7月 1日「詩編76:8〜13」 | ||||
神は裁きを行うために立ち上がり 地の貧しい人をすべて救われる。 (詩編76編10節) |
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詩編にはしばしば、「神の勝利」を描く箇所が出てきます。詩編76編も、敵に対する決定的な勝利がテーマになっています。このような箇所を読むと、「キリスト教があるから戦争は終わらないんだ」と思ってしまいます。 | ||||
しかしここで大切なのは、神さまはどうしてそのような勝利を目指されるのかということです。10節にこのようにあります。「地の貧しい人をすべて救われる」と。これこそがすべての目的であり、神さまはこのために働かれているのです。 | ||||
世界の為政者と呼ばれる人たちが皆この視点に立つことができると、きっと平和が訪れるのでしょう。「自分たち」や「一部の人」だけではなく、「すべての人」が救いの対象になっている。イエス様もそのことを、わたしたちに伝えられました。 | ||||
7月 2日「詩編77:1〜10」 | ||||
主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。 (詩編77編9節) |
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「昔を回想して救いを求めるイスラエルの祈り」:救いを求める個人の祈りです。表題にあるエドトンというのは、ダビデの時代の有名な指揮者の名前です。彼の編曲に合わせて歌うということのようです。 | ||||
この詩の8〜10節で、作者は叫びます。「主はとこしえに突き放し 再び喜び迎えてはくださらないのか。主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。神は憐れみを忘れ 怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」 | ||||
祈っても祈っても満たされない現実は、わたしたちにも訪れるものです。その中で作者は願うだけではなく、神さまのことを深く思います。思い続け、悩み、思い巡らしていく中で、彼の心には何が見えたのでしょうか。 | ||||
7月 3日「詩編77:11〜16」 | ||||
神よ、あなたの聖なる道を思えば あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか。 (詩編77編14節) |
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昨日の箇所の続きです。作者はどれだけ祈っても満たされない状況の中、神さまのことを深く思いめぐらしました。神さまの救いのみ手が変わってしまったのか、それとも自分が弱くされてしまったのか、その思いの中である出来事を思い起こします。 | ||||
それは、出エジプトの出来事です。イスラエルの人々にとってこの救いの御業は、何物にも代えられない恵みでした。その出来事があったからこそ、自分たちにも救いが与えられるのだと信じることができたのです。 | ||||
わたしたちは礼拝の中で、イエス様の降誕、生涯、十字架、復活という救いの御業を毎年想起していきます。それは過去の出来事を思い返すだけではなく、今もわたしたちに神さまのみ手が伸ばされているということを知るためなのです。 | ||||
7月 4日「詩編77:17〜21」 | ||||
あなたはモーセとアロンの手をとおして 羊の群れのように御自分の民を導かれました。 (詩編77編21節) |
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嵐が好きな人は、あまりいないと思います。(タレントのグループ名ではありません。念のため)。大水や雷鳴、稲妻という言葉を聞くと、わたしたちは恐ろしくなっておへそを隠してしまいます。 | ||||
「嵐の中にいる神さま」、旧約聖書の創世記を題材とした映画「天地創造」や「十戒」を見ると、そのようなイメージを持ってしまうのはわたしだけでしょうか。神さまは嵐の中で、アブラハムやモーセに語りかけているようにも感じます。 | ||||
またイエス様も嵐の中で、「あなたがたの信仰はどこにあるのか(ルカ8:25)」と問われます。わたしたちが嵐の中で恐れ、叫ぶときにも、神さまはその嵐を支配し、羊のような弱いわたしたちをオアシスへと導いてくださるのです。 | ||||
7月 5日「詩編78:1〜4」 | ||||
わたしは口を開いて箴言を いにしえからの言い伝えを告げよう (詩編78編2節) |
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「イスラエルの歴史における神秘」:歴史の詩です。これは教師の発言のようなもので、全体が一つのスピーチのようになっています。2節にある「箴言」や「いにしえからの言い伝え」とは、創世記からサムエル記にあるイスラエルの定礎物語です。 | ||||
旧約聖書はそれらの書物の中で、アブラハムから始まり、ダビデの物語などを伝えます。そして同時に、イスラエルの人々と共に歩まれた神さまの歩みを語っていくのです。それを読むことで、自分たちのアイデンティティを確かめていきました。 | ||||
そしてその恵みを、「子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう」と促します。わたしたちは神さまの恵みを、子孫(家族)に隠してはいないでしょうか。「伝える」ということは、とても大切なことなのです。 | ||||
