7月 11日「詩編78:32〜39」 | ||||
しかし、神は憐れみ深く、罪を贖われる。彼らを滅ぼすことなく、繰り返し怒りを静め 憤りを尽くされることはなかった。 (詩編78編38節) |
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詩編78編ではしつこいくらいに、荒れ野で犯してきたイスラエルの人々の罪が語られます。その罪の故に神さまは、人々の生涯をひと息のうちに、そしてその年月を恐怖のうちに断とうとされます。とても恐ろしい記述です。 | ||||
しかしイスラエルの人々は、何度も神さまを求め、また立ち帰って神さまを捜し求めてきました。しかし同じように何度も、神さまを侮り欺くのです。悔い改めと背信を繰り返すその姿は、わたし自身を見ているようです。 | ||||
神さまはその人間の弱さを、御心に留められました。人間は肉に過ぎない、その言葉が意味するのは、人間は完全に正しくはありえないということです。罪に苦しみもがくわたしたちを、神さまは憐れんでくださるのです。 | ||||
7月 12日「詩編78:40〜42」 | ||||
どれほど彼らは荒れ野で神に反抗し 砂漠で御心を痛めたことか。 (詩編78編40節) |
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荒れ野でのイスラエルの人々のおこないを振り返ったときに、人々は心を痛めます。「昔の人がやったこと」ではなく、自分たちもいつ同じようになるのかわからない現実を知り、嘆くのです。 | ||||
今年は戦後80年の節目の年です。実際に戦地に行って戦った方は、少なくなってきました。わたしを含め、いわゆる「戦後生まれ」の世代にとって、戦争は過去の出来事という思いも抱いてしまいます。 | ||||
しかしわたしたちは、過去の出来事にも向き合わなければなりません。それは自分たちもまた、同じ過ちを犯す可能性があるからです。肉にすぎないわたしたちは、過去に学ぶ必要があるのです。 | ||||
7月 13日「詩編78:43〜51」 | ||||
神は燃える怒りと憤りを 激しい怒りと苦しみを 災いの使いとして彼らの中に送られた。 (詩編78編49節) |
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今日の箇所には、出エジプトの際の「10の災い」が書かれています。10の災いとは、@ナイル川の水を血に変える、A蛙を放つ、Bぶよを放つ、Cあぶを放つ、D家畜に疫病を流行らせる、E腫れ物を生じさせる、F雹を降らせる。 | ||||
Gいなごを放つ、H暗闇でエジプトを覆う、I長子を皆殺しにするという出エジプト記7章14節〜12章33節に書かれた出来事です。昔この順番をすべて覚えさせられましたが、何の意味があったのでしょうか。 | ||||
これらの奇跡を、イスラエルの人々はずっと語り継いできました。神さまが自分たちに手を伸ばされ、救いの道を示されたこれらの出来事は、イスラエルの人々を支え続けてきた大きな神さまの恵みだったのです。 | ||||
7月 14日「詩編78:52〜55」 | ||||
彼らの前から諸国の民を追い払い 彼らの嗣業を測り縄で定め イスラエルの諸部族を それぞれの天幕に住まわせられた。 (詩編78編55節) |
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エジプトで10の災いによって神さまから導かれたイスラエルの人々は、その後、荒れ野を放浪します。その期間は40年にも及んだそうです。その様子をここでは「羊のように」、「家畜の群れのように」と表現します。 | ||||
聖書には神さまと人間との関係を、羊飼いと羊として描いている箇所があります。ユダヤには羊が多くおり、家畜として育てられていました。その羊は弱い動物で、野獣や強盗などの敵も多かったようです。 | ||||
また目も悪く、自分の力だけではなかなかオアシスなどの目的地にたどり着けません。そこで羊飼いの力が必要になるのです。神さまは迷い、倒れそうになる人々を導かれました。そしてわたしたちをも導いておられる。聖書はそのことを伝えているのです。 | ||||
7月 15日「詩編78:56〜64」 | ||||
異教の祭壇に仕えて神を怒らせ 偶像を拝んで神の激情を引き起こした。 (詩編78編58節) |
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「約束の地」に導かれた後も、イスラエルの人々は何度も神さまを試み、反抗し、そのみ定めを守らなかったようです。そのような先祖の姿をいつも思い起こすように、この詩編は語り継がれているのでしょう。 | ||||
旧約聖書を読むときに、「怒る神さま」の姿が心に強く残ってしまうことがあります。確かに人間が悪いのでしょうが、火を放ったり疫病を広めたり、もう少し辛抱してくれてもいいのにと思うこともあります。 | ||||
聖書が伝えたいのは、それほどの恐ろしい経験をしていても、人間は正しくなれなかったという事実です。そしてそのような弱いわたしたちを救うために、「新しい契約」を神さまが示されたということです。そのために、イエス様は来られたのです。 | ||||
7月 16日「詩編78:65〜72」 | ||||
乳を飲ませている羊の後ろから取って 御自分の民ヤコブを 御自分の嗣業イスラエルを養う者とされた。 (詩編78編71節) |
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今日で詩編78編は終わります。神さまはダビデを選び、イスラエルを導く者として立てられました。彼は偉大な王としてその名を残しますが、聖書には彼が犯した罪も隠さずに書かれています。 | ||||
神さまはダビデに、神殿を建てることを許しませんでした。神殿は神さまの定めにより、ダビデの子ソロモンが建てることになります。つまり神殿の建築は、あくまでも神さまの意思なのです。 | ||||
このように神さまの思いが人々の間にあり、そしてその象徴として神殿が造られていきました。建物である神殿はその後崩壊しましたが、人々の心に建てられた神殿は、いつまでも崩れることはないのです。 | ||||
7月 17日「詩編79:1〜9」 | ||||
主よ、いつまで続くのでしょう。あなたは永久に憤っておられるのでしょうか。あなたの激情は火と燃え続けるのでしょうか。 (詩編79編5節) |
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「エルサレムと神殿の破壊」:主の民の祈りです。ここに書かれている出来事は、紀元前587年に起こったバビロニアによるエルサレム陥落だと考えられています。この出来事は、旧約聖書の列王記下25章に書かれています。 | ||||
イスラエルの人々が大切にしていたエルサレム神殿が、異国の民によって汚されました。エルサレムは荒廃し、その地は荒らされ、そして人々は虐殺されていきます。イスラエルの人々は、弱さと恥辱の中に生きていくことになります。 | ||||
彼らはこの状況を、「神さまの怒り」によるものだと考えます。自分たちの罪のせいで、こうなったのだということです。そしてその怒りを、自分たちの敵に転じて欲しいと願うのです。頭の上の炭を隣の人の頭に置き替えてください、ということでしょうか。 | ||||
7月 18日「詩編79:10〜13」 | ||||
どうして異国の民に言わせてよいでしょうか 「彼らの神はどこにいる」と。あなたの僕らの注ぎ出された血に対する報復を 異国の民の中で、わたしたちが 目の前に見ることができますように。 (詩編79編10節) |
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10節の、「どうして異国の民に言わせてよいでしょうか、『彼らの神はどこにいる』と」という言葉が、この詩の主題となります。敵対する異国の民は、イスラエルの人々を嘲笑います。 | ||||
イスラエルの人々は、「報復を見ることができますように」、「嘆きが御前に届きますように」、「彼らの辱めを七倍にして返してください」という三つの願いを歌います。彼らは共同体として、その苦難を心に留めていくのです。 | ||||
イスラエルの人々は自らを、「あなた(神さま)の民」、「あなた(神さま)に養われる羊の群れ」と語ります。神さまとの関係を語り告げながら、彼らは「とこしえに」、「世々に」、神さまを賛美し続けるのです。 | ||||
7月 19日「詩編80:1〜8」 | ||||
万軍の神、主よ、あなたの民は祈っています。いつまで怒りの煙をはき続けられるのですか。 (詩編80編5節) |
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「荒らされたあなたのぶどう園を元どおりに」:共同体の祈りです。2節に書かれているケルビムは、神の箱につけられたものです。イスラエルの人々はその箱によって、羊のように導かれてきました。 | ||||
しかし彼らイスラエルの人々は、北からも南からも責められていきます。この詩編の記述は、紀元前722年に起こった北イスラエル王国の滅亡やアッシリア軍の侵入を思い起こしているようです。 | ||||
作者は嘆きの中で、辱めを受けていきます。けれどもその中においても、神さまに願い続けるのです。4節と8節には同じ言葉が書かれます。「万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り 御顔の光を輝かせ わたしたちをお救いください」。願い続けることが大切なのです。 | ||||
7月 20日「詩編80:9〜14」 | ||||
あなたはぶどうの木をエジプトから移し 多くの民を追い出して、これを植えられました。 (詩編80編9節) |
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イスラエルの人々は、しばしばぶどうの木にたとえられます。9〜10節に書かれている「ぶどうの木をエジプトから移し…これを植えられました。…場所を整え、根付かせ、この木は地に広がりました」というのは、イスラエルの歴史を振り返る記述です。 | ||||
ぶどうの木については、エレミヤ書、ホセア書、エゼキエル書でも触れられています。乾燥地帯であるユダヤ地方ではぶどうはよく栽培されていました。そのために生活の中でなじみ深く、聖書やイエス様の話にも度々登場します。 | ||||
ただそのぶどう畑が荒らされているというのです。森の猪や野の獣によって荒らされているという描写は、ユダヤの地が敵の攻撃を受け、荒廃していることを示します。神さまによって植えられたはずなのになぜですか。その嘆きが歌われているのです。 |