7月 21日「詩編80:15〜20」 | ||||
わたしたちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください。 (詩編80編19節) |
||||
15〜18節には、作者の願いが綴られています。わたしたちが祈るときに、自分の思いだけが続くことがあります。その祈りの前後に神さまへの賛美や他者のための祈りがあればいいのですが、自分の思いだけが前に出てしまうと、それはどうかな?となってしまいます。 | ||||
イスラエルの人々は、神さまはその右のみ手で自分たちをぶどうの木として植えられたと信じていました。そのぶどうの木を、どうか顧みてくださいと願うのです。そしてその願いだけではなく、自分たちの信仰を神さまに誓うのです。 | ||||
19節の言葉、「わたしたちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください」とは、自分たちはどこに立つのかという表明です。そして20節には、4節と8節にも書かれた言葉が繰り返されます。「わたしたちをお救いください」、それが共同体の祈りなのです。 | ||||
7月 22日「詩編81:1〜8」 | ||||
わたしたちの力の神に向かって喜び歌い ヤコブの神に向かって喜びの叫びをあげよ。 (詩編81編2節) |
||||
「祭りの時の主の戒め」:神への賛美です。この詩編はユダヤ教の三大祭の一つ、仮庵の祭りのときに用いられたと思われます。表題にある「ギティト」は、ぶどう搾り用の酒舟のことです。 | ||||
「力の主を ほめたたえまつれ」という聖歌があります(316番)。聖歌の中では「竪琴 かき鳴らしつつ」とありますが、詩編の中では「太鼓」、「琴」、「竪琴」、「角笛」という楽器が登場します。 | ||||
音楽を用いて神さまを賛美することは、今もおこなわれています。喜びをそのような形で表現することを、神さまは命じられていたのです。わたしたちも礼拝の中で、喜びをにぎやかに表現すること、たまには必要ですね。 | ||||
7月 23日「詩編81:9〜17」 | ||||
主は民を最良の小麦で養ってくださる。「わたしは岩から蜜を滴らせて あなたを飽かせるであろう。」 (詩編81編17節) |
||||
詩編81編には7節から15節までに、説教が組み込まれています。この中で作者は、神さまがイスラエルとの間に立てられた関係について回顧しています。9節には「イスラエルよ、わたしに聞き従え」という言葉があります。 | ||||
しかしイスラエルの人々は、その声に聞かず、神さまを求めることもありませんでした。彼らは神さまに背きました。そしてイスラエルの不信仰によって何が起こったのか、そのことを書いていくのです。 | ||||
しかしその中においても、神さまは人々に収穫を与えてくださいます。この詩は仮庵の祭りで歌われていました。イスラエルの背信にもかかわらず、彼らを守り、豊かな糧を与えてくださる恵みに感謝しているのです。 | ||||
7月 24日「詩編82編」 | ||||
神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。 (詩編82編8節) |
||||
「不正な裁判官に対する裁き」:裁判官を責める歌です。福音書には「やもめと裁判官(ルカ18:1〜8)」という話が載せられていますが、公正な裁きをおこなう裁判官はどれくらいいたのでしょうか。 | ||||
弱者や孤児、苦しむ人や乏しい人、弱い人や貧しい人、裁判官にはそのような人たちの側に立ってほしいと、神さまは望みます。しかし生活のためや立場的なことで、「長いものにまかれる」こともあるのかもしれません。 | ||||
わたしたちはいつも、弱い人たちの側に立っているでしょうか。ただ難しいのは、「わたしは弱いのだから、わたしの側に立て!」と大声で叫ぶ「強い人」もいるということです。なかなか簡単に、自分の立ち位置を決めるのも難しいものです。 | ||||
7月 25日「詩編83:1〜5」 | ||||
神よ、沈黙しないでください。黙していないでください。静まっていないでください。 (詩編83編2節) |
||||
「敵に囲まれたイスラエルの祈り」:救いを求める共同体の祈りです。彼らは神さまに対して、「沈黙しないでください、黙していないでください、静まっていないでください」と願い続けます。 | ||||
イスラエルの人々は何度も、他国の脅威に悩まされたことがありました。旧約聖書にはバビロン捕囚という出来事が書かれています。またナチス・ドイツによるホロコーストによって、たくさんのユダヤ人が犠牲になっていきました。 | ||||
「神の民」という「名」が、絶たれようとしたのです。その状況を、作者は神さまに何とか聞いてほしいと願うのです。自分たちの危機に神さまが介入されることを、彼らは望んでいるのです。 | ||||
7月 26日「詩編83:6〜13」 | ||||
これらの民の貴族をオレブとゼエブのように 王侯らをゼバとツァルムナのようにしてください。 (詩編83編12節) |
||||
7節から9節に書かれているのは、アッシリアを除いてイスラエルに隣接していた民族です。日本は島国であるため、「隣国の脅威」ということには鈍感だと言われます。歩いて外国に行くことが出来るほうが、何だか羨ましいですが。 | ||||
