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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2025年6月11日〜20日

6月 11「詩編692029
 人はわたしに苦いものを食べさせようとし 渇くわたしに酢を飲ませようとします。
(詩編69編22節)
エレミヤ書8章14節に、このような言葉があります。「何のために我々は座っているのか。集まって、城塞に逃れ、黙ってそこにいよう。我々の神、主が我々を黙らせ 毒の水を飲ませられる。我々が主に罪を犯したからだ」。
22節の「苦いもの」や「酢」は、激しい痛みや苦しみを与えるものです。この場面では主ではなく人によって、そのような目に遭っているのだと作者は訴えます。この作者もまた、打たれているのです。
そして作者は、敵対する人に対する“裁き”を神さまに訴えます。「命の書」とは、この地上に誕生したすべての人の名が書き記されたものです。そこから抹殺(抹消)されるということは、永遠の命をはく奪されるということです。とても厳しいですね。
6月 12詩編693034
 神の御名を賛美してわたしは歌い 御名を告白して、神をあがめます。
(詩編69編31節)
「われら主を たたえまし 聖きみ名 あがめばや 来る日ごと ほめ歌わん 神にまし王にます 主のみいつ たぐいなし」、これは聖歌317番の1節の歌詞です。わたしたちはいつも、主を賛美しようということです。
ではわたしたちは誰のために主を賛美するのでしょうか。一義的には、自分のためなのでしょう。しかし33、34節にあるように、今、貧しい人や乏しい人にとっても、「神さまが苦しむ人の声に耳を傾けてくださる」ということが希望につながっていくのです。
わたしたちの祈りは、わたしたちに関わる人たちや地域の人たち、また世界の人たちや祈ることの出来ない人たちの分まで、一緒になされます。だから聖公会では「代祷」と呼ぶのです。「代わりに祈る」、「代表して祈る」中で、その誰かを思いながら祈るのです。
6月 13詩編693537
 神は必ずシオンを救い ユダの町々を再建してくださる。彼らはその地に住み、その地を継ぐ。
(詩編69編36節)
ほぼ一週間にわたって読んだ詩編69編も、今日が最後です。今日の詩編の中には、シオンとユダという地名が出てきます。そしてそこが救われ、再建されるという記述を見ると、「この詩編は読むべきではない」と声をあげる人たちがいます。
シオンとはエルサレムのこと、またユダの町々は様々な外敵によって奪われていった場所です。ただどちらの場所も、歴史的には様々な“所有者”があり、それぞれが自分たちの権利を主張しているともいえます。
詩編を読むときに大切なのは、シオンやユダなどという地名が出て来たときに、現在のイスラエルやエルサレムと同一視しないということです。この世のものではない「新しいエルサレム」を思い、祈ることが必要なのではないでしょうか。
6月 14詩編70
 神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。
(詩編70編6節)
「助けを求める祈り」:救いを求める個人の祈りです。表題にある「記念」とは、レビ記にあるささげ物のやり方の記述、「祭司はこの穀物の献げ物から一部を取り分け、しるしとして祭壇で燃やして煙にする(レビ2:9)」の中の「しるし」です。
この詩はほぼ全体が、願いで構成されています。作者は屈辱を受けていました。4節は口語訳聖書ではこのように書かれていました。「『あはぁ、あはぁ』と言う者どもを 自分の恥によって恐れおののかせてください」。
その屈辱の中で、自分は貧しく、身を屈めるしかないことを作者は神さまに伝えます。神さまに依存するしかないのです。そのような思いの中で祈る言葉を、神さまは必ず聞いてくださるのでしょう。
6月 15詩編7119
 老いの日にも見放さず わたしに力が尽きても捨て去らないでください。
(詩編71編9節)
「老人の嘆願と賛美」:救いを求める祈りです。この詩編の9節と18節に「老い」や「白髪」という言葉が出てくるので「老人の嘆願」とされますが、内容的にはキリストの受難にも結びつけられています。復活前火曜日にこの詩編は用いられます。
わたしたち人間は、みんな年を取ります。そのスピードに違いはあるかもしれませんが、わたしも「老い」を感じることがよくあります。走ったらすぐに息が切れるし、お昼ご飯を食べると眠くなります。そして朝は、ものすごく早く目が覚めます。
聖書は「老い」を、「弱さ」と結び付けます。しかし弱いからこそ、神さまに頼ることができるのです。神さまにのみ信頼をおき、すべてを委ねて歩んでいく。その喜びに気づかされるのが、「老い」なのかもしれません。
6月 16詩編711015
 わたしの口は恵みの御業を 御救いを絶えることなく語り なお、決して語り尽くすことはできません。
(詩編71編15節)
今日の箇所の前半で作者は、神さまに見捨てられたと思っていたのかもしれません。神さまが一緒に歩んでいてくれていると思っていたら、そうではないような気がした。わたしたちにもよくあることです。
マーガレット・F・パワーズが書いた「あしあと(Footprints)」という詩をご存知でしょうか。ある人が夢の中で今までの人生の歩みを見たときに、いつもは自分と神さまの二組の足跡があったのに、一番苦しかったときだけ足跡が一組しかなかったそうです。
そのことを神さまに訴えると、こう答えが返ってきます。「あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた」と。わたしたちは人生の中で、何度も神さまを見失います。しかしそのようなときには、神さまはわたしたちをおぶってくださっているのです。
6月 17詩編711624
 わたしが老いて白髪になっても 神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を 来るべき世代に語り伝えさせてください。
(詩編71編18節)
「わたしが老いて白髪になっても」と作者は書きます。人間社会の中では、年を取るとできることが限られ、自分は役に立たないのではないかと考えてしまう人がいます。確かに若い頃のようには動けないでしょう。
そしてこう言わるるのです。「もう、祈ることしかできなくって」と。いやいや、と思います。「祈ること」が一番大切なことだからです。教会とその交わりの中で、必要ない人など存在しないのです。
「神さまは必ず祈りを聞き、わたしを用いてくださる」、その信頼の中で、歩んでいきましょう。そしてその思いを、次の世代にも伝えていくのです。それこそ白髪になって初めて、できることなのかもしれません。
6月 18詩編7217
 王が民を、この貧しい人々を治め 乏しい人の子らを救い 虐げる者を砕きますように。
(詩編72編4節)
「平和の国の永遠の王」:油注がれた王のための祈りです。この詩編は、王の即位式のときに用いられたと考えられています。イスラエルの王は初代サウロ、二代目ダビデ、三代目ソロモンでした。
この詩は「ソロモンの詩」と書かれています。ソロモンが王だった時代、イスラエルは一番栄えていました。そもそもイスラエルは長い間、王を任命してきませんでした。それは本当の王は、神さまだと考えていたからでした。
しかし民の願いにより、神さまはイスラエルに王を立てることを聞き入れます(サムエル記上8:22)。そして王のために神さまにして欲しいこと、また民のために王にして欲しいことを人々は願っていくのです。
6月 19詩編72815
 王が命を得ますように。彼にシェバの黄金がささげられますように。彼のために人々が常に祈り 絶え間なく彼を祝福しますように。
(詩編72編15節)
この詩の作者とされるソロモンは神さまに夢の中で、「願い事があれば、言いなさい。かなえてあげよう」と言われます。みなさんだったら何を願いますが。宝くじがあたること?家族の健康?
ソロモンはそのとき、「聞き分ける心を与え(列王記上3:9)」るように願います。そのソロモンの願いは、神さまの目に適いました。そして神さまはソロモンに、「知恵に満ちた聡明な心」をお与えになったのです。
その名声は広く知れ渡り、シェバ(エチオピア)の女王がソロモンを試すためにやってきます(列王記上10:1〜13)。しかしその知恵に驚いた女王はソロモンに、たくさんの贈り物をします。この詩編の15節に書いてあるのは、そのことを意味しているようです。
6月 20詩編721620
 栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ 栄光は全地を満たす。アーメン、アーメン。
(詩編72編19節)
民は王のために祈ります。それは王といえども人間なので、失敗をしたり罪を犯したりすることもあるからです。ダビデはウリヤの妻バト・シェバを自分のものにするために、ウリヤを戦場の最前線に送って殺してしまいました。
ソロモンは多くの外国人の女性を愛し、神さまから「彼らと結婚してはならない」と命じられていたのもかかわらず、700人の王妃と300人の側室を持ちました。そのような「主の目に悪とされること」を、人間は繰り返してしまうのです。
この詩編72編をもって、第二巻は終わります。18〜19節の祈りが、そのしるしとなります。ダビデを中心とした祈りはここまでです。明日の73編からは、アサフの詩が多く登場します。どのような特徴があるのでしょうか。お楽しみに。

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