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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2025年6月21日〜30日

6月 21「詩編73112
 神に逆らう者の安泰を見て わたしは驕る者をうらやんだ。
(詩編73編3節)
「信仰の勝利」:今日の詩編73編から、第三巻に入ります。この詩は賛歌で、アサフの詩だと書かれています。アサフはイスラエルの歴史の中でも屈指の賛美指導者であったと言われています。
この詩編73編は、多くの人たちに愛されてきました。というのも様々な苦悩を正直に書き、神さまから離れようとする心を引き戻してくれるからです。わたしたちの現実ともリンクしていくのです。
3節に「神に逆らう者の安泰を見て…うらやんだ」とあります。安泰とは、シャローム(平安)のことです。心の清い人に恵みを与えてくださるはずが、なぜ悪人に対して!と憤る作者の嘆きが聞こえてきそうです。
6月 22詩編731317
 「彼らのように語ろう」と望んだなら 見よ、あなたの子らの代を 裏切ることになっていたであろう。
(詩編73編15節)
心を清く保とうとも、手を洗って潔白を示そうとも、作者は空しさを感じます。そこには信仰に対する疑いが出て来たのでしょう。わたしたちも心に戸惑いがある中で表面的に祈っても、心が伴わないことがあります。
「悪人がシャローム(平安)の中にいる」と作者は昨日の箇所で嘆きます。彼らのように振る舞えば、どんなに楽だろうか。そういう思いが芽ばえながらも、彼は必死にとどまります。
そして神の聖所で、悪人の行く末を考え、黙想するのです。何だかとても怖い気がします。自分のことだけをしっかり考えたらいいのにとも思います。「毒麦も育つままにしなさい」というイエス様の言葉が心に響きます。
6月 23詩編731822
 わたしは愚かで知識がなく あなたに対して獣のようにふるまっていた。
(詩編73編22節)
この18〜22節では、悪人が滅ぼされる場面が書かれます。昨日の最後の節で作者は、聖所で悪人の行く末を黙想しました。そこで示されたイメージが、今日の箇所だということでしょうか。
「勧善懲悪」、言葉にすれば簡単ですし、映画やドラマでもこのような筋書きだとスッキリします。しかしそれは、あくまでも自分が「善」であるという中での話です。でもどうでしょうか。わたしたちは本当に「善」なのでしょうか。
作者は自分が、神さまの前に愚かな獣に成り下がっていたことを告白します。ヨブ記の最後にも見られることですが、神さまの前に弱く欠けの多い自分を知ることは、とても大切なことです。そしてこの告白によって、わたしたちの心にも平安が訪れるのです。
6月 24詩編732328
 わたしは、神に近くあることを幸いとし 主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう。
(詩編73編28節)
心に平安を得た作者は、神さまに対する敬虔な熱い思いを歌います。神さまが自分の右の手を取って下さるというイメージには、すごく温かいものを感じます。「手を差し伸べて下さる神さま」、わたしたちもその手を握りかえしたいものです。
神さまは必ずわたしを受け入れてくださる、24節にある言葉こそ、作者の強い思いです。そして「神に近くある」ことに気づかされます。これが本当のシャローム(平安)です。平安は他でもない、自分の中にあったのです。
信仰に戸惑い、疑いながら歩む中で、自分の手を取り導いてくださる神さまの姿を知る。このことこそ、わたしたちの信仰の中で何度も訪れることです。信仰に悩むときには、この詩編73編を読み返しましょう。
6月 25詩編74111
 わたしたちのためのしるしは見えません。今は預言者もいません。いつまで続くのかを知る者もありません。
(詩編74編9節)
「神殿破壊後の嘆願」:救いを求める共同体の祈りです。この詩は捕囚期(バビロンにイスラエルの人々が連れて行かれた時期)のエルサレムにおいて、破壊されたエルサレム神殿をしのんでいるのではないかとも思われています。
この詩の作者は神殿が破壊される描写を通して、神さまが自分たちを見捨てられたという思いを伝えているようです。そして3〜7節は、荒れ果てた聖所でその後、繰り返し祈られていったと言われています。
ユダヤの人たちにとって、神殿は絶対的なものでした。神殿に民が集まり、祈りをささげることがユダヤ人としてのアイデンティティを保つことでした。しかし神殿の崩壊は、イエス様も予告されていたことだったのです。
