5月 21日「詩編62:1〜7」 | ||||
わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。 (詩編62編6節) |
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「神への信頼」:その表明です。表題にあるエドトンは前(39編)にも出てきましたが、ダビデ宮廷の音楽指揮者の一人です。作者はこの詩編の中で、私たち人間と神さまとの関係を示しているようです。 | ||||
「わたしの魂は沈黙して」と作者は書きます。沈黙とはただ単純に言葉を発さないということではありません。恐れや不安、心配事などをすべて神さまに委ね切った状況を指します。「自分の力」をまったく手放すわけです。 | ||||
そのときに初めて、神さまのわたしたちに対する姿が見えてくるのです。神さまは岩であり、救いであり、砦の塔です。これこそが作者が知った神さまの姿であり、そしてわたしたちにも示されているものです。 | ||||
5月 22日「詩編62:8〜13」 | ||||
暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。 (詩編62編11節) |
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いくら神さまに信頼していても、わたしたちは人間的な振る舞いをなかなか手放すことができません。暴力に依存し、搾取さえしてしまうわたしたちの姿は、本当に空しいものだと思います。 | ||||
イエス様はルカによる福音書12章15節で、このように語られました。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と。 | ||||
しかし力も、慈しみも、すべてわたしのものであると神さまは語られます。わたしたちはそれらにしがみつくことから解放され、神さまを唯一の避けどころとして歩みましょう。自分の力に頼る必要はないのです。 | ||||
5月 23日「詩編63:1〜4」 | ||||
神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは 乾ききった大地のように衰え 水のない地のように渇き果てています。 (詩編63編2節) |
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「神へのあこがれ」:救いを求める祈りです。この詩は詩編の中でも、最も神さまに親しく話しかけていると言われます。ダビデにはサウル王から逃れ、荒れ野で過ごさないといけない時期がありました。 | ||||
そのときに彼は、神さまの不在を感じ、魂の渇きや飢えを経験したかもしれません。しかし同時に、神さまなしでは生きることのできない自分の魂に気づかされていったのではないでしょうか。 | ||||
この詩は、教会の中でも重んじられてきたそうです。わたしたち自身、魂の渇きを覚え、神さまがそばにいてくださることを疑う日々かもしれません。その時にこそ、この詩を思い出しましょう。 | ||||
5月 24日「詩編63:5〜12」 | ||||
床に就くときにも御名を唱え あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。 (詩編63編7節) |
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日本聖公会聖歌集には、「就寝前の祈り」というカテゴリーの曲が5つ収められています。しかし宿泊を伴う黙想会やキャンプでもしない限り、一緒に歌う機会は限られているため、あまり知られていないかもしれません。 | ||||
その中に、42番「主の みそばに」という歌があります。その曲の中におりかえし(リフレイン)があります。その歌詞は「主の み恵みに感謝して 力の主をたたえ 新たな朝を迎えるまで すべて主にゆだねる」となっています。 | ||||
床に就いたとしても、祈りつつ夜を過ごすと誓う作者のように、わたしたちも常に神さまを賛美したいと思います。「乳と髄」とは、一番美味しいところを指すそうです。それくらいのもてなしを、わたしたちはいつも神さまからいただいているのです。 | ||||
5月 25日「詩編64:1〜5」 | ||||
わたしを隠してください さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。 (詩編64編3節) |
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「迫害者に対する神の報い」:救いを求める祈りです。4節に、「彼らは舌を鋭い剣とし 毒を含む言葉を矢としてつがえ」という言葉があります。舌が剣、言葉が矢としてたとえられています。 | ||||
言葉による攻撃が、人の心を貫いてしまうことがあります。「心無い言葉」だけではなく、「そういうつもりで言ったのではない言葉」も時として、剣や矢として人を傷つけ、心を破壊してしまうことがあるのです。 | ||||
そのような「敵意」から神さまが守って下さるようにと、作者は祈ります。しかし同時に、わたしたちの言動もまた、「敵意」として裁きの座に乗せられるかもしれないことを心に留めたいと思います。 | ||||
5月 26日「詩編64:6〜11」 | ||||
主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い 心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。 (詩編64編11節) |
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詩編には多くの「救いを求める祈り」が出てきます。人が神さまを求める大きな理由は、そこにあるのだろうと思います。旧約聖書の時代、神さまは救いを与える代わりに、「律法」と呼ばれる掟を守るように命じました。 | ||||