7月 6日「詩編78:5〜8」 | ||||
子らが生まれ、後の世代が興るとき 彼らもそれを知り その子らに語り継がなければならない。 (詩編78編6節) |
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ここではなぜ、子や子孫に神さまの恵みを伝えなければならないかが語られています。それは、「先祖のように頑な反抗の世代とならない」ためです。いわゆる「反面教師」ということでしょうか。 | ||||
イスラエルの人たちは、「信仰の継承」を何よりも大切にしていました。日本の神道や仏教でも、お墓や仏壇を大切にしてきたと思います。またキリスト教の中で、「わたしは〜代目のクリスチャン」という会話が聞かれることもあります。 | ||||
カトリック教会や聖公会は、「家の宗教」に近いように思います。それに対して多くのプロテスタント教会は、「個人の信仰」に重きが置かれているようです。ただどちらにしても、信仰の継承はとても大切なことです。 | ||||
7月 7日「詩編78:9〜11」 | ||||
彼らは神との契約を守らず その教えに従って歩むことを拒み (詩編78編10節) |
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詩編78編は、72節まである大変長い詩編です。その中でも今日の11節までが、序文となっています。この詩編は、教師による「歴史の詩」という側面があるということを、最初のところで説明しました。 | ||||
教える人は、この詩編がどのようなもので、またどのような目的で書かれているかを序文の中で語ります。彼がイスラエルの人々に伝えたいのは、「同じ過ちを繰り返すな」ということです。 | ||||
彼らは、神さまとの契約を守りませんでした。その様子は、出エジプト記にも多く書かれています。これ以降の箇所でその過ちを振り返り、同じ轍を踏まないようにと願うのです。ただそれを聞かされても、なかなか完全な人間にはなれないのも事実です。 | ||||
7月 8日「詩編78:12〜16」 | ||||
荒れ野では岩を開き 深淵のように豊かな水を飲ませてくださった。 (詩編78編15節) |
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今日の箇所から39節まで、荒れ野での出来事が語られていきます。出エジプト記を読むとわかるように、イスラエルの人々は何度も何度も神さまのみ心を理解せず、間違いを繰り返していきました。 | ||||
今日の箇所に書かれていることは、イスラエルの人々がエジプトから逃げる際に、神さまが葦の海をせき止め、イスラエルの人々を渡らせた出来事です。神さまはイスラエルの人々が渡り終わった後に水を戻し、エジプト軍を水の底に沈めてしまいました。 | ||||
また荒れ野で昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導かれたことも、全能の神さまのみ業として描かれます。しかし岩を開き水を飲ませられた出来事は、イスラエルの人たちの不平に対して神さまがなさったことです。先祖の過ちも、しっかり語られているのです。 | ||||
7月 9日「詩編78:17〜22」 | ||||
神に対してつぶやいて言った。「荒れ野で食卓を整えることが 神にできるのだろうか。 (詩編78編19節) |
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出エジプト記15章22節から17章7節には、「マラの苦い水」、「マナ」、「岩からほとばしる水」という物語が載せられています。これらの物語の舞台は、荒れ野です。イスラエルの人々はエジプトを出た後、荒れ野をさまよっていました。 | ||||
うろうろするのが数日間だったり、「いつまで」という期間がわかっていたのなら、まだ我慢ができたかもしれません。しかしいつになったら出られるかもわからない状況で水も食料もなければ、不安になる気持ちもわかります。 | ||||
イスラエルの人々は、つぶやきました。このつぶやきが、神さまへの反逆と捉えられてしまいます。「つぶやくくらいで」と思うかもしれません。しかしつぶやくことは、神さまに信頼を置けないことを意味しているのです。 | ||||
7月 10日「詩編78:23〜31」 | ||||
彼らは食べて飽き足りた。神は彼らの欲望を満たしてくださった。 (詩編78編29節) |
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神さまは人々のつぶやきを聞き、マナやうずらを与えます。しかし同時に神さまは怒り、イスラエルの人々に罰を与えます。それは彼らが神さまの言いつけを守らず、ダメだという日にマナを見つけに行ったりしたからです。 | ||||
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ(コリントの信徒への手紙二12章9節)」というパウロの言葉があります。しかしわたしたちは時に、もっとくれ、もっとくれと要求してしまうのです。 | ||||
神さまはわたしたちに、必要な恵みを与えて下さっています。わたしたちはその恵みに、飽き足りているでしょうか。欲望から離れることができずにいると、神さまは悲しまれることでしょう。 |