「喜び祝え」と促します。そして2〜5節には神さまによってなされることの描写が続きます。
「正しい裁き」と聞くと、わたしたちはどう思うでしょうか。自分は裁かれる側かもしれないと恐ろしさを感じる人もいれば、早く敵対している人たちを滅ぼしてほしいと願う人もいるかもしれません。当時のユダヤでは、後者の考え方が主流でした。
キリスト教では、本来裁かれるべきわたしたちを救うために、神さまはイエス様を遣わされたと考えます。正しい裁きの前にうなだれるしかなかったわたしたちが救われる。だからわたしたちは「喜び踊り、喜び祝う」のです。
8月 29詩編97712
 シオンは聞いて喜び祝い ユダのおとめらは喜び躍る 主よ、あなたの裁きのゆえに。
(詩編97編8節)
8節にシオン(エルサレム)とユダという地名が出ています。この当時、裁きの中で救いに与るのは、主こそ自分たちの神であると知っていた人たちだけだと考えられていました。その人たちだけが喜ぶことできると思われていたのです。
しかしその救いは、すべての人たちに向けられます。神に従う人のために、心のまっすぐな人のために、光を、そして喜びを与えてくださるのです。そこには民族の違いや血統などは関係ありません。
97編には1、8、12節の3箇所に、「喜び祝う、喜び踊る」という言葉があります。わたしたちが礼拝をするのも、喜びを神さまの前にあらわすためです。礼拝が終わった後、みなさんはどのような表情をしているでしょうか。
8月 30詩編98
 新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって 主は救いの御業を果たされた。
(詩編98編1節)
「主は世界の王」:ほめ歌えの賛歌です。聖歌535番にこのような歌があります。「あなうれしわが身も 主のものとなりけり 沸き出づる喜び あまつ世のまぼろし 歌わでやあるべき 救われし身のさち たたえでやあるべき み救いのかしこさ」。
神さまは驚くべきみ業を成し遂げられます。その恵みを新しい歌に乗せて、賛美するのです。琴やラッパ、角笛を響かせながら、その喜びの輪にすべての人が加わるように、わたしたちも歌声を響かせるのです。
そしてこの詩の思いが、聖歌69番「もろびとこぞりて」に引き継がれていきます。降臨節の最後によく歌われるこの歌は、神さまのみ業をほめたたえます。「主は来ませり!」と全地のすべてと共に、喜び祝うのです。
8月 31詩編99
 我らの神、主をあがめよ。その足台に向かってひれ伏せ。主は聖なる方。
(詩編99編5節)
「主は聖なる王」:主を王としてほめ讃える賛歌です。「聖なる」という言葉があります。キリスト教で「聖」とは、「他と区別されたもの」という意味になります。「俗」であるわたしたちとは区別されるべき存在、それが「聖なる方」である神さまです。
聖歌338番に、このような歌があります。「聖なる主の霊は この世界に 心を開き みそばに行く 罪なき主に 見守られて われらは安らかに み手のうちに」。聖である神さまはわたしたちを導かれます。
その聖なる霊に見守られていることを知り、わたしたちは「主をあがめよ」と勧告に応えることができるのです。神さまはモーセやアロン、サムエルの時代から、呼ぶ者に応えられてきました。だからわたしたちも、主の御名をよぶのです。

バナースペース

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