しかし人は自分の力で神さまの前に正しくなることはできませんでした。約束を反故しておいて「お救いください」というのは、本来おかしな話です。けれども神さまは、すべての人を救うためにイエス様をお遣わしになったのです。 | ||||
人々が詩編の中で望んでいたような形で、救いは訪れなかったかもしれません。特に「敵」と呼ばれる存在についても、神さまは赦そうとされています。その中においてもわたしたちは、神さまの救いを喜びをもって受け入れたいと思います。 | ||||
5月 27日「詩編65:1〜5」 | ||||
いかに幸いなことでしょう あなたに選ばれ、近づけられ あなたの庭に宿る人は。恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって わたしたちが満ち足りますように。 (詩編65編5節) |
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「恵みの雨と豊作の感謝」:喜びあふれる賛歌です。この詩は3つに分けられます。5節までは「神殿の神として神を賛美する」、6〜9節では「世界の神として神を賛美する」、そして10節以降では「全地の神として神を賛美する」という内容です。 | ||||
今日の「神殿の神として」という部分は、聖歌301番の中に引用されています。この聖歌は、礼拝堂聖別式のときに用いられるものです。ですからなかなか歌う機会はないと思います。 | ||||
この曲の中で大切なのは、礼拝の中で歌われる賛美が正しくふさわしいささげ物になるということです。「聞きたまえ 感謝の歌」、「この御堂に集う人に 導きと恵み与え 愛の満ちる祈りの家と なさせたまえ」との思いが必要なのです。 | ||||
5月 28日「詩編65:6〜14」 | ||||
牧場は羊の群れに装われ 谷は麦に覆われています。ものみな歌い、喜びの叫びをあげています。 (詩編65編14節) |
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今日の箇所では、世界の神として、また全地の神として、主を賛美していきます。教会の中で、神さまから与えられたものに感謝をささげる礼拝があります。その中の一つが収穫感謝礼拝です。11月の終わりごろにおこなうことが多いようです。 | ||||
その礼拝で用いるのにふさわしい聖歌がいくつかあります。その中の一つ、212番を紹介したいと思います。「人は耕し 種蒔き育て 主は日を照らし 雨を降らせて 地の産物は豊かに実る」という3節の歌詞は、詩編65編10〜14節が元になっています。 | ||||
神さまはわたしたちに地の恵みを与え、わたしたちを豊かに養ってくださるということに感謝し、賛美しているのです。この聖歌の作詞者は古本純一郎主教、みさ司祭の父親です。その詩の中に、すべてのものは必ず与えられるという信仰が読み取れます。 | ||||
5月 29日「詩編66:1〜9」 | ||||
神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った。それゆえ、我らは神を喜び祝った。 (詩編66編6節) |
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「民の感謝の歌」:12節までの前半は共同体によるほめたたえの賛歌、13節以降の後半は個人による賛歌となっています。特に前半部分は、巡礼者が集まるような祭り(礼拝)の中で用いられていたようです。 | ||||
3節に「御業はいかに恐るべきものでしょう」という言葉があります。それほど恐ろしい御業とは何でしょうか。イスラエルの人たちにとって、出エジプトの出来事はとても恐ろしいものでした。 | ||||
特に紅海が二つに割れて、その間をエジプト軍から逃れるイスラエルの人たちが歩いて渡った奇跡は、大切に語り継がれていきました。そして神さまを畏れることの大切さを、彼らは伝えていったのです。 | ||||
5月 30日「詩編66:10〜15」 | ||||
人が我らを駆り立てることを許された。我らは火の中、水の中を通ったが あなたは我らを導き出して 豊かな所に置かれた。 (詩編66編12節) |
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わたしたち聖公会では、主日(日曜日)の聖餐式で用いる聖書箇所が決められています。教会暦(教会のカレンダー)に基づいて、3年周期でどの箇所を読むのかが定められています。 | ||||
クリスマスやイースター、ペンテコステのときにはその箇所が読まれ、アドベントやレントのときにもふさわしい箇所が選ばれます。それは礼拝の中で、神さまがわたしたちのためになさってくださったことを、何度も想起することを大切にしているからです。 | ||||
この詩編66編にも、「我らは火の中、水の中を通ったが あなたは我らを導き出して」という一文があります。この言葉を唱えながら、出エジプトでの出来事を思い起こしていくのです。そしていつまでも忘れずに、心に刻むのです。 | ||||
5月 31日「詩編66:16〜20」 | ||||
しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け 聞き入れてくださいました。 (詩編66編19節) |
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「わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう」と作者は書きます。これはいわゆる「証し」というものです。キリスト教の教会の中でも、礼拝の中で「証し」をすることを大切にしている教派があります。(聖公会ではあまり見られませんが) | ||||
人々は集まり、神さまのみ業を告白し合っていたようです。神さまはどのように自分たちに関わってくれたのか。どのようなときに自分は神さまの愛に気づかされたのか。どうやって悲しみから立ち直ることができたのか。 | ||||
様々な出来事の中で神さまを感じ、祈る声に神さまが耳を傾けてくださったことを感謝する。わたしたちの間でも、大切にしたいことです。教会の中でも気軽に、「証し」し合うことができればよいですね。 |