本文へスキップ


日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2025年5月11日〜20日

5月 11「詩編561014
 あなたは死からわたしの魂を救い 突き落とされようとしたわたしの足を救い 命の光の中に 神の御前を歩かせてくださいます。
(詩編56編14節)
11節に、「神の御言葉を賛美します。主の御言葉を賛美します」という信仰の表明がでてきます。ここでいう「御言葉」とは具体的に、どのような言葉でしょうか。それは聖書に書かれています。
「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。(イザヤ書41章10節)」のように、「恐れるな」という呼びかけが出てきます。
そしてその後には、「共にいる」という神さまの約束があるのです。その言葉を信じているから、わたしたちは神さまに拠り頼むことができるのです。そしてその感謝の礼拝をささげるのです。
5月 12詩編5716
 憐れんでください 神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし 災いの過ぎ去るまで あなたの翼の陰を避けどころとします。
(詩編57編2節)
「救いの曙を求める祈り」:救いを求める祈りです。表題に「滅ぼさないでください」と書いてありますが、58、59、75編にも同じ言葉が出てきます。これは詩の題名だと考えられています。
他にも、「民を滅ぼさないでください」という意味だとする説や、詩を書き写した人が「この詩を捨てないでください」という意味で書き足したという説もあります。ダビデがサウルを逃れて洞窟にいた物語は、サムエル記上22章1節および24章3節に書かれています。
詩の作者は、神さまに憐れみを繰り返し求めていると同時に、「避けどころ」を必ず与えてくださるという確信を表明します。洞窟の暗闇の中にも光が届けられることを、わたしたちも信じていきましょう。
5月 13詩編57712
 わたしの魂は屈み込んでいました。彼らはわたしの足もとに網を仕掛け わたしの前に落とし穴を掘りましたが その中に落ち込んだのは彼ら自身でした。
(詩編57編7節)
作者は「目覚めよ、わたしの誉れよ 目覚めよ、竪琴よ、琴よ」と祈ります。日本聖公会の聖歌集には、「朝の礼拝」というカテゴリーの歌が17曲収められています。その中の聖歌3番の1節は、詩編57編9節を元に作られています。
「起きよ わが心 朝日に照らされ 喜びの歌を み前にささげよ」というこの歌は、暗闇からの救出を願う思いが込められています。昨日の表題にあったように、この詩はダビデがサウルを逃れて洞窟にいたときのものです。
7節で作者は、敵対する者は必ず破滅すると書きます。そして曙を呼び覚まそうと決意します。曙とは救いの時のことです。作者は「心を確かに」と二度繰り返します。朝日を待ちながら、賛美の歌を歌い続けるのです。
5月 14詩編5816
 神に逆らう者は 母の胎にあるときから汚らわしく 欺いて語る者は 母の腹にあるときから迷いに陥っている。
(詩編58編4節)
「不正な裁判官を訴える」:主の公正を求める祈りです。この詩も57編に続き、「滅ぼさないでください」という言葉が表題にあります。「公平な裁き」や「不正」、「不法」という言葉は、法廷用語を思い起こさせます。
今日の箇所の後半部分には、神さまに逆らう悪人たちの描写があります。そこに出てくる蛇は、アダムとエバがエデンの園から追放された物語に登場します。神さまはそのときに、「お前は、生涯這いまわり、塵を食らう」と蛇に告げます。
そのような「悪」が幅を利かせるこの世界に、力なき人たちはジレンマを抱きながらも、神さまの裁きに望みを掛けます。ただコブラが近くにいると、恐ろしくて祈りにも集中できないかもしれません。
5月 15詩編58712
 人は言う。「神に従う人は必ず実を結ぶ。神はいます。神はこの地を裁かれる。」
(詩編58編12節)
昨日の箇所で、蛇やコブラが出てきました。作者はその口から、歯を抜き去るように願います。うちにはトイプードルがいますが、何度が噛まれたことがあります。「この子の歯(牙)が抜けたらいいのに」、かわいそうですがそう思ったこともあります。
ただ今日の箇所に出てくる「敵に対する報復」については、とても残酷な表現が続きます。もし敵対する人が「なめくじのように溶け」たとしたら、そのときにわたしたちは喜べるでしょうか。
神さまはわたしたちの間を裁かれるというのが、聖書の伝えるところです。わたしたちに「自分は正しい」という確信があれば、それでいいでしょう。しかし自分がこのような報復を受ける立場かもしれないと考えたときに、今日の箇所はとても恐ろしいものとなります。
5月 16詩編59110