6月 26詩編741217
 あなたは、太陽と光を放つ物を備えられました。昼はあなたのもの、そして夜もあなたのものです。
(詩編74編16節)
今日の箇所で作者は、神さまのみ業をほめたたえます。神さまは世界の秩序を確立しました。その様子は創世記の初めに書かれていますが、無秩序で混沌としたところに様々なものを創造されたのです。
レビヤタンは旧約聖書に出てくる海の怪物で、7つの頭を持つ蛇とも言われます。そのようなものも支配され、この世界を整えられた神さま。しかし今神殿が壊され、わたしたちが窮地に立たされているのは何故ですかと神さまに向かって声をあげるのです。
しかしイエス様が十字架の死から復活されたように、建物としての神殿が壊れたとしても、本当の神の宮はわたしたちの中にあるのです。「目に見える物」に固執し続ける必要はないのです。
6月 27詩編741823
 あなたに刃向かう者のあげる声 あなたに立ち向かう者の常に起こす騒ぎを どうか、決して忘れないでください。
(詩編74編23節)
作者は神殿がなくなった今、嘲る敵の手から早く救ってくれるようにと願います。19節に「あなたの鳩の魂を獣に渡さないでください」という言葉があります。ここでの鳩は、イスラエルを意味しています。
鳩は旧約聖書のノアの箱舟の物語の中に出てきます。神さまが起こした洪水によって、地上のものはすべて水の中に沈みます。箱舟に乗ったノアは地表が乾いているのを確かめるため、鳩を窓から放ちます。
鳩は二度目に、オリーブの葉をくわえて帰ってきました。それがノアたちにとって、新しい始まりのしるしでした。神殿がなかったとしても、新たな心で神さまのみ名を賛美することができるように、そうわたしたちも願いたいと思います。
6月 28詩編7518
 地はそこに住むすべてのものと共に 溶け去ろうとしている。しかし、わたしは自ら地の柱を固める。
(詩編75編4節)
「全世界の審判者である神」:この詩はいろいろな類型が混ざっていると言われています。この詩の2節は会衆の賛美です。「あなたに感謝をささげます」と繰り返しながら賛美する。わたしたちもそうなりたいものです。
3節以降は神さまの語りや警告が書かれていますが、一番強く言われているのは「驕(おご)るな」ということです。「驕れる者久しからず ただ春の夜の夢の如し」という平家物語の冒頭を思い出します。
「驕る」とは、地位・権力・財産・才能などを誇って、思い上がった振る舞いをすることです。自分を誇り、自分の力に頼り、自らを高くすることです。そのような人は、神さまの裁きを受けるということでしょうか。
6月 29詩編75911
 すでに杯は主の御手にあり 調合された酒が泡立っています。主はこれを注がれます。この地の逆らう者は皆、それを飲み おりまで飲み干すでしょう。
(詩編75編9節)
昨日の箇所には、驕る者は神さまの裁きを受けるということが書かれていました。人は驕るときに、自分を高く上げます。すると相対的に神さまは下におろされてしまうのです。その行為を聖書では、「傲慢」と呼ぶのです。
神さまの手には、杯があります。この杯は「この地の逆らう者」に対して飲まされるものです。杯の中身は、それぞれの人の運命だという説明がありましたが、裁きの杯という意味も強いでしょう。
本来わたしたちも、この杯を飲まなければならなかった一人ひとりです。しかしイエス様はゲツセマネの園の祈りの中で、ご自分の杯を受け入れられました(ルカ22:42)。そしてそのときイエス様は、わたしたちの杯も一緒に、飲まれたのです。
6月 30詩編7617
 そこにおいて、神は弓と火の矢を砕き 盾と剣を、そして戦いを砕かれる。
(詩編76編4節)
「イスラエルを救う主の怒り」:シオンの歌です。3節にある「サレム」とはエルサレムの古代名であり、「平和」という意味を持ちます。「エル」とは「神」のことですから、「エルサレム」は、「神の平和」となるのです。
神さまは弓と火の矢、盾と剣、そして戦いを砕かれます。兵器を粉砕することによって、シオンに平和の都エルサレムを作られたのです。力で制圧するのではなく、戦いそのものが成り立たないようにされたのです。
聖歌513番の一節にこのようにあります。「主よわが身を とらえたまえ さらばわが心 解き放たれん わが剣を くだきたまえ さらばわが仇に 打ち勝つをえん」。わたしの剣も、砕かれる必要があるのです。本当の平和は、そこから始まるのです。

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