6月 1日「詩編67編」 | ||||
大地は作物を実らせました。神、わたしたちの神が わたしたちを祝福してくださいますように。 (詩編67編7節) |
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「豊作を求める祈り」:祝福を求める共同体の歌です。聖公会では礼拝の最後などで、「父と子と聖霊なる全能の神の恵みが、常に皆さんとともにありますように」という祝祷をすることがあります。 | ||||
教派によってはその祈りではなく、「アロンの祝福」と呼ばれるお祈りを用いることがあります。民数記6章24〜26節にあるお祈りですが、詩編67編2節はその祈りが用いられていると考えられています。 | ||||
民が祝福された喜びを、この詩編は歌っていきます。そして祝福を受けたわたしたちは、「ハレルヤ!」とみ神をたたえるのです。聖歌321番「ものみなこぞりて み神をたたえよ」を心から歌いたいと思います。 | ||||
6月 2日「詩編68:1〜5」 | ||||
神に向かって歌え、御名をほめ歌え。雲を駆って進む方に道を備えよ。その名を主と呼ぶ方の御前に喜び勇め。 (詩編68編5節) |
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「主の凱旋行列」:神の勝利と支配です。この詩編はイスラエルの民を率いた主が戦いを経て、聖所へと向かう様子が語られたものです。まるで絵巻物のようにその様子が伝えられています。しかし同時に、全詩編の中で一番意味が分かりにくいという評価もあります。 | ||||
出エジプト記15章には、「海の歌」というモーセの歌が載せられています。エジプトを無事に出ることができた感謝を、神さまにささげる歌です。この詩編は海の歌と類似していると言われます。 | ||||
「雲を駆って進む方(5節)」という表現があります。エジプトを出る際、主なる神さまは、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって民を導きました。その救いのシナリオが、スタートしていくのです。 | ||||
6月 3日「詩編68:6〜9」 | ||||
神は孤独な人に身を寄せる家を与え 捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。背く者は焼けつく地に住まねばならない。 (詩編68編7節) |
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6〜7節には、よるべない者を助けられる神さまの姿が描かれます。「よるべない」とは、寄る辺のない、身を寄せるあてがない、頼りにできる類縁の者がいない、孤独であり不安である、という意味です。 | ||||
神さまは孤独の中、助けを求める人を導いてくださいます。その人たちが平安に過ごせる場所を与えてくださるのです。神の国とは神さまの支配という意味です。誰かにすがるしかない人が平安に生きることができる場所、それが神の国なのでしょう。 | ||||
その神の国が、争いなどで土地を奪う必要もなく、わたしたちの中にすでにやって来ているというのがイエス様の教えです。そしてわたしたちも聖なる宮に組み込まれ、そこに住むことが許されているのです。 | ||||
6月 4日「詩編68:10〜15」 | ||||
主は約束をお与えになり 大勢の女たちが良い知らせを告げる (詩編68編12節) |
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昨日読まれた8節から今日の15節までの中に、様々なことが書かれています。まず11節までには、神さまのみ姿がどのように人々に知られるようになったのか書かれています。10節には「あなたは豊かに雨を賜り」とあります。 | ||||
6月に入り、梅雨の時期が近づいてきました。もしかするとすでに入っているかもしれません。梅雨になると草花は元気になり、公園の鹿たちもうれしそうです。イスラエルは乾燥地帯ですので、雨の恵みはわたしたち以上に感じるでしょう。 | ||||
雨によって地を再生させることを、「約束の地」に入る理由にもしているようです。今日の箇所の後半には約束の地に入る戦いや、勝利して土地を得る場面が描かれます。ただ「争い」による取得は、わたしたちにとっては違和感のあるところですが。 | ||||
6月 5日「詩編68:16〜19」 | ||||
主よ、神よ あなたは高い天に上り、人々をとりことし 人々を貢ぎ物として取り、背く者も取られる。彼らはそこに住み着かせられる。 (詩編68編19節) |
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凱旋パレードに行かれたことはあるでしょうか。といってもわたしたちの身近では、スポーツなどで好成績をあげたチームなどがおこなうことが多いようです。昨年は横浜DeNAベイスターズがパレードしていました。(中日ドラゴンズのパレードはいつの日か) | ||||
聖書の時代の凱旋パレードは、ほぼ戦争に関係しています。「神の戦車は幾千、幾万 主はそのただ中にいます」とあるように、人々はその「勝利者」をほめたたえ、歓喜の声をあげるのです。 | ||||
主が凱旋することによって、その場所は「神のいます場所」となります。主はこうして、エルサレムを神の住まいとされました。しかしその場所は、今も争いの火種になっています。本当にそこに神はいるのでしょうか。 | ||||
6月 6日「詩編68:20〜28」 | ||||