 わたしの力よ、あなたを見張って待ちます。まことに神はわたしの砦の塔。
(詩編59編10節)
「血に飢えた敵からの助けを求める祈り」:救いを求める個人の祈りです。「サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき」とは、サムエル記上19章11〜17節にある物語です。
イスラエルの最初の王サウルはダビデに敵意を覚え、殺害しようと企てます。このときもサウルはダビデを殺そうとしますが、ダビデの妻でサウルの娘だったミカルがダビデを窓からつり降ろし、彼を避難させます。
そのようにいつも待ち伏せされ、身構えられているような自分を、神さまは必ず助け出してくださるのだという信頼をここでは語ります。神さまはわたしたちの「砦の塔」として、救い出してくださるのです。
5月 17詩編591118
 わたしは御力をたたえて歌をささげ 朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。あなたはわたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場。
(詩編59編17節)
今日の箇所の17節から、とても有名な歌が作られました。聖歌15番「来る朝ごとに」です。「来る朝ごとに 朝日とともに 神の光を 心に受けて みいつくしみ(御慈しみ)を 新たにさとる(1節)」。
この歌詞を受け、2節以降にはわたしたちは神さまの恵みをどのように感じ、そしてどのように生きていくとよいのかが歌われていきます。「朝ごとに」、わたしたちは神さまに向きあっていくのです。
詩編の多くは、イスラエルの人たちがバビロンに連れて行かれた「捕囚時代」にも読まれていました。彼らは「国」という避けどころを持たない中で、神さまにすべてを委ねていくのです。
5月 18詩編6017
 あなたは大地を揺るがせ、打ち砕かれた。どうか砕かれたところを癒してください 大地は動揺しています。
(詩編60編4節)
「敗戦後の新たな希望」:救いを求める共同体の祈りです。「ゆりに合わせて」という表題は45、69、80編にも出てきます。「ゆり」は神殿の柱頭の上に飾りとして刻まれた花ですので、とても大切なものでした。
また表題の「教え」は「諭し」とも訳され、この詩は記憶すべきものだという意味として理解されています。そして2節の「ダビデが…塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき」というのは、ダビデの戦果でした。
サムエル記下8章3〜8節、10章6〜19節、歴代誌上18章12〜15節などに書かれているいわゆる「戦勝の記録」を覚えることによって、万軍の主がわたしたちの代わりに勝利して下さることを信じる、少し恐ろしい考え方です。
5月 19詩編60814
 どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。
(詩編60編13節)
詩編の中には、いわゆる“民族主義”的なものが見られます。この詩編60編もその一つだとされます。これらのものは「聖戦の神学」と呼ばれることもあり、考え方によっては危険なものです。
8節から10節は共同体の祈りに対する神さまの応答です。神の民は今、辛苦をなめているが、神自らが出陣し、それらの敵から解放してくれる、そのようなことですが、そこに元々住んでいた人たちにとってはたまったものではありません。
聖公会では朝夕の礼拝や聖餐式で、詩編を読む場面があります。しかしこの詩編60編を含め民族主義が色濃く出ている詩編は用いなくてもよいことになっています。それでも朝夕の礼拝で、「えっ?」と思う表現の詩編が読まれることもありますが。
5月 20詩編61
 心が挫けるとき 地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上に わたしを導いてください。
(詩編61編3節)
「逆境にある王の祈り」:救いを求める祈りです。サムエル記下15〜19章には、ダビデ王がその子アブサロムの反逆にあい、エルサレムを追われアナハイムに逃れた物語が書かれています。
ダビデはひたすら逃げ続け、性も根も尽き果てます。3節の「地の果てから」という表現は、そのような状況を示します。しかしその中で彼は、「高くそびえる岩山の上に わたしを導いてください」と祈るのです。
この言葉は、自分にはとても見いだせないような安全な場所にわたしを至らせてくださいという意味です。神さまこそが災いからの避けどころであると信じているからこそ、この祈りができるのです。

バナースペース

勤務地:日本聖公会 奈良基督教会
 教会HPはこちら

〒630-8213
奈良市登大路町45

TEL 0742-22-3818

牧師:司祭マタイ古本靖久
副牧師:司祭エレナ古本みさ