旧約聖書には、イスラエルと隣国との争いが多く記載されています。10節以降には、神さまが過去になさったことが書かれています。作者はその出来事を、今この時に実行して欲しいのだと訴えるのです。 | ||||
士師記4〜8章には、そのような過去におこなわれたことが書かれています。その記述を見るたびに、「平和」っていったい何なのだろうかと思うことがあります。どの民族も救われる、それがイエス様の伝えて下さった新しい約束なのかもしれません。 | ||||
7月 27日「詩編83:14〜19」 | ||||
彼らが悟りますように あなたの御名は主 ただひとり 全地を超えて、いと高き神であることを。 (詩編83編19節) |
||||
詩編の作者は、神さまの勝利を求めて訴えます。14〜16節には、とても恐ろしい破壊の様子が書かれます。「車の輪のように、風に巻かれる藁のように」という状況を想像すると、目が回ってしまいます。 | ||||
詩編においては、「神の勝利」=「敵の滅亡」なのだと思います。しかしこの考え方は、とても危険です。今でも多くの場所で、「自国の勝利」を目指して「敵を滅亡」させようとする「攻撃」がおこなわれているからです。 | ||||
ではこのような詩編をわたしたちは、どう捉えればよいのでしょうか。「彼らは主の御名を求めるようになるでしょう」という言葉が、少しだけ光明を与えているように思います。神さまが崇められることを願う、でもやっぱり争いはよくないと思います。 | ||||
7月 28日「詩編84:1〜8」 | ||||
あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。 (詩編84編4節) |
||||
「巡礼者の聖所へのあこがれ」:神殿を神の住まいとして喜び祝う歌です。ユダヤ教では成人男子は年三回の大きな祭りの際に、エルサレム神殿に巡礼をしなければならないという決まりがありました。 | ||||
しかし行きたくても行けないという人も多かったようで、「最低でも年一回は」とその縛りは緩められていったようです。ただ人々は嫌々行っていたかというと、決してそういうことはありませんでした。 | ||||
神殿は神さまが臨在される場所として考えられており、そこに行くことは大きな喜びでした。ですからわたしたちが、「最低でも年二回は教会に来てください」というのとは大きく違います。教会も喜びのうちに、できる限り行くようにしましょうね。 | ||||
7月 29日「詩編84:9〜13」 | ||||
あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。 (詩編84編11節) |
||||
聖歌392番に、このような歌詞があります。「神の み住まいの 麗しさよ わたしの心は喜び舞い あなたの命を慕い歌う」。イスラエルの人々にとって、エルサレム神殿への巡礼は、とても大きな出来事でした。 | ||||
同じ歌の4節には、このようにあります。「あなたのみそばに 憩う一日 千日に優るこの喜び 寄り頼む人に幸いあれ」。神さまのみそばにいる一日は、千日以上の価値があるということです。 | ||||
週に一度、たった数時間の教会の礼拝ですが、わたしたちはその時間を持つことで一週間の生きる活力を得ます。「千日」まではいかなくても、教会に来たから恵みを得た、そう感じることのできる主日がいつも送れるといいですね。 | ||||
7月 30日「詩編85:1〜8」 | ||||
主よ、あなたは御自分の地をお望みになり ヤコブの捕われ人を連れ帰ってくださいました。 (詩編85編2節) |
||||
「回復と平和のための祈り」:救いを求める共同体の祈りです。この詩はバビロン捕囚のあと、捕らわれた場所から帰還したイスラエルの人々が歌ったとされます。救いを待ち望むアドベントにふさわしいとも言えるでしょう。 | ||||
イスラエルの人々にとって、バビロン捕囚は悲しい出来事であると同時に、神さまからの罰としての意味を持っていました。ですからそこから元の場所に戻れるということは、神さまが自分たちを赦してくださったということを意味すると考えられます。 | ||||
しかし帰還後も、すべてが平和になったわけではありませんでした。これはわたしたちが救いを得た後も、同じように困難が訪れるのと同じことかもしれません。波はずっと変わらずに、わたしたちに向かい続けるのです。 | ||||
7月 31日「詩編85:9〜14」 | ||||
主は必ず良いものをお与えになり わたしたちの地は実りをもたらします。 (詩編85編13節) |
||||
11節に「正義と平和は口づけし」という言葉があります。平和という語は通常、戦争のない状態をいいます。しかし「主の平和」というとき、それは神さまが共にいてくださるという平安な状態をいいます。「シャローム」という語であらわすこともできます。 | ||||
わたしたちの世界では、正義は必ずしも平和を創り出してはいません。かえって正義を押し付けることによって、争いが生まれることも多くあります。それは正義が、自分の尺度による正しさになってしまっているからです。 | ||||
聖歌211番は、収穫感謝の歌です。その折り返しでは、このように歌います。「よきものみな 天より来ぬ 神のみ恵みを ほめたたえよ」。神さまがすべてを与えてくださる。その恵みにみんなで与ることが、「シャローム」なのかもしれません。 |