聖歌隊によって神をたたえよ イスラエルの源からの主を。 (詩編68編27節) |
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いよいよ神の勝利の行進です。旧約聖書には契約の箱が幕屋に運ばれたという記述がありますが、そのようなことをイメージすればいいと思います。さて聖公会では、2006年に新しい聖歌集が発行されました。 | ||||
それまでは「古今聖歌集」が使われていましたが、そこにはあったけれども新しい聖歌集には入れられなかった曲もあります。「立てよいざ立て主のつわもの」や「みよや十字の旗高し」が有名なところです。 | ||||
いずれの曲も「神の勝利」をイメージして歌われているものですが、あまりにも「戦い」が表に出ているので選ばれなかったのだと思います。しかしあくまでも「主の戦い」であって、実際のものとは違うことも覚えておきましょう。たまに歌いたくなります。 | ||||
6月 7日「詩編68:29〜36」 | ||||
神よ、あなたは聖所にいまし、恐るべき方。イスラエルの神は御自分の民に力と権威を賜る。神をたたえよ。 (詩編68編36節) |
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68編も今日が最後です。今日の箇所では前半で礼拝者が神さまのみ力を祈り、後半では神さまによる統治をほめ歌います。イスラエルの人々にとって、エジプトから神さまが逃れさせてくれたということは、永遠に語り続けるべきことなのです。 | ||||
日本でいえば、日本書紀や古事記のようなものでしょうか。ただわたし自身も、その内容を詳しく知っているわけではありません。ネットでその内容を見ても、何が書かれているのかよく分からないのが現実です。 | ||||
イスラエルの人たちは、出エジプトの出来事を家族に伝えていきました。父から子たちへ、必ず伝えるものとして、大切にしてきたわけです。内容には偏りがあるものの、その信仰と自分たちのアイデンティティを守ろうとする姿勢には頭が下がります。 | ||||
6月 8日「詩編69:1〜5」 | ||||
理由もなくわたしを憎む者は この頭の髪よりも数多く いわれなくわたしに敵意を抱く者 滅ぼそうとする者は力を増して行きます。わたしは自分が奪わなかったものすら 償わねばなりません。 (詩編69編5節) |
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「悩める僕の嘆願」:救いを求める祈りです。この詩編は詩編第22編とよく似ていると言われています。そのためイエス様の受難を覚えて読むこともあります。聖公会でも、復活前水曜日や受苦日に選べるようになっています。 | ||||
苦しみの中で作者は、神さまの助けを待ち望みます。彼には頼るものがなく、死の力に苦しめられています。詩編に出てくる大水や深い沼という言葉は、死を思い起こさせる隠喩表現になっています。 | ||||
詩編22編も「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という神さまの不在を嘆く言葉から始まります。イエス様も十字架上で、その詩編を引用されました。そこに神はいるのでしょうか。 | ||||
6月 9日「詩編69:6〜13」 | ||||
あなたの神殿に対する熱情が わたしを食い尽くしているので あなたを嘲る者の嘲りが わたしの上にふりかかっています。 (詩編69編10節) |
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先日天に召されたローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇は、2018年3月4日の「お告げの祈り」でこう言っています。「この詩編は、敵対者の憎悪によるきわめて危険な事態にあって助けを請い求める祈りです」と。 | ||||
この詩編とは、詩編69編10節の「あなたの神殿に対する熱情が わたしを食い尽くしている」という箇所のことです。イエス様が神殿から商人を追い出した記事の中でも、この箇所を弟子たちが思い起こす記述がありました(ヨハネ2:17)。 | ||||
神殿での熱心な祈りが実を結ばない。断食しても、粗布を身にまとっても、嘲られ、侮辱されている。しかし正しい者に、神さまは必ず目を向けてくださるのです。そのことをわたしたちも信じていきたいと思います。 | ||||
6月 10日「詩編69:14〜19」 | ||||
泥沼にはまり込んだままにならないように わたしを助け出してください。わたしを憎む者から 大水の深い底から助け出してください (詩編69編15節) |
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作者は「御顔をわたしに向けてください」と祈ります。旧約の時代、神さまの顔を見てしまうと死んでしまうと思われていました。神さまのみ使いや天使であっても、同じだと考えられていました。 | ||||
しかし顔と顔を合わさないまでも、神さま、こちらを向いてくださいよというのが彼の祈りなのでしょう。以前、ある修養会で、イエス様のまなざしについてイメージの分かち合いをしたことがあります。 | ||||
弟子として漁師を招かれたとき、べトロに「退けサタン」と言われたとき、ゲツセマネの園で眠る弟子たちを見るまなざし、そして三度イエス様を知らないと言ったペトロを見る目。御顔を向けたイエス様は、どのようなまなざしで彼らを見ていたのでしょうか